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古神幻想  作者: 鈴本恭一
4/8

第3話:覚醒。夜。恐怖。






 ホイナは親に連れられて村を訪れると、必ずヒーエのところに来た。






 ヒーエがよその家から仕事を貰えている場合は、諦めてラサギと一緒に村のあちらこちらへ遊びに行った。



 しかしヒーエが何の仕事も貰えず、または仕事をちょうど終えて手空きになった場合などは、ホイナはヒーエを連れて秘密の川辺へ向かった。





「将来の旦那を放っておいていいの?」



「お父さんたちには、ラサギと遊んでくるって言ってるから大丈夫」



「ラサギは今、どうしてるの?」



「さあ」





 ホイナは婚約者に関して、とても淡泊だ。嫌っているという感じや、無関心というものとも違う、とヒーエは思った。





「私とラサギはいずれ結婚して一緒に暮らすけど、ヒーエとはこの村に来た時じゃないと会えないじゃない。ラサギはそれを分かってくれてるの」




 ホイナは言った。





 婚約者より、自分に会うことを優先しているこの子が、ヒーエにはとても不思議だった。



 どうしてそんなことをするのか、ヒーエには分からない。



 しかしヒーエには好都合だった為、深くは考えなかった。







 ホイナはヒーエに、森の神の本を読んで聞かせた。それほどの量が記されてたわけではないので、本の解読はしばらくして全て終わった。



 ホイナが教えてくれた内容は、やはり、父親から普段聞いていることと重複している。




 薄々そのことに気付いていたヒーエだったが、ホイナが本の最後の文章を読み終えると、ヒーエは深々と頭を下げてホイナに感謝した。




 そうすると、ホイナはその白い顔を真っ赤に染めていた。何に照れているのかヒーエには分からなかったが、その朱に染まった頬は、ホイナのきれいな緑の瞳にとてもよく似合っている、と思った。









 ホイナは、せっかくだから字を教えてあげる、と言った。





 その提案をヒーエは受け入れる。自分で森の神の本を読めるようになることは良いことだと思った。また、死んだ後に森の神へ仕える身なのだから、字の読み書きを多少憶えておくことも悪くない、とヒーエは考えたのだ。




 ヒーエが教えてほしい、と言うと、ホイナは弾けるように笑った。瑞々しい表情。自分にはきっと無いものだ。



 そのせいなのかは分からないが、ホイナのその輝きのような笑顔が、ひどく、目に焼き付いた。





「まずは、文字を憶えましょう」





 ホイナは同い年のはずだが、まるで大人のような態度になって言う。そういう、大人の仕草を真似るのが楽しいようだった。ヒーエは従順な生徒となって、彼女に教えを請う。



 ヒーエやホイナが口で話す言葉は、字に置き換えることが出来る。字ひとつひとつを繋げると単語になり、単語を繋げると文章になった。ヒーエはホイナに教えられて、十年間で初めてそれを知った。





「おもしろいね」





 ヒーエは思わずそう呟いた。ホイナが微笑する。





「字が読めるようになったら、絵本を持ってきてあげる。私は目が肥えてるから、子供っぽいのは選ばないよ」





 ホイナは自信ありげに言った。ヒーエはそもそも子供っぽい絵本というものを知らないので、彼女の選定眼が言葉通りなのかは分からない。素直にホイナの持ってくる絵本を楽しみにすることにした。









 楽しい。








 ヒーエは自覚する。




 川縁の砂地に小枝で字を書きながら発音を教えるホイナ、彼女の言うことを学ぶ自分。ホイナの書いた文字を、真剣に似せて書こうとすること。



 何回も練習し、重ねてしまう失敗。その後で、きちんとした文字を書くことに成功するヒーエ。それを手放しで褒め、我が事のようにホイナが喜ぶ。





 それらの繰り返しが、ヒーエには楽しかった。





「――――」






 憶える文字は多く、それが単語となってはさらに大変だというのに、ヒーエはこれまでの人生で湧いたことのない感覚を体験していた。








 ……それはあまりに急激にやってきた。



 十年間で築き上げたヒーエの心の城塞、その奥深くから天空へ、砦の壁を突き破って一気に吹き上げてくる何かの流れだ。











 ヒーエは、どういうわけかそのときになって、自分が森の中にいることを感じ取った。




 今までも、森にいることなど分かっていた。が、意識はしていなかった。



 しかし今は、その森からやってくる風、その涼しさ、そしてその中に混じる土と葉の匂いを嗅ぎ取っていた。



 風の中を小さな鳥が飛ぶ。目がそれを追った。



 空気を彩る川の水の気配も、その肌で感じることができた。



 青い空、それを飾る白い雲。淡く浮かび上がる陰の中で、さやかに姿を見せる陽の光も。








「……ホイナ」





 ヒーエは、愕然としながら、無意識に名前を呼んでいた。



 正しい文字を地面に書いていたホイナは、急に名前を呼ばれて顔を上げる。





「なあに?」



「……」





 訊ねられ、ヒーエは言葉を濁す。自分でも、なぜ彼女の名を口にしたのか分からなかった。



 ただ、今の自分は、自分の発する声の音でさえ、今までとは違う鮮明さで聞き取ることが出来た。そんな感覚の中で、彼女の名前を聞きたかったのかも知れない、とヒーエは思う。




 きょとんとするホイナに、ヒーエが言葉をつなげる。





「あなたの名前を、書いて」





 深い考えがあったわけでも、打算的な思惑があったわけでもない。ただ純粋に、知りたいと思ったのだ。




 ホイナはヒーエのその望みを、微笑みと共に叶える。地に、自分の名前を刻んだ。ヒーエはそれを凝視し、自分の指で地面に触れた。冷たい感触のある湿った土に、ホイナの名前を何度も何度も書いてみる。





 書いたそれを、ヒーエは読み上げた。





「ホイナ」





 喉が、震える。



 震えはあっという間に全身を巡った。肩が、指先が、膝が震えてしまう。







 自分は、いったい何を感じているのか。






 ヒーエには分からなかった。



 自失し茫然とするヒーエをよそに、ホイナはヒーエが書いた字を見て、やはり笑って言う。





「うん、合ってる合ってる。うれしいな、ヒーエが私の名前を書いてくれた」





 その言葉で、ヒーエは顔をあげた。



 目を丸くして、ホイナを見詰める。





「うれしい?」



「うん。どうしたの、ヒーエ? 何かおかしい?」





 ヒーエの様子のおかしさをホイナも察したのか、心配げに見やった。ヒーエは、自分でもなにが起きているのか説明できなかった。



 ただ、うれしい、という言葉が、頭の中を走り回っている。







 うれしい、とは何だろう。






 何が嬉しい? 今まで何が嬉しかった? 楽しんだことは? 楽しみだったことは?


 疑問が止まらない。止めどない不安がヒーエを包み込む。















「……ヒーエ?」





 名前を、呼ばれる。



 ヒーエはその声の主へ目を向けた。ホイナだ。彼女はまるでヒーエの不安な心を映し取ったように、怯えに似た表情を浮かべている。




 ヒーエは、ホイナなら、自分のこの心の中に流れ込んだものの正体を知ってるのかもしれない、と思った。だから、自分に何が起きているのかを訊ねようとした。





 けれど、言葉が作れない。




 答えを得る為には、疑問を伝えなければならない。




 その疑問を、ヒーエは言葉に出来なかった。



 考えても考えても、どう聞いていいのか分からず、ただ時間が流れる。





 ヒーエは、泣きそうだと思った。自分はこんなにも言葉を知らなかったのだと、思い知る。



 だから結局、ヒーエは自分の中の疑問を言葉には出来なかった。





 しかし、彼女はホイナへ言った。本心には違いない言葉を。





「もっと、言葉を教えて」





 泣きそうに、くじけそうになる心根を歯ぎしりして堪えながら、ヒーエは頼む。






「知りたいことがあるけど、それを言葉に出来ない。だからもっと、私は言葉を知りたい」




「……」





 当たり前のように文字に囲まれた都会から来たホイナは、ヒーエの言葉を、一拍の間を置いて受け止めた。





 そしてその後、「分かった」と頷いた。





 ヒーエは安堵する。緊張がほぐれ、重く息をこぼしてしまった。





「大丈夫?」



「うん、大丈夫」





 心配するホイナへ返事をしながら、ふと、ヒーエは気付く。



 ホイナもまた、張り詰めていた不安の顔を消していた。




 彼女も同じ気持ちになっていたのだと、ホイナは知った。





 他人が、自分と同じ気持ちになっている。



 気持ちを持っている、他人。




 当たり前のことだというのに、ヒーエは初めて知ったような、あの不思議な感覚を噛み締める。






 そうだ、当たり前なのだ。



 ああ、そうか。ヒーエは理解した。






 この自分が、ここにこうしているということを強く実感できているのは、何故なのか。



 今までは肉体だけが生きていたからだ。けれど、肉体以外の何かが人間にはあり、そこが仮死に似た状態になっていた。。




 その肉以外の部分が、今、息を吹き返した。そして肉体に行き渡ったのだ。







 まだ終わっていない人生というのは、こういうことなのだと、ヒーエは身をもって理解した。












**** **** **** **** **** ****











 鮮明な感覚を手に入れたヒーエだが、それは新しい苦しみの始まりでもあった。







 まず、夜が怖い。





 正確には、夜の闇を溜め込み続ける、何もない自分の家が怖くなった。



 月明かりが入ってきても、そこに映る物は何もない。ただ、底なしのように闇がある。ヒーエはそれを恐怖した。





 今までそんなものを感じることはなかった。夜は夜だ。暗い闇がある。当然だった。何故それを恐れなければならないのか。



 しかし今のヒーエは、どうして自分はこれまで夜というものに恐怖しなかったのか、理解できなかった。それほど恐ろしかった。





「……父さん」





 ヒーエは、唯一の肉親へ呼びかける。彼の姿は、闇夜の中では見えない。そのことがさらにヒーエを心細くさせた。





「父さん!」





 叫ぶ。




 すると、家の中のどこかで、もぞもぞと動く気配があった。起きようとする感じではない。ただ、呼ばれた気がして反応した。それだけだった。



 それだけの反応だったが、ヒーエはほっとする。ほっとする自分に、戸惑った。早く眠りたい。そして夜が明けて欲しい、と彼女は願った。夜が怖い。











 また太陽が昇っても、今度は人間が怖かった。



 ヒーエはよその家の仕事を手伝い、その対価として食事のおこぼれを貰う。その為、何か仕事はないかと家々を巡る。




 たいがいの村人は彼女を疎ましく思っていた。そのことはヒーエも充分知っていた。





 しかし、自分を疎ましく思っているという気持ちを想像すると、足が自然と重くなる。



 胸の内側が苦しい。痛みさえ覚えた。




 以前は、疎ましがられているからと分かってても、これほど辛くはなかった。辛くないわけではなかった。だが、今とは明らかに異なる。相手のことを考えてしまっている自分がいた。




 他人が、自分をどう思っているのか。そんなことを考えてどうする、とヒーエは自分に言い聞かせようとしたが、心は言うことを聞かない。






 辛い気持ちで仕事を探し、なんとか仕事にありついたが、やはり苦しさはつきまとった。早く仕事を終えたい。帰りたい、と強く思った。

















 ホイナは頻繁に村を訪れた。それは彼女の婚約者が村を去るのが近いということだったが、ヒーエにとってホイナといる時間は、苦しくない安らかなものだった。




 その為、彼女の持ってくる絵本や単語帳、学校の教科書といったものの内容も、楽しさと共に憶えることが出来た。









 しかし、ホイナが来る時にも、苦しくなることがあった。




 それはたいがい、彼女が去る時だ。去っていくホイナを見るからではない。勿論、それも辛かった。




 だが、ヒーエにも分からないのは、ホイナが去る時、つまり彼女を呼び戻す人間を見ることが胸を痛めた。




 ヒーエと遊ぶホイナを呼び戻す者など、ひとりしかいない。











「ホイナ、そろそろ戻らないと」





 絵本を教科書に授業を開いていたホイナのもとへ、ラサギが現れる。



 彼は自分の婚約者を見て、それからヒーエにも声を掛けた。





「ヒーエ、明日、うちの鶏たちの世話を頼めないかな。家畜小屋の掃除とかもお願いしたいんだけど」





 その言葉には邪気が無く、ひどく自然体だった。



 村の人間で、彼だけはヒーエを嫌っていない。それが分かっているので、ヒーエは村長の家に仕事を探しに訪れて彼が顔を出すと、胸をなで下ろした。





「……」




 ヒーエは逡巡する。




 他人の気持ちを考えるようになって、ヒーエは自分が安心できる人間を頭の中で探した。思い当たる人間は、ラサギだけだった。ホイナは別枠だ。彼女はこの村の人間ではない。






 ラサギに声を掛けられると、嬉しくなる。



 彼と話すと、心が少し楽になった。



 同時に、息苦しさに似た感情がヒーエの中に渦を巻く。



 どういうことなのか、ヒーエには分からない。





「……分かった」





 だからラサギと話す時は、正反対の感覚がヒーエを焦がした。それが、彼への返答を重くさせる。



 対照的に、ホイナの応えは軽やかだった。






「もうちょっと、もうちょっとだけ待って。少しでいいから」




「僕が怒られるんだけどな」




「ちゃんとかばってあげるから。ふたりだけの時間が欲しかったの、とか言えばいいよ」




「君が言うとどうして白々しくなるんだろうね。まあ、本当にもうそろそろ帰るから。ちょっとだけだよ」




「ありがと。愛してるよ、旦那様」




「どういたしまして」






 ホイナとラサギは、息の合った遣り取りをヒーエに見せる。



 少なくともヒーエには、彼ら2人が恋人同士と言うより、信頼し合った相棒のように思えた。親たちの取り決めた人生を、背中合わせに乗り越えようとしている、そんな仲に見えた。





「……」





 うらやましい、とヒーエは思った。



 彼らは2人だ。ヒーエとは違う。たとえ今は一緒に過ごしていなくても、ホイナとラサギはひとりではないのだ。





 ヒーエとは、違う。





「さ、今日の授業を片付けちゃいましょう」





 ホイナは明るい声で、ヒーエに言う。ホイナが自覚しているかは知らないが、彼女はラサギと話すのを楽しんでいる。ヒーエはそう思う。思ってしまうと、ヒーエは心が苦くなった。




 ホイナもラサギも、ヒーエのことを嫌っていない。無関心でもない。





 そんな彼らは、その日の最後、一緒に川辺を去っていく。ヒーエは追えない。





「……」






 ひとり、残った。すぐに日が暮れる。夜が迫った。暗い森。











 そうして、気付けば彼女たちは十二歳になっていた。




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