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古神幻想  作者: 鈴本恭一
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第4話:死






**** **** **** **** **** ****






 最期の日だった。











 その日はどんよりとした曇り空で、雨が降るかもしれないとヒーエは思っていた。





 その予想通り、ホイナとのいつもの授業中に、ざあざあと雨の雫が濃い灰色の空からおもむろに降り始めた。



 そういうときの川辺は危険なので、ヒーエはホイナを連れて森の中、大きな梢で雨をしのげる樹の根本へ避難した。






「びっくりしちゃったね」






 ホイナは笑う。




 雨が降ることさえ、ホイナは楽しいのだろうか。





 ヒーエは小さく疑問に思ったが、わずかな森の切れ目の向こう側、空に大きな何かが飛んでいることに気付いてそちらを凝視した。








 ヒーエが見たこともないものが、飛んでいた。




 飛ぶと言うより、泳いでいるという動き。全体的には細長いであろう、しかし途方もなく巨大な何かの胴体が、森の遙か上を飛行している。







 鳥ではない。そんなものより圧倒的に大きい。




 強いて言えば、何かの絵本で見たことがある、鯨に近かった。空を飛ぶ鯨がいるのか、とヒーエはホイナに訊こうとしたが、先に彼女が言った。






「飛行船だ」






 ホイナも見上げている。彼女もヒーエと同じく、双眸に力を込めて、その巨大な船の全像を捉えようとしていた。





「空気より軽い浮き袋を船の中に詰んで、それで宙に浮いてるの。浮いたら、プロペラで前進して目的地まで飛ぶんだって」





 説明するホイナも実物を見るのは初めてらしく、言葉もどこか上の空だ。



 ヒーエは、次第に森から遠ざかっていくその巨船の姿を探し、信じられない思いだった。





「あれは、なに? 人間がつくったの?」





 船、とホイナは言っていた。ヒーエが知っている船は、村を流れる川を下る小舟のことだ。




 だが、たった今頭上を通り過ぎていったそれは、そんな慎ましいものと同じ種類とはとても思えなかった。



 天と地の間を遮るような、あの巨体。この森の遙か外、ヒーエの知らない未知なる神々が遣わした巨獣だと言われれば、まだ信じられた。





 人間の力で、あれほど巨大なものを、それも空に飛ばすことが出来る。



 たとえホイナの言葉であろうと、ヒーエには容易く信じられるものではなかった。






「そうだよ。人も物もたくさん運べる。西の海を越えて、別の大陸に行くことも出来るよ」



「西の海?」



「大きな海で、私達のいる大陸と、その向こうの大陸を隔ててるの。そっか、ヒーエは海を見たことないんだっけ」



「大きな池だっけ」



「まあそうなんだけど、でも、ヒーエが思ってるよりずっと大きいよ。今の飛行船が何万個あっても、全然、比べものにならないくらい広いんだよ」



「……わけがわからない」





 ヒーエは混乱する。想像を絶していた。森の外は、自分の想像では及びも付かないものが広大に存在しているらしい。





「結婚式を挙げたら、新婚旅行であれに乗せてもらえるんだ」




 ホイナは言った。





「お父さんと、ラサギのお父さんがそう言ってた。旅行用の飛行船があって、それで西の大陸に行くの」



「……ラサギと?」



「うん」






 と頷いたホイナは、気遣うような目でヒーエを見た。彼女の眉尻が下がっている。





「でも、旅行だから。結局はこっちに戻ってくるから。結婚してもちゃんと遊びに来るよ」





 そうだ、と彼女は続けた。





「ヒーエもだいぶ字が書けるようになったから、手紙とかも書こうよ。文通するの。今度、辞書とか持ってくるからプレゼントするね。知らないこととかたくさん載ってるよ」



「……結婚したら、ラサギはこの村を出るんだよね?」





 ヒーエは訊ねる。



 彼の名前を口に出すと、心がどこまでも重くなった。重さは瞬く間に辛苦へ変わる。鋭い棘ばかりの虫が体の中に巣くって、ヒーエを傷つけ続けているような感覚だ。





「ヒーエは」





 木の根元に腰掛けたホイナが、同じく座っているヒーエの側まで擦り寄ってくる。



 とても近い距離だ。雨の匂いが、彼女の髪から醸し出される甘い香りを強調していた。





「ラサギが、好きなんでしょ?」





 そして、ホイナは訊いた。





 ヒーエは言葉に詰まる。





 自分の心の中で、何日も何ヶ月も、何年も蟠っていたものを、ホイナは一言で表してしまった。



 違う、とは言えず、そうだ、とも口に出来ない。





 ヒーエの唇が震える。言葉が作れなかった。






「ごめんね」




 ホイナは言った。





 その言葉を耳にして、反射的に、弾けるような衝動で、ヒーエの喉が声を出す。





「彼をここから連れてって」





 震えている。自分の声も、頭の中も。ヒーエは自覚した。






「私の見えないところにラサギを連れ去っていって。私の手の届かないところ、会えないところに、早く」




「ヒーエ?」




「でないと、私はこのまま苦しく生きてくの。生きて、その後、森の神様が来て、せっかくこの苦しいのを終わらせられるのに、彼がまだ村にいたら、きっと……」







 目の裏側が熱い。鼻も口も、痺れたように感覚が麻痺していた。心臓がわめいている。自分の血の流れる音を強く耳にしながら、ヒーエはホイナへ告白した。





「―――私は、森の神様の為に死ねない」






 告げた、それと同時に。





 ヒーエの鼻に、甘い匂いが広がった。温かく柔らかなもので、体を包み込まれる。







 きれいな金色の髪が、目にかかった。







「死ぬなんて言わないで」





 ホイナに抱きつかれた、とヒーエが気付くより先に、彼女は言った。







「あなたが好き。だから、死なないで」





「――……」







 その言葉の、どこまでもにおやかな深さと広さ。





 恐ろしさと苦しさに苛まれたヒーエの皮膚を、優しく抱くホイナの腕。





 ヒーエを抱擁するこれらが、自分の全てを許す気がした。







 きっと、そうだ。




 彼女は確信した。父親にも言えない自分の背徳を、ホイナは許すだろう。その温もりで。心の中に入ってくる。十二年の教えを蹴散らして。








 ヒーエは。







 ヒーエはそのことに。






















 恐怖した。























「……っ!」





 自分を抱くその腕をふりほどき、ヒーエは立ち上がる。




 腰をつき、驚いて見上げてくるホイナ。その時、彼女の緑瞳に映ったヒーエの姿は、多くの怯えと、同量の怒り、そして苛立ちに彩られていた。







「私は、あなたなんて好きじゃない」







 言葉が、ヒーエの心の行き渡っていない場所から出てくる。自分の台詞に、ヒーエは自分で驚いていた。



 だが、止まらない。否、止めなかった。






「私は、森の神様の本を読みたかった。だから、あなたから字を教わった。それだけなのに、あなたは私になにか勘違いした。勘違いしてるんだよ」



「ヒーエ……?」





 困惑するホイナへ、ヒーエは叫ぶ。






「あなたは私の知らない、森の外のことをたくさん知ってるかもしれないけど、だからって私のことまで決めつけないで。私が死ぬのを、あなたが決めないで。私が死ぬのに、あなたの許しなんて要らないの」






 ヒーエは何歩も下がる。木の枝の下から出てしまう。



 雨が容赦なくヒーエを濡らした。彼女はそれにかまわず、ただただ加熱していく血液を感じながら怒鳴り続けた。






「私は、苦しむだけ苦しんで、そのまま塵のように消えて死ぬなんて嫌だ。あなたが、森の神以上のことを私の人生にもたらしてくれるなら、今すぐやって。やってみてよ」






 目蓋が、熱い。



 その熱をどうしてか悲しいと思いながら、ヒーエががなる。






「そうでないなら、もう私の前に現れないで。外の町でも海の向こうでも、今すぐどこかに行って、とっとと消えてちょうだい」




「……」






 がなり散らして息を切らすヒーエを、ホイナは見上げている。






 そのときの彼女は、ヒーエが見たことのない表情を浮かべていた。




 唇を歪め、歯を噛み締めて、眉根をこれでもかと寄せている。細めた両目で、ヒーエを睨め付けていた。





「……あなたなんか」






 地面から立ち上がりながら、ホイナは言う。ヒーエが聞いたこともない、どろどろとした黒い声音で。






「あなたなんか、大嫌い」






 そしてホイナは背を向けた。





 雨の中を、がむしゃらに走り始めるホイナ。その姿は、すぐに森の中に消えて見えなくなった。










 ひとり残されたヒーエは、しばらくその後ろ姿の残影を見やっていたが、喉の奥から込み上げてくるものに気付く。物ではなく、なにか、情動的なものだ。それは、ヒーエへおかしさの衝動を与えた。







 ヒーエはわらう。






 枝葉とぬかるみの匂いが混じり合う、雨の森の中で、吹き出してくるたまらなさに身を任せた。感情も体の感覚も、呑み込まれて消えていく。




 彼女は日が暮れるまで、雨に打たれながらわらい続けた。










 それが、ヒーエの最期の白日だった。












**** **** **** **** **** ****











 ヒーエはその夜、高熱を出した。





 ずぶ濡れにされた全身が熱く、そして同時に冷たい。





 雨漏りする暗闇の家の中で、ヒーエは感じていた。





 自分の肉体の中心、生命を司る大事な部分が、蝕まれていることを。致命的で、自分ではどうしようもないほど壊れている。



 体中が痛い。その痛みは感覚に取って代わり、ヒーエの五感を破滅させていた。








 ああ、今夜がそうなのか。






 ヒーエははっきりと分かった。今夜、自分は死ぬのだ。これが最期、死だ、と。



 朦朧とする思考、前後不覚になった意識の中、彼女は自分の望んだものがようやく来たと思った。苦しい。熱い。これほど苦しいことはなかった。寒い。






 けれど、これが最後の苦しみだ。最後の暗闇だった。



 未練はないだろうか、とヒーエは我が身を振り返る。十二年の人生を。



 長かったのか、短かったのか、ヒーエには分からない。






 しかし、未練と呼べるものはなかった。



 未練になるであろうものは、今日、自分の手で振り払った。死を邪魔する不純物を、この手で破壊した。







 だから彼女は願った。



 森の神が来ることを。



 私はあなたのために、ここまでした。



 あの秘密の川辺での日々を捧げて、私はあなたの御許へ逝く。







 ヒーエは、骨と肉が湯気や蒸気に変わってしまったのではと思うほどの熱さに支配されながら、自分の神へ宣告した。







「ヒーエ」





 そんな彼女に、光の差さない暗黒の中から呼びかける者がいる。





「父さん……」





 ヒーエは自分の唯一の肉親であり、また唯一、同じ神を信じる人間へ、必死で言葉を作った。




 父にだけは、自分が先に森の神に召されることを告げなくては、と思ったのだ。





「父さん、今日きっと、森の神様のところにいくよ」





 自分の声が、割れ響く異音のように聞こえてくる。これは自分の口から出ているのか、ヒーエには自信がなかった。



 だが、その声が言うことは、確かに自分が望んだことなのだ。





「私は逝くから、だから森の神様は村の畑をたくさん実らせてくれるし、鶏も豚もたくさん産まれて育つ。誰も病気にならずに長生きできるよ」





 言葉を発するたびに、自分の中の、生きるために必要な流れや力というものが散って消えていくのが分かる。








 これが、死だと、ヒーエは知った。



 死にながら、彼女は言う。






「生きてて嫌だったり、辛かったりしたことが、たくさんあった。けど、楽しいこともあったんだ。でも楽しいと、余計に生きてるのが怖くなった。どうして私はラサギを見ると苦しかったの? なんでホイナとラサギが一緒に帰ると、わけがわからないくらいに震えてしまったの?」





 自分は何を言っているのだろう、ヒーエは混乱してくる。



 しかし彼女には、その迷える自分を戒める余力などなかった。全て、ありのままに任せた。





「かなしいの、かなしいの、かなしいの。もういやだから、もうおわらせよう」





 ここで。森の神によって。




 それがヒーエの望みだった。





「今はさようなら、父さん。森の神様のところでまた会いましょう」





 最後の力で、彼女は言った。



 自分の父親の姿を自分は見ることはできないが、きっと頷いているはずだ。ヒーエはそう思っていた。

















 だが、
























「―――そんなものはいない」











 信じられない言葉を、彼女は聞いた。







「……え?」





 自分の中で渦巻いていたあらゆるものが、凍結する。ぐつぐつと煮立った感覚と意識の混合体が、その暗闇の中から放たれた声を聞くことに傾注した。





 暗黒は言う。



 嗤いながら。






「森の神などいない。そんなものは俺の作り話だ。全部、嘘なんだよ。あの本も、俺が書いた」





 狂った哄笑が鳴り響く。



 散って消えたはずのヒーエの生気を喰らい、冷たいまま暗闇を活気づけさせたような、そんな何かが家の中にいた。






「俺の嘘を信仰して、嘘の教義のままお前は死ぬ。無意味な死だな、ヒーエ。俺の娘。お前がいなければ、彼女は生きていたはずなのに」






 何を言ってるの、父さん。





 ヒーエはそう聞き返したかった。しかし、もうそんな力は残っていない。



 無力に陥ったヒーエへ、冷たい声がかかる。





 その声は熱を吸う冬の風に似ていてた。



 しかもそれは、激しく生臭い怨念でひどく淀んでいた。






「お前の母親は死んだ。なのに何故、お前は生きている? どうして俺は生きている? 生きている意味はなんだ? 俺はお前を愚かにするために生きた。そしてそれは叶った。



 お前は死ね。お前の生死など、全て嘘だと、何の価値もないと思い知らせてやる」






 やめて、とヒーエは叫びたかった。



 私のこころを崩さないで。







「お前はあの娘とは違う。都会から来た、約束された祝福を生きることが出来るあの娘とは。お前の信じた約束は偽りだ」






 捧げたはずのものまで穢さないで。



 彼女のそんな思いは、しかし嘲る暗黒に踏み潰される。





「死ね、無意味に。お前の母親のように」





 そして再び、気の狂った笑い声が世界を支配した。



 念願を叶えた歓喜の情念を撒き散らしながら。






「―――」








 ヒーエは、もはや何も思えはしない。



 彼女を作り上げていたものは全て溶け合い、思うだけの造りを残していなかった。







 形はなくなり、力は失われ、ヒーエだったものは、けれどそれでも希った。





 その願いは、はっきりとした言葉ではなかった。






 それは放射される波であり、輻輳する流れであった。



 集中と拡散を同時に行い、咆哮のように冷たい黒の世界を振動させる。



 狂った粒子たちの梁を吹き払い、粉々に砕き、門戸の形へ作り直した。ヒーエであったものはその門をゆるやかにくぐり抜ける。跡には男だけが残った。








 それが、ヒーエの最期。





 夜明け前に、彼女は死んだ。



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