第6話:わたしのかみさま
「!?」
足場にしていた網の橋も、手すりにしていた縄も突如として消失する。
支えるものを一切失ったヒーエが、七色の竜巻に巻き込まれながら落ちていく。彼女は突然の出来事に声を上げた。
しかしヒーエは霧の底へ引きずられながら、数多の色をした笑い逆巻く風に、真円の大穴が穿たれるのを確かに目にした。
その途端、ヒーエは自分がどこかに身を横たえていることに気付く。
落下はしていなかった。床がある。木の床だが、継ぎ目はない。ひどく広い木の板の上にいるようだ。
周りはやはり白い霧だったが、その霧の奥深くへ、色の付いた風が去っていくのを彼女は見る。
そして、その去った風とヒーエの中間あたりに、真っ黒な球が浮かんでいた。
森の中を彷徨っていた時、ヒーエをあの小部屋へ誘ったあの球体だ。
その球はわずかに身震いし、そして一瞬で消え去った。
何がなんだか、ヒーエは困惑しながら立ち上がる。
そんなヒーエに、はらり、と紙片が霧中のどこからか舞ってやってきた。彼女はそれを思わず拾い、読む。
『七色の魔剣がご迷惑をお掛けして申し訳ありません。彼奴は悪戯好きでして、只今、黒の魔剣が叱り付けました』
文章の書かれた紙はヒーエが読み終えるのと同時、ぼろぼろに乾いて崩れ散った。
そしてすぐ、頭上から別の紙が舞い降りてくる。
『魔剣達は使い手がいなくなった為、当館の用心棒を任しているのですが、七色の方は不真面目な気質をしております。親友である黒の魔剣の言うことしか聞きません。御客様に不愉快な思いをさせ、深くお詫び申し上げます』
「魔剣……」
見慣れない単語だ。
しかしここがヒーエの想像通り死後の世界だとすれば、何が現れても不思議ではない気がした。
そう考えると、彼女の頭の中は不思議と冷静になる。辺り一面を覆い隠す霧の白さが、ヒーエの心に落ち着きを与えた。
ここはどこ?
心の中でヒーエは呟く。だが胸裡さえこの場所では読み解かれてしまうように、例の紙片が朽ちて消え、新たな紙が現れた。
『御足労お掛けしました。主人の間へようこそ。主、輝きの霧が間も無く参ります』
その文をヒーエが目にしたのと同時だった。
濃霧が発光する。
曖昧な明るさを保っていた白い霧の中に、幾つもの光点が現れた。
それらの小さな光は急激に大きさを増し、ヒーエの前後左右、そして頭上を輝きで満たしていく。強烈な光は忙しく明滅を繰り返し、ヒーエの視界を灼いた。その烈光の群れに彼女は思わず目を細め、手をかざす。
無数の白光を含んだ濃霧が流動し始めた。
霧自体はヒーエを中心に円を描くように動いているが、輝点の群れ群れはその場から移動しない。光を大きく膨らませたかと思えば、またすぐ見えないほど小さくなり、そして再び輝きながら膨張する。
その光はヒーエの足下へ波のように走り、彼女の視界から木床を覆い隠してしまった。
すると、それまでヒーエが感じていた硬い床の感触が不意に無くなってしまう。しかし先ほどのような落下感は生まれない。まるで見えない何かに足を支えられ、それで白い光の虚空に浮かんでいるようだった。
事実、ヒーエは下方へ落ちることなくその場に留まり続けている。
妖しい光と霧に周囲全てを取り囲まれながら、ヒーエは口を開いた。
「……あなたは、だれ?」
その返答は、言葉ではなかった。
散らばっていた無数の光が、幾つかの箇所に群集していく。そしてそれぞれが忙しなく明滅した。その白光はヒーエにとって激しい閃光であったため、彼女は再び手をかざしてそれを遮る。
ヒーエの問いかけに対し、光だけが応答していた。だが彼女には、その光が何を意味するのか分からない。実質応えが得られないヒーエは、困惑とともに周りの濃霧を眇める。
そうしていると、霧の激しい発光が徐々に淡いものへ弱まっっていった。
それに伴うように、霧の中から新たな紙片がはらりと流れてくる。ヒーエはその紙を掴み取り、そこに記されたものを読む。
『主は申しております。我は輝きの霧である、と。貴方は死に、その未練が主の目に留まりました。その為、貴方を当館に招いた次第であります』
「未練?」
ヒーエはその文言に顔をしかめた。それは確かに、ヒーエが先ほど胸の中に抱いたものだ。
七色の魔剣が出現し、縄の橋から突如としてこの部屋へ移動した驚きで忘れていた。だが、その二文字の単語を見て、再び彼女は思い出す。
自分の、最期を。
「もし私に未練があったとして、それならあなたはどうすると言うの?」
光がまたもや明滅した。おそらくこの光がこの霧の言語なのだろう、とヒーエは思ったが、自分に解読できるわけもない。霧が語り終える、つまり白い光が弱まることしかヒーエには出来なかった。
そして待っている間、手にしていたはずの紙がどこにもないことに気付いたが、ヒーエは別段気にしなかった。おそらく、次の紙、霧の言葉を人語に訳した文書がやってくるはずだ。
はたしてその通りになった。霧の明滅が終わると同時、霧の中から新たな紙がヒーエの元に届けられる。どこから届いたのかは、彼女には理解できなかったが。
『主は申しております。そなたの願いを叶えよう』
「願い……」
ヒーエは少しだけ考え、再び問いかける。
「あなたは、森の神を知ってる?」
霧は輝きを繰り返し、そして紙が舞い降りた。応えが記されている。
『主は申しております。識ってはいない、目にしたこともない、しかし我が知識と見聞のみで宇宙があるわけでない、と。主が知らないことはこの世に無い、というわけではないのです』
訳語にはそう書かれていた。
「いるかもしれないし、いないかもしれない。少なくとも、あなたは知らないということね」
では結局、父の創作と大した差はない、とヒーエは思った。
私の未練とは、何だったのだろう。
彼女は思い返す。
自分の信仰は、虚構の上に成り立ったものだった。父親の言うことを真に受けて育ち、全てを嘘に捧げて死んだ。
そうだ、許せなかったのだ。ヒーエは思い出す。
騙されたこと、そして自分の生死が無意味だと断じられたことを、ヒーエは許すことが出来なかった。それは強い怒りの感情に似ていた。吹き荒ぶ嵐のような気持ちが、ヒーエを揺さぶる。
ヒーエは輝きの霧に言った。
「いるのかもしれない、いないのかもしれないと言うのなら、いるようにして。あなたが、創って。森の神様を。出来るのであれば」
霧が輝く。それはこう言っていた。
『森の神を創造することは可能である。しかし、その神を信仰する人間はそなた一人だ。そしてそなたは死んだ。森の神を信仰する人間はこの世にいない。創造したと同時に、その神は忘れ去られてしまう。それでも良いか』
「良い」
ヒーエは応える。
「森の神様がいれば、私の死を捧げることができる。村は豊かになるし、みんな私のことを忘れない」
そして、と彼女は続けた。力と重さを込めて、言う。
「もし私が生きてしまったら、村を、滅ぼして」
白い霧は輝かない。ヒーエを待っていた。ヒーエも、自分が言葉にするべきものがあることを理解していた。
それは彼女の中でさざめきながら集まり、組み上がっていく。煉瓦を積み上げて出来上がる尖塔のように高く伸び、ついにヒーエの魂の天頂へ辿り着く。完成した。
人ならざるものへ、ヒーエはその言葉を告げた。
「私は死んだ。だから、神様が必要なの」
彼女は願う。
「神様のために死ぬんじゃないの。私の死のために、神様が要るの。私に神様をちょうだい」
霧が、輝く。
同時に白い靄と煙は複雑に流動を始め、その流れが異様に細かく別れていった。白い無数の流れは糸に似たものへ変わり、布を織るかのように重なり合っていく。
これまでヒーエが見たことのない、動物にも植物にも似ていない奇妙な模様が、その霧の布に浮かび上がる。そして模様の上を、星屑のような光の粒は遊ぶように飛び交った。
それはまるで、白く輝く不可思議な布で出来た幕屋だった。
その屋内の天井から、紙が舞い散る。小さな紙片が、無数に。紙吹雪。
全ての紙に、短い文章が記されていた。
『主は申しております。聞き届けたり、と』
ヒーエはそれを読む。
そして、彼女の視界を白光が灼いた。白い狭霧の中を惑っていた光の粒子たちが、全て膨張を始める。光は全てを白く、白く染め上げた。
ヒーエの意識も、そこで漂白される。白に、おちた。
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地に、足が付いていた。
気付けばヒーエは夜の中に立っている。静々と降り注ぐ月光の下、彼女は大地をその両足で踏みしめていた。
ヒーエは周りを見渡す。
周りは闇だ。冷たく湿った、馴染みのある森の風が顔に吹き付けてくる。月の光に目がだんだん慣れていくと、彼女が自分が屋外にいることを知った。
周囲に、まばらだが家々が並んでいる。それらの家を通り抜ける細い道の交差路に、ヒーエは立っていた。あの青い外套を着込んだままの姿で。
視界の家々に、彼女は見覚えがある。ここはヒーエの村だ。
しかし、雰囲気がおかしい。
強い違和感がヒーエを襲う。見知っているが故に、彼女にはそれを顕著に感じ取ることが出来た。なにかおかしいのかすぐには分からなかったため、ヒーエはなんとなく、手近な家へ近付いていく。
その時になって、彼女は自分が靴を履いていることに気付く。粗雑な布を縫い合わせただけの粗末な靴は、確かに自分の靴だった。そしてその靴から、月光によってヒーエの影が伸びている。
彼女は思わず自分の胸を手で押さえる。心臓の鼓動が感じられた。
自分は、生きている。
そのことを知ったのと同時に、彼女は自分の右手の手首に、紐が巻かれていることに気付く。
青みがかった緑色の紐飾りだ。手首を二周してなお余っている。その余った部分は剣に似た形に織られていた。
その緑の紐へ意識を向けていると、彼女は家の前に着いた。
先ほどからヒーエを苛んでいる違和感の正体が、すぐに分かる。
その家は廃墟だった。
木造の家の壁は苔が群生し、戸口は蝶番が錆びて崩れかけている。
家の中は倒れた家具や建材がひしきめ、それを覆い隠すように雑草が生い茂っていた。屋根は風雨に浸食され、今にも落ちてきそうだ。
人はいない。
隣に設けられた家畜小屋へヒーエは行ってみるが、やはり一匹も見当たらなかった。
彼女は村の中を歩いた。
どの家も廃屋と化している。人間も家畜も見つからない。
そうして歩むうち、ヒーエは村の共同広場へ出る。村の中心にある、大きな広場だ。村の行事や祭事はたいていそこで行われる。何かが催される場合には机や椅子、敷布が置かれるが、普段は何もない広場だった。
しかし今、ヒーエの目の前にある共同広場は、あるもので完全に占領されていた。
墓石だ。
自然石をぞんざいに横長の長方形に近づけたような、稚拙なつくりの墓標。それがやはり雑草の繁茂する広場へいくつも置かれている。
墓碑銘を読み解くと、その墓石は一家でひとつの墓になっているようだ。ヒーエ以外の村人が信じていた神を象徴する意匠を彫られ、墓の下に埋められた家族の名前が刻まれている。
共同広場は、墓所へ変貌していた。
その共同墓地の手前、墓標群を統べるかのように、ひときわ大きな碑石が置かれている。
そこには、こう記されていた。
『疫病により主の御許へ旅立った者達の霊、ここに眠る』
月明かりの下で、目を細めてヒーエはそれを読む。
そして理解した。
村は、滅んだ。
ヒーエは生きている。
「……」
彼女は歩き出した。ある墓を探して。
それはすぐに見つかった。村長の家の墓だ。墓石の群れの最初に位置していた。
その墓碑銘に、ひとりの男の子の名前を見た。
彼も、死んだ。
死んだ。
「……私が殺した」
ヒーエは呟く。
これが自分の望んだことだと、彼女は理解していた。村を滅ぼして欲しいと願ったとき、頭に浮かんだのはラサギの顔だった。自分が生き残ることは、彼を殺すことに等しいと、ヒーエは分かっていた。
それでも、願った。
そしてそれは叶った。
ヒーエは、笑った。
「これが私の生だよ、ラサギ。私の神様なんだよ」
墓石を撫でる。出来る限り優しく。悲しみは、あった。けれどもそれ以上に喜びが勝っていた。
彼の霊魂は、恨んで私の前に現れるかもしれない、とヒーエは思った。村人の中では彼だけが、ヒーエの教義を知っていた。
だが、現れたのはラサギの怨霊ではなかった。
不意に、鬼火が虚空に現れる。
「っ!」
それは共同墓地の中央に出現した。人の頭ほどの、空中に浮かぶ火炎だった。橙色の炎が、周囲の墓達を赤々と照らしている。
その火炎は身じろぎするようにゆらりと揺れると、粘つくような声を発し始めた。
「……ヒーエ。俺の娘、何故、生きている」
その声と言葉に、ヒーエは驚いた。
「父さん?」
「お前は、俺のついた嘘の教えと共に死ぬべきだった。お前が死のうが生きていようが、この村には何の関係もないはずだった。塵のように消えるはずだった」
なのに、と火炎が言う。
「お前は生きて、そして村が滅んだ。まるで俺の教えが現実になったかのように。そんなことはあり得ない。あれは、俺の創った架空の神だ。こんなことは、ありえない」
火は叫んだ。
それの呼応するかのように、無数の羽音が聞こえてくる。虫の羽ばたきに似た音だ。そして火の明かりの端々から、黒い粒子がいくつも姿を現す。それは蚊柱のように集結し、狂ったように踊り始める。
「埃のように消えろ、ヒーエ。架空を信じたお前の人生など、所詮は架空に過ぎない。架空が俺達を殺すな」
死ね、とその火は言った。
その言葉が号令であるように、耳障りな羽音が強くなる。そして黒い粒の集団が、一条の奔流となってヒーエに突進する。その流れの先端は人間の手の形にも似ていた。その黒い手が、ヒーエに襲いかかった。
「―――もしも字を読めなかったら、私は架空のままだったと思う」
しかし、ヒーエは怯まない。
青い衣が、表面に淡い燐光を浮かばせる。それだけで、ヒーエの目前まで迫った黒い流れは一斉に弾け飛ぶ。見えない何かに追い払われるように、黒い粒たちが掻き消されていった。
「でも私は文字を知った。そして、私は架空じゃなくなった。私は本当に生きていたんだよ、父さん」
ヒーエは歩き出す、火に向かって。
火は絶えず黒い急流をヒーエへ吹き付けるが、その悉くは彼女の目の前で力を失い霧散した。目には見えない力で守護されたヒーエが、墓地を進む。
「もし字を知らなかったら、人間じゃない何かとも話せなかった。私は願いを叶えることができなかった。私には人生があって、字を知っていて、だから、こうして願いを叶えられた」
ヒーエは火が照らし出す光の中へ足を踏み入れた。
火がおびえたように後退するが、彼女の進みはそれより早かった。誰かが地面の距離をいじっているかのように、ヒーエの歩みは尋常よりも加速していた。
そして彼女は、火のすぐそばまで近付いた。
ヒーエは右腕をかかげる。その手の中に紐飾りを握りしめて。
彼女は言った。
「私はいた。生きてたんだ。私には人生がちゃんとあった」
紐は緑色の光を自ら発し、ヒーエの手の中で形を変える。
それは光を帯びた、青銅の短剣だった。神妙な輝きの白刃を宿し、火の放つ赤い光を容易く切り裂く。
「可哀相なお父さん。自分のついた嘘で、死んで下さい」
ヒーエは、その短剣を火に突き刺した。
火が、雄叫びを上げた。
黒い柱が月に向かって幾つも立ち上がる。火炎の真下の地面から油のような液体が勢いよく噴き出し、飛沫を上げた。
そしてそれらは叫びの力が弱くなるに従って、徐々に姿を消していく。火は刺された瞬間だけ炎を膨れあがらせたが、燃焼の根幹を壊されたかのように、小さくしぼんでいった。
火は、そのまま消えてなくなる。
短剣は紐に戻っていた。ヒーエは腕を下げる。
そして顔を上げた。夜空へ。
その空の黒さが、支えを失った天井のように落ちてくる。ヒーエは目を閉じた。暗黒が彼女を包む。
もし私が生きていたなら、とヒーエは思う。
村のみんなもラサギも、父親も、私は殺した。ためらうことなく。
闇が彼女を溶かした。