第2話:ホイナ
ホイナはヒーエの知らないこと、主に町のことを沢山教えた。
森の中と村のことしか知らないヒーエは想像するしか無く、それがうまくできないときは、ホイナに絵を描いて貰った。
小さなメモ帳とスケッチブック、そして鉛筆をホイナは秘密道具のように愛用していた。
そのスケッチブックに、彼女はすらすらと町の様子を描いて見せた。石畳の道、その脇を彩る店、木々、花。
「本当はもっといっぱい色がついてて、とてもきれいなんだ。今度、絵の具で描いて持ってきてあげる」
「あなたの住んでるところは、いいところなんだね」
「うん。でも、いやな人もいるよ。私の家の向かいのアパートにいるおじいさんは、子供を見るといつも怒鳴るの。もっと遠くで遊べ、って。ただ歩いてただけなのに」
「子供は遊んでるものだと思ってるんだよ」
しあわせな大人だね、とヒーエは皮肉に笑う。そんな彼女の様子に、ホイナはくすくすと頷いた。
「家の近くにある図書館に連れて行きたいな。古い建物なんだけど、魔法の本とかがどこかにありそうな、不思議なところなの。とても静かで、けど素敵な本の匂いが流れてて、一日中いられる自信がある」
「私は、本はひとつしか知らない」
ヒーエは、自分がいつも大事に抱いている羊皮紙の本を指した。
「でもそんな図書館なら、森の神様のことが書かれた本があるかもしれない」と、ヒーエはホイナの話、外の世界の建物に興味を示す。
ホイナは自分の住んでいる町にヒーエが関心を向けたことが嬉しいのか、「きっとあるよ」と言った。
「でも、その前にこの本を読んでみよう」
ホイナの提案に、ヒーエは慎重に頷く。この本の中身を父親以外に見せるのは、初めてだった。
秘密の川原。岩場の上に本を置き、ページを丁寧に開く。
「汚い字だね」
ページの中身を見た瞬間、ホイナはそう評した。そして、その挿絵のない、ヒーエには模様にしか見えないものがいくつも記された本を、ホイナは熟読する。彼女は少ししてからページをめくり、また前のページに戻り、再び読み進めた。そういったことを何回か行うと、首をかしげつつ本から目を離す。ホイナは言った。
「知らない字とか、読めない字とかあったけど、この森には昔、神様がいたみたいだね。最初の部分には、そう書かれてる」
「それは、知ってる」
ヒーエが当然のことのように言う。
その言葉に、ホイナはむっとした。
「あなただけじゃ、このページの最初のところに何が書いてあるのか分からなかったくせに。あなたの知ってることが、たまたま最初に書かれてただけじゃない。そんなことで得意な顔しないでよ」
「……」
ホイナの、苛立ちを露わにしたその言葉と表情に、ヒーエは戸惑う。
彼女には、けっしてホイナを馬鹿にする意思などなかった。自分の知っていることと、ホイナの解読した箇所の内容が合致したという事実を確認しただけのはずなのに、とヒーエは思った。
とにかく、ホイナを怒らせた。それは事実だった。ヒーエはどうするべきか迷った。
結局、彼女が示した行為は単純なものだった。
「ごめんなさい」
ヒーエは謝る。
「あなたを貶めるつもりはなかった。私の知っていることが、その本に書かれていた。あなたのおかげでそれが分かった。それをまず感謝するべきだったのに」
口に出してみて、本の中身の一端を知れたこと、それは自分にとって大きな喜びであるはずだとヒーエは理解した。
たとえその内容が自分の知っていたことでも。否、自分の知っていることだったからこそ、それを証明してくれる物が存在することに、ヒーエは歓喜を抱くべきだったのだ。
そして、その歓喜を実現してくれたホイナという少女に、多量の感謝を示すべきだった。
「ありがとう。あなたが読んでくれて、私はとても嬉しい」
真剣な表情で、改めてヒーエはホイナに礼を述べた。
けれどホイナの表情は、ぽかんとした、どこか間の抜けたものだった。
そしてすぐ、彼女はその相貌を変える。可笑しそうに。
「ヒーエは、本当に変な子。そんなに真面目にならなくていいよ。もう怒ってないから」
「本当に?」
「本当。さ、続きを読もう」
再び戸惑うヒーエの様子、それさえ面白いのか、ホイナは微笑みながら本の解読を再開してくれた。
嫌われたわけではない、とヒーエは安心する。
そして、そんな安堵の気持ちになっている自分へ驚きを感じた。
嫌われ者のヒーエは、誰から嫌われても構わないと思っていた。けれど、村の外の都会からきたこの少女には、嫌われたくないのだろうか。ヒーエは自問する。答えは出ない。
ホイナが、自分の中でどのような位置にゆくのか。
そのことを考えると、ヒーエはどういうわけか、肌寒さを憶えた。
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ヒーエの父親は村一番の厄介者だが、昔からそうだったわけではない、とヒーエはラサギに聞かされたことがある。
彼も、彼の父、つまり村長から聞いただけなので本当のところは分からない。
しかしその話によると、ヒーエの父はかつてごく普通の、働き者の男だった。村の皆と同じ神を信じ、村の行事には欠かさず参加した、何の変哲もない独り者の百姓。
そんな彼ではあったが、同じ村の娘に異常なほど恋をした。彼女への恋文を書く為だけに、村長へ懇願して文字を習ったほどだ。その情熱が実り、彼と彼女は結婚し、ヒーエが生まれた。
だが、ヒーエを生んだ後、ヒーエの母親は急死した。流行病で、誰にもどうにもできなかった。
ヒーエの父がおかしくなったのは、それからだった。
彼は自分の畑を売り払い、それを酒に変えて暮らした。村の誰とも顔を会わせず、誰が来ても拒み、ひとりで過ごした。家財道具も次々と処分して、村で最も貧しくなった。
彼の手元に残ったのは、そうやって手に入れた金銭と、酒、そしてヒーエだけだった。
健常とは呼べなくなった父親がどうやって娘を育てたのか、ヒーエは知らない。ヒーエが働ける年齢になるまでは、まだまともな生活をしていたのかもしれなかったが、何にしろ彼女には分からなかった。
ヒーエに分かっているのは、父親は森の神を信じていることだけだ。彼だけの神を。
父親は昔からヒーエに言い聞かせてきた。
「村のみんなはお前に、みんなの神を信じろと言うだろう。みんなが信じているように。お前はそれに騙されるな。騙されれば、お前は死んだ後、苦しみしかない地獄へ行く」
そんなところへ行きたくないだろう? と、彼は幼い娘に教え続けた。
ヒーエは訊く。「私は死んだ後、森の神様のところへ行くの?」
父親が頷いた。
「そうだ。森の神の僕として死後の魂を供すれば、その褒美として、森の神はその者の生まれた地に栄えをもたらす。お前は地獄に行くことなく、さらにこの村を富ませることが出来る」
「森の神様の召使いになったら、どうなるの?」
「地獄の逆だ。幸福な暮らしがある。現世の辛さなどとはかけ離れた幸せを、森の神が約束してくれる」
「父さんも、私と一緒に森の神様のところへ行くの?」
「俺もお前もいずれ死ぬ。死ねば、その行き先は同じだ。森の神からの死を拒まなければ」
幼いヒーエにはよく理解できなかったが、死んでもひとりではないのだな、ということは分かった。
それだけは、安心できた。
だから彼女は、父親の言うことを守って生きてきた。
村の人々が信じる神を信じず、いずれくる森の神からの死を待って過ごす。どれだけ辛くても、必ず森の神がやってくる。
自分を苦しみの中から救い出し、そしてこの村を豊かにするだろう。苦しんで生きて、死後も苦しい場所になど行きたくない。
そう思って、ヒーエは生きた。
十年間、ずっと。
父親がくれた羊皮紙の本をホイナに解読してもらった、その日の夜も。
「父さん、今日、ホイナがあの本を読んでくれたんだ。父さんの言った通りのことが書かれてた」
藁の寝床に横たわり、襤褸布を体にかけたヒーエが、父親に言った。
父親は、今にも崩れそうな家の壁に背中を預け、床にうずくまりながら酒を呑んでいる。彼が何か食べている姿を、ヒーエは最近ほとんど見ていない。
月光と星明かりに浮かぶ父親は、人間ではないかのように痩せ細っている。薄くなった皮から骨が浮かび上がり、くぼんだ目が異様にぎらついていた。
彼はもう長くないな、とヒーエは思った。小さな頃から察していたことだ。父親はいずれ死ぬ。おそらく数年で。そして、この自分も。
「森の神様を、昔はみんな崇めてたんだね。だから森中の村はいつも豊作で、病気にもならなかった。けど、今の神様を信じ始めてから、畑は枯れて、疫病も来た。あの本にそう書かれてたよ」
「……お前があれを読めるようになったのは、運命だ。森の神が、呼んでいる」
乾いた木と木を擦るような声で、父親が言う。小さな声のはずだが、何もない小屋の中では妙にはっきりとヒーエの耳に届いた。
「お前に死が訪れた時、それが森の神のもとへ行く時だ。森の神を拒むな、疑うな」
ヒーエは頷く。
ヒーエ達の家は、家具という家具を処分してしまったので、ほとんど物がなかった。空っぽの家。今の父の中も、そうなのだろうか、とヒーエは思った。そして彼を思う時、いつも、自分はどうだろうと考える。
「ヒーエ、大事なのは死後だ。生は、死の為の試練でしかない。お前が森の神のもとへ行けば、この村は繁栄するだろう。それが、お前の生と死の価値だ」
「私は、ただ死んで消える訳じゃないんだよね?」
「そうだ。お前の生死には意味がある。残るものもある。恐れることはない」
父親は言った。
「他のみんなは? 違う神様を信じてる村のみんなは、死んだらどうなるの?」
「それこそ、意味もなく死ぬだろう。何ももたらさない。何も残さない。亡骸を土に埋め、記憶も時間が掻き消していく。死んだ人間のことなど、みんな忘れる」
「私は、死んでも忘れられない?」
「村に恵みをもたらすお前を、誰も忘れることなど出来ないだろう」
骨と皮しかないはずの父親の言葉は、不思議と力強く、ヒーエは彼の言うことを受け入れた。彼の言うとおり、ただ死んで消える、それだけで済まされることを、ヒーエは恐れ、嫌った。
だから彼女は、早く森の神が訪れるのを願った。
私はいつ死ぬの? とヒーエは訊いた。
「直ぐだ。それまで、生きろ。死を待って」
父親が応えた。ヒーエはそれを聞くと、おもむろに眠りに落ちる。
微睡む僅かな時間の中で、ヒーエは考えた。
ホイナは、死んだらどうなるのだろう。
関係ないか、と彼女は浅い思いで片付ける。神を信じていない少女の死後など、自分には関係ないのだ。
そう思って、ヒーエは眠った。