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古神幻想  作者: 鈴本恭一
6/8

第5話:かくりよ


 気付けば、ヒーエは森の中を歩いてた。







 夜のように暗いわけでもなく、しかし昼のような明るさもない。周りは深い霧だ。薄く曖昧な木々の輪郭がまばらに見える。ヒーエはその樹木の間をゆっくりとすり抜けて歩いていた。



 どうして自分がここにいるのか分からない。



 道と呼べるものはなかった。背の低い下草を裸足で踏み潰しながら、ヒーエは歩く。不思議と痛みを感じない。おかげで彼女は歩くことだけに集中できた。






 頭の中はぼんやりとしている。まるでこの景色を支配する濃霧のようだ。白い世界だった。



 歩くにつれて霧はどんどん深くなり、自分の手足さえ霞んでくる。音もなく体が靄に包まれ、ヒーエはついに視界を白色に占領された。








 白の世界。



 その中に、異色が突然に現れる。








 黒い円。








 艶のない真っ黒な球体が、ヒーエの前方に出現した。白い世界で微動だにせず浮かんでいるため、穴のようにも見えた。



 距離は分からない。空間の奥行きを測るものがないので、近くなのか遠くなのかはっきりしなかった。





 思わずヒーエは立ち止まる。それに呼応するかのように、その黒い球が収縮した。ある程度の大きさを保っていた球体は一瞬で目に見えないほど小さくなり、同時にヒーエをとりまく白い濃霧が吹き払われる。





 ヒーエの視界が広がった。






 すると不思議なことに、ヒーエは森の中にいたはずの自分が、何処かの部屋の中にいることに気付く。





 足の底は固い木板の感触を彼女に伝えていた。その木の床の感触は冷たくも温かくもなく、ヒーエが感じたことのない奇妙さを混ぜ込ませている。



 例えば村長の家にあった木の床とは、明らかに雰囲気が違う。見た目は特に変哲のない、細長い木板をいくつも組み合わせられたただの床だというのに。








 ヒーエは周りを見回す。




 木造の、正方形をした小さな部屋だ。飾り気のない文机と椅子、そして白いシーツで整えられた簡素な寝台が、部屋にある家具の全てだった。棚の類や燭台もない。



 そして、扉と呼べるものも設けられていなかった。強いて言えば、寝台の脇の壁にこしらえられた両開きの窓が、外と部屋を結ぶ唯一のものだ。






 ヒーエは、その窓に一枚の紙が貼り付けられていることに気付く。小さいその紙に、何かが書かれていた。





「……」





 彼女はおそるおそる、それに近付く。



 整えられた寝台の上へ遠慮がちに身を乗り上げ、その紙に書かれていることを読む。




 そこには、こう書かれていた。






『輝きの霧の館へようこそ。御足労ではありますが、主人の棟へお越し下さい。外は寒う御座いますので、外套を当方で用意致しました。御活用下さい』






 ヒーエはそれを読み、首をかしげる。外套など、部屋のどこにもなかったはずだ。彼女はもう一度、部屋の中を振り返る。





 思わず声を上げるところだった。



 寝台の上、ヒーエが身をのせているすぐ近くに一着の青い外套が畳まれている。先ほどまで確かに何もなかった場所だ。白いシーツの上に、あのような青色の服など置かれていなかった。





 しかし、目の前には確かにその服が存在している。ヒーエは部屋の中を見回した。他に変化はない。寝台の上だけが異なっている。




 これが、文面にあった外套だろうか。ヒーエはそれを確認しようと、もう一度窓に貼られた紙を見直す。





 すると、そこに書かれたメッセージはヒーエの読んだものとは別のものに書き換わっていた。






『お召し終わりましたら、窓の外の小橋をお渡り下さい』






 何がどうなっているのか、ヒーエには分からない。部屋の雰囲気がとにかく尋常ではなかった。



 彼女はとりあえず、紙に書かれたことを確認するために窓の外を見る。





 外には濃い霧が流れていた。そのせいで、この部屋がどのような場所にあるのか判別できない。



 しかし窓のすぐ下には、縄で編み込まれた大きな網が備えられているのが分かった。縄の網は橋のように窓の外側へ伸び、白い霧の中へ溶けていく。その端は見えない。






 これが、紙面にあった小橋だろうか。扉もないこの部屋では、その場所以外に行くべきところがなかった。



 ヒーエはしばし逡巡したが、他にどうすることも出来ないため、心を決める。





 彼女は寝台の上に畳まれた、青い服を手に取った。確かに外套だ。大きな袖やヒーエの足下まで届きそうな長い裾に、草葉の模様が刺繍されている。襟にはフードもついているので、ヒーエは全身をその外套で包むことが出来た。



 着込んだ途端、得も言われぬ温かさが彼女の中に波打つ。




 それは激しさのない、波紋のような静かな伝わり方でヒーエの芯までやってきた。温度のないこの部屋で、彼女は初めて温めるものを感じることが出来た。



 冷めていたヒーエの身体が、はっきりとした感覚を取り戻す。そして窓の外を見た。





 乳白色の霧の中へ、縄の橋が伸びている。その先は見えない。






 彼女は、その窓の外へ出てみることにした。









**** **** **** **** **** ****







 部屋の外へ出ると分かったが、窓のすぐ上から、一本の縄が伸びている。その太い縄は部屋のある建物の窓枠上部あたりで金具に付けられ、橋と平行するよう霧の中へ引かれていた。






 その縄を手すり代わりにし、ヒーエは橋を歩く。






 一歩歩けば簡単にぐらつくと思っていたヒーエだが、実際は彼女がちょっとやそっと歩いた程度ではびくともしなかった。



 よほど強く張られているのだろう、とヒーエはその頑丈さに安心し、自分のいた部屋を橋の上から振り返る。





 部屋は四角い形だったが、建物は逆に円柱状をしていた。


 


 巨大な木の柱で、継ぎ目ひとつ見当たらない滑らかな外見だ。まるでそれ自体が大きな植物、生き物のようにも見えた。そこにぽつん、と窓が一個備わっている。ヒーエがいた部屋の窓だった。




 他に窓はないのだろうか、とヒーエは目で探ろうとしたが、深い霧に阻まれる。



 外は相変わらず霧深かった。そのため、ヒーエのいた木柱の建物がどれくらい大きいのか、また彼女がいる橋はどれほどの高さがあるのか、皆目分からない。







 ヒーエは縄網の橋を進んだ。







 手すりになる方の縄は、橋の中央の部分と重なるように伸びている。そのため、ヒーエの通れる場所は橋の半分だけしかなかった。ほとんど横向きの姿勢で、彼女は歩く。



 ほんの少し進んで振り返ると、もう窓の付いた建物は見えなくなった。見えないだけなのか、それとも本当に消えてしまったのか、ヒーエは考えないようにする。ここは分からないことだらけだ。







 それからさらに進んでいく。




 周りはおそろしいほど無音の静寂だった。自分の呼吸する音が、ヒーエの耳に最も響く。縄をこする手の音や、橋を歩む足下の音は、まるで霧に溶けてしまったように彼女へは届かなかった。



 霧はヒーエをなぞっていく。橋のずっと外側から大量の白さで流れ込み、しかしヒーエを圧迫することも押し流すこともせず、その青い衣をなぞっては過ぎ去っていった。







 その霧の流れの中、時折、何かが目に映る。




 川に流される木の葉のように、霞んだ残像が浮かんでは走り、消えた。ヒーエは目を凝らしてみる。



 形や大きさはよく分からない。しかし、それらがヒーエの歩く先、同じ橋の上から現れ、そして霧の流れに乗って消えていくのが分かった。






 ヒーエは前へ進む。




 そうすると、その何かが、人影であることが分かった。ヒーエの動悸が速くなる。歩みを早めた。



 しかし、その人影はヒーエが近付いた途端、現れるのをやめる。



 ヒーエはそこで立ち止まった。





「……」





 いくら待ってみても、人影は現れない。相変わらずの静かな白い流れがあるだけだ。




 違う、とヒーエは感じた。無音ではない。何かが聞こえる。




 下から何かの音がしていた。ヒーエは橋の下、縄の編み目の向こう側に目を凝らす。その橋の下は、少しだけ霧が薄まっている気がした。その薄い霧の膜をすり抜け、ヒーエの目と耳が、その僅かな音の源を見つける。






 川だ。



 ヒーエには分かった。ずっと川のそばで過ごしていたのだ。あの水気をはらんだ気配と、岩場にぶつかる流れの音、そして川面独特の煌めきが、確かに橋の下にある。






 この橋は川を渡っていた。






「……」





 ヒーエの頭を、何かが瞬く。



 川縁の音に似た水音が、ほんの小さな音であるにもかかわらず、霧の中で立ち止まるヒーエをつかまえていた。



 何か忘れものをしているような、なくしてはいけないものをどこかに置いてきてしまったような感覚は、ヒーエの体の中心をするすると縫い進む。




 そして足の先から頭の頂上までを縫い止められた時、ヒーエのすぐ隣に、誰かがいた。







 人影だった。




 しかし先ほどまで見ていた、霧の中で輪郭がぼやけた黒い影とは違う。影は、白かった。






 白い霧の中、さらに濃い白さが一箇所に集まり、ぼんやりと人間に似た形を作っている。




 その白い人影が、橋の上に立っていた。






 そしてほどなくし、橋から身を投げる。







 あ、とヒーエが声を上げるより早く、その人影は霧の向こうへ消えていた。薄く見える川面に呑まれたもしれない。ヒーエには、何も見えなかった。






 しかし、彼女は自分が手すりにしている縄に、小さな紙がいつの間にか貼られていることに気付く。先ほどまでなかったものが現れていることへ、ヒーエはもう驚かなくなっていた。その紙を読んでみる。





『時折現れますのは、かつて川へ捧げられた人間達です。客人に害を与えるものではありません。死後も川へ供することを誓った為、今でもこうして川へ身を投じているのです』






「……川の神様」





『ここからではご覧になれないでしょうが、川の上には雲もおります。客間と主人の棟を繋げるこの中庭は、彼らが好んで居る場所なのです。雲は雨や雷を降らせますが、御客様に害が及ぶことはありません』






 ヒーエは橋の下へ眇める。




 川の広さはよく見えなかった。小さな川でないことは確かだ。途方もなく広大な河であるかもしれないが、ここからでは分からなかった。








 しかし、確かにそこに川がある。





 それを実感した途端、ヒーエは気付いた。思い出してしまった。






「私は、死んだんだ」






 黒い人影や白い人影と同じく、死後の人間になった。だから、こんな不思議な場所に来ている。ヒーエはそう理解した。





 口に出してみても、悲しさはない。苦しい気持ちもなかった。とても静かで、まるでこの霧と川の流れのような静謐さだった。



 森の神様の場所じゃなさそうだ、とヒーエは思う。今までの文面からして、何か別のものの処へ来てしまったらしい。






「やっぱり嘘だったんだ」






 自分の口から、平板な声が出る。その声は霧の中へ染み込んで、すぐ消えた。




 代わりに、ヒーエの身を包む服が温かさを増した気がする。まるで慰めるよう、さするような温度の波だった。



 ヒーエは青い外套の袖を見る。萌える若葉の刺繍が施されたそれに、苦笑した。どうしてそうしたのか自分でもわからないが、その袖を手でゆっくり撫でる。





 彼女は少しずつ思い出した。今際の、父親の言葉。嘘の信仰。自分の叫び。





「……」





 ヒーエは思わず振り返る。後ろを。



 白い。深い霧だ。何も見えない。けれど彼女はそれを見詰める。川の音が聞こえていた。その音が、白さの中にヒーエの記憶を呼び覚ます。






 ふと、遠くで何かが轟いた。



 つい彼女は顔を上げる。そこもやはり白かったが、その向こう側で、強く閃くものがあった。そして、低く力の込められた轟音が響く。遠くで鳴っているというのに、その力強さは理解できた。稲妻の遠鳴りだ。







 遠雷と、それに付き従う降雨の気配。



 そのふたつが、ヒーエの空白を埋めてしまう。忘れていたものを思い出させた。






「ホイナ……」





 どうしてか、あの子の名前が出てきた。








 雨の音が耳に届く。川の匂い。どちらも遠くにあって、手が届くことはない。しかし、それらはヒーエの頭の中を占領し、溶かしていった。





 ホイナは、死んだ自分をどう思っているだろう。



 そう考えてから、ああ、自分は確か彼女に嫌われてしまったのだった、と思い出す。





 きっとホイナは自分のことなどすぐに忘れるだろう。





 誰も、自分の死を悼むことなどないだろう。







 ヒーエはそう思った。






「私の死と人生は、無意味だった」






 彼女は心の内を言葉にしてしまう。





 そうだった、と彼女は思い出す。最期に叫べなかった叫び、放てなかった懇願、そういったものを、彼女は雨と川の音で蘇らすことが出来た。





 それを心の中で吹き返した瞬間、周囲の白色が変化する。





「?」





 ぼんやりとした明るい霧の奔流に、いくつもの色が見え隠れした。何だろう、とヒーエは目を凝らす。






 それは色の付いた風だった。





 青い靄や赤い空気、橙色の霞がその正体で、緑の光を帯びた透明な破片がそれらの縁を彩っている。



 白い霧の流れとは完全に別の動きで、ヒーエのいる橋の周りを飛び交った。ヒーエは身構える。



 そうしている間にも、風の色は様々に変化していた。赤から黄色へ、黄色から黄緑へ。七色に変色する風は渦巻いて竜巻になり、そして小さな声を発する。笑い声。子供のような甲高い笑いだった。








 次の瞬間、ヒーエは落下した。



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