第1話:ヒーエ
ヒーエは村で最も貧しい家に生まれた。
母親は彼女が幼い頃に死んだ。父親は働きに出ず、酒に溺れていた。ヒーエは村のあちこちの家へ働きに出て、時折、食料のお零れを貰ってその日その日を生き抜いた。
ヒーエの家は、村から除け者にされていた。
村での共同作業――稲刈りや畦道の補修など――に、ヒーエの父親はいっさい参加しない。日曜日の教会にも顔を出さなかった。
父親は、村人たちが信じる神を信じていなかった。彼には彼の神がいた。
ヒーエにも、その神がいることを幼い頃から教え込んだ。その為、ヒーエは村人の拝む神は偽者で、父親の言う神が本物だと思っていた。
だからヒーエも、村の人間達に疎まれていた。
黒い髪と黒い瞳をしたヒーエは、ひとりだった。
ヒーエは川が好きだった。
仕事のない時間になると、村を流れる川の上流、森の中を切り進むように広がる岸辺が、彼女のお気に入りの場所だった。
どこかで川蝉が飛ぶ。川面の下に鱒を見つけることも出来た。木々の中からやってきた風が、川の上で遊んでいる。
ヒーエはその川縁の岩場に腰を下ろし、一冊の本を眺める。
古く、ぼろぼろになった羊皮紙の本だ。淀んだ目をした父親が彼女に与えた唯一の品で、森の神について書かれたものだという。
森の神。
それが彼女の信じる神だ。村の人々が信じているものとは違う。だから彼女は日曜日の教会にも行かないし、年に何回かある祝祭へも参加しなかった。
いずれ私は、この森の神のところへ逝く。
ヒーエはそう信じていた。だから、村でどれだけ心ない言葉を受けても平気だった。いずれ去っていくこの場所で、何をされようとも彼女には関係ない。
きっと村の皆は違うだろう。村人全員が、死ねば彼らの神の所へ行けるわけではない。きっと地獄に行く人間もいる。ヒーエは違う。彼らのところには行かない。天国も地獄も、彼女には関係なかった。
ヒーエは本を眺める。眺めるだけだ。
彼女は文字が読めない。この村で読み書きが出来るのは、村長とその家族、そして彼らから教えを受けた数人だけだ。
だから、ヒーエは本の内容を想像するしかない。
森の神とは、どんな神だろう。獣の姿をしているのだろうか。それとも、木々に近いのだろうか。
この本の中にはヒーエの疑問に応えてくれる様々なことが入っているはずだが、ヒーエにはそれを紐解くことが出来なかった。
そのことが、彼女を焦らせる。
森の神のもとへ行くのに、森の神のことを知らないのでは、話にならない。
誰か字を教えてくれる人はいないだろうか、とヒーエは思う。
そしてすぐに、無理だと諦めた。自分は嫌われ者だ。村長は、自分の村の中に、異なる信仰を持つ人間がいることを快く思っていない。
幼いヒーエにも、はっきり言われたわけではないが、言葉以外の感覚でそれを理解していた。
このままでは、森の神のもとへ行けないかもしれない。
それは嫌だ、とヒーエは思った。
そんなヒーエの願いを叶えたのは、ある都会からの来訪者だった。
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実のところ、ヒーエは村の全員から嫌われていたわけではない。
唯一と言っていい例外が、村長の息子、ラサギだった。
彼はこのような農村の人間ではあったが非常に聡明で、人柄もおおらかなものだった。
村で祭りがあり、子供達にささやかだがお菓子が配られると、その祭りに参加しなかったヒーエのところへよくそのお菓子を持ってきてくれた。
村長の家の屋根が壊れた時、修理の手伝いとしてヒーエを呼び、共に食事へ誘ったのも彼である。
彼だけは、ヒーエに優しかった。
そんな彼には、村長の決めた許嫁がいた。
村長には親友がいる。今は村を出て、町で豪商として成り上がった。
そんな彼の娘がそうだ。彼女とラサギは互いに面識もないうちから、親たちの取り決めで将来を決定されていた。
村長には、ラサギをこのまま村に置いておくより、親友の店に奉公に出させ、いずれは彼の店を継がせようという思惑があった。
「村長は、その店を乗っ取る気なんだね」
ヒーエはある日、ラサギにそう言った。
ラサギは苦笑して返す。
「そう上手く行くとは思えないけど、でも僕は町に行くことになる。幸い、僕には兄弟も多い。僕が出て行っても困らないよ」
ラサギは、自分の与り知らぬ所で決められた自分の人生を、その齢で受け入れているようだった。
「そうなってるんだよ。仕方ないね」
彼は、まるで大人のように笑って言った。
ヒーエは、彼が嫌いではなかった。お節介焼きのお人好し、と心の中で悪態を吐くことも多々あったが、彼女は彼が他の村の子供とは違う種類の人間であると思った。
それでも、ラサギは村長と同じ神を信じている。
ヒーエとは違う。
だから、ヒーエはラサギに心を開けなかった。
けれど、ある日、神様なんか信じてない、と言う人間にヒーエは出会った。
それが、ラサギの許嫁の女の子、ホイナだった。
ホイナという少女は、村では見たこともない上等な服に身を包み、輝くような金色の髪を光沢のある赤いリボンで結っている、まさに都会から来た子だった。
村長の親友であるホイナの父は、年に何回か、娘を連れて村に遊びに来ていた。ホイナとラサギは、小さな夫婦として周りからもて囃された。
村長の家の仕事を手伝いながら、ヒーエは遠くから彼らの姿を見ていたことがある。村の子供で最も疎まれているヒーエと、華やかな都会の少女ホイナとの間に、接点などなかった。
ないはずだった。
しかし、十歳のホイナの冒険心が、その空隙を突き抜けた。
ある日、ヒーエのお気に入りの川辺にホイナがひとりでやってきたのだ。
「なにしてるの?」
木々の切れ目から降り注ぐ陽光に祝福されるような、輝く黄金の髪をした少女が尋ねる。
ヒーエは瞬きを数回した後、逡巡してから応えた。
「森の神様のことを考えてた」
「森の神様って、なに?」
「あなたの神様とは、違う神様」
ヒーエは言った。するとホイナは困ったような顔で、小さく笑う。笑いながら彼女は告げた。
「私は神様を信じてないよ」
「どうして」
「周りのみんなが、神様のことを話してるから、私もそれに合わせてるだけ。だってみんな、神様の話はよくするけど、神様を見た人はいないじゃない」
本当は信じないといけないんだけどね、と、白い顔を子供らしかぬ表情で形作るホイナに、ヒーエは既視感を憶えた。
誰かに似ていると思ったのだ。それはすぐに分かった。ホイナの将来の夫、ラサギだ。
ホイナもまた、決まってしまっていることを受け入れて生きているのだ。疑問に思っても、口にも態度にも出さず。
ラサギのことを、ホイナは嫌っていなかった。その為、彼に似たところがあるホイナのことも、言葉を僅かしか交わさなかったにもかかわらず、嫌いにはならなかった。
「あなた、ヒーエでしょ? ラサギから聞いたことあるよ。ヒーエのお父さんはヒーエに森の神様を信じさせるのが生き甲斐だって」
ホイナは親しげに話しかける。ヒーエは表情を曇らせた。その反応を見て勘違いしたのか、ホイナは慌てて言葉を続ける。
「あなたの悪口なんか言ってないよ。不思議な子だって言ってた。友達になってほしいな、って、ラサギが」
「ラサギに言われて、ここに来たの?」
「ううん。実は、あまりあの家、ラサギの家なんだけど、好きじゃないんだ。ラサギはいい人だけど、この村も好きじゃない。いつもいる町が一番いい」
ホイナは溜息を吐く。
そんな姿でさえ、ヒーエの目には洗練されたものに映り、ついじっと見詰めてしまった。
ホイナはヒーエの視線をやはり勘違いして、さらに口を開く。
「ごめんね、あなたとあなたの村を悪く言うつもりじゃないの。お父さんはこの村が懐かしいって言うけど、私は全然知らないから、ここに来ると居場所がないんだ」
だから、勝手に抜け出て歩いてたら、ここに来たの。ホイナは言った。
ヒーエは、ホイナの台詞が悪口とは思わなかった。だから、何を言って返せばいいのか分からなかった。
ほんの少しだけ間を置いて、ヒーエは言う。
「ここは、村のみんなもあまり来ない。少なくても、私は誰とも会ったことない」
「じゃあ、秘密の場所なんだ?」
ホイナの顔が、輝くように綻んだ。本当に光の膜を皮膚に含んでいるかのようだ、とヒーエは感じた。みすぼらしい服と汚れた顔をした自分とは、別世界の住人なのだ。
だが異なる世界から来た人間だからこそ、ヒーエはあることを思いついた。そして訊いてみる。
「あなた、字、読める?」
「難しいのじゃなかったら」
さらりとホイナは応えた。よし、とヒーエは思った。
「読みたい本があるの。読んでくれない?」
「いいけど、ただで?」
「ここ以外にも、秘密の場所があるよ。それを教えてあげる」
これは取引になるのだろうか、とヒーエは不安になった。しかしホイナはヒーエの思いよりもずっとあっさり承諾した。
「別に他の場所でもいいけど、ここでもいいよ」
「なにが?」
「一緒に遊ぼう」
「……」
何を言われたのか、ヒーエには分からなかった。
取引をしていたはずなのに、どうしてそんな申し出をされたのか、理解できずにいた。
それよりもヒーエを困惑させたのは、自分と遊ぼうと言う言葉自体だった。そんな子は今までいなかった。ラサギでさえ、世話は焼くが、遊ぼうとはしなかった。
ヒーエは混乱する。
その混乱は、結局収まらなかった。
ぐるぐると回り続ける頭の中をそのままにして、気付けば、ヒーエはホイナに頷いて見せていた。
ホイナは笑った。嬉しそうに。ヒーエにとっては、非常に眩しく。
こうして、ヒーエとホイナは出会った。ほんの二年間の、短い付き合いの始まりだった。