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「ほ、本気で言っているのか……」
信じられない提案をするフィラーハに向かって、ユーグルはなんとか声を絞り出す。
「もちろんです! あ、安心して下さい、その後のお兄様のお世話はちゃんとさせていただきますから!」
うふふ、と口元を抑えて幸せそうにフィラーハは笑う。
「お食事はお兄様の好きなメニューをたくさん作って差し上げますね♪ それで……たまには口移しでなんて……アハッ!」
夢見る乙女のようにユーグルとの生活を夢想するフィラーハの一人言は止まる事を知らない。
「ちゃんと下のお世話もしますよ。最初は恥ずかしいかも知れませんけど、兄妹ですもの、すぐに慣れます。あ、性的な処理もお手伝いしますから、遠慮なくしてほしい事を言って下さいね♪」
早口で捲し立てるフィラーハの瞳は、ユーグルを映し込んではいるが彼を見てはいない。
幻想の世界に浸りながら話を進める彼女が、まるで非合法な薬をキメている中毒者のようで、ユーグルの精神をさらに疲弊させていく。
「……ものだな」
ポツリと何事かを呟いたアルツィの一言がユーグルの耳に届いた。
言葉尻しか聞こえなかったが、明らかにユーグルの現状に対する彼の感想的な発言……そう理解した瞬間、ユーグルの混乱した感情の矛先は、かの裏切り者へと向けられる!
「アルツィ! お前は何が目的だ!」
自分を見下ろす男を睨みながらユーグルは吠えた!
国を、仲間を、そして姉を裏切って、何を得て何を成すつもりなのか。
裏切り者の望むことなど、どうせロクでもない事に決まっている。
それでも……かつての仲間が何を天秤に掛けてその選択をしたのかを知りたかった。
「……姉上だ」
「……は?」
「だから、私の目的は姉上だ」
何を言われているのか解らないといった心情を表すようにユーグルの顔が表情が固まった。
「羨ましいものだよ、フィラーハが。愛する者を手に入れる事が出来てな」
ほんの少し、嫉妬と憎しみの籠った視線をフィラーハにチラリと送り、またユーグルに向き直る。
「だが、私ももうすぐ姉上をこの手に抱く事ができる……くだらない族長などという重責から開放され、私だけの姉上に戻ってくれるのだ……」
うっとりした顔で己の妄想を口にするアルツィの表情は、先程フィラーハが見せていた顔付きとよく似ていた。
一方、ユーグルは力ないくたびれ果てたような笑みが浮かんでしまう。
まさか自分の妹と仲間の重鎮が極度の近親愛者で、そいつらが自分の欲望の為に国を巻き込んで引っ掻き回していたなんて、想像もしていなかった。
真相を知ったこんな状況では、笑うしかないユーグルの心情も頷ける。
英雄と呼ばれるまでに研鑽を積み、身も心も鍛えあげてきたユーグルではあったが、変態二人が裏で糸を引いていた今回の一件には心が折れそうになっていた。
だが──。
『ユーグル、自分の為じゃなく誰かの為に強くなりなさい』
『優先するものを間違えないように』
『最悪の状況でも諦めないで。どんな手を使っても生き残る事が次に繋がるから』
折れかけた彼の心に、かつての師の言葉が心に浮かぶ。
族長……いや、先代の四弓にして師であったテナーロの教えが消えかけたユーグルの心に火を灯す。
そう、犯人や真相がどれだけ意外な物であろうと、今ユーグルがするべき事は!
「んぐぅあぁぁぁぁぁっ!」
雄叫びとも苦痛の悲鳴ともとれる声を絞り出しながら、ユーグルは地面を転がり距離を取る!
そして、自分の神器である大地弓を掴むと、射ち抜かれた手足の傷口から血を噴きつつもゆっくりと立ち上がった!
「お兄様!」
血まみれになりながら立ち上がるユーグルの姿に、フィラーハが悲痛な声を上げる!
「無茶は止めて下さい! これ以上血を流してはっ!」
先程まで自らユーグルの手足を切り落とそうかなどと提案していた態度とは一転して、蒼白になりながら兄を止めようとする。
そんな妹を決意の籠った視線でユーグルは見据えた!
その気迫に押され、フィラーハは思わず動きを止める。
さらにユーグルはアルツィに視線を移し、痛みと失血で震える腕を無理矢理動かして弓を構えて言い放つ!
「四弓の立場でありながら守るべき秩序を乱し、神獣の殺害に荷担した罪は重い!族長に……我が師テナーロに代わって、お前は俺が裁く!」
満身創痍と言える状態でありながら、その言葉には凛とした力が宿る!
しかし、そんなユーグルの気迫に劣らぬ殺気がアルツィから立ち上った!
「誰に……代わって、だと?」
アルツィが弓を引き絞りながら、憤怒の言葉をユーグルにぶつける!
「姉上に教えを受けていたというだけで図に乗るなよ! お前ごときが姉上の代わりなどと名乗ることすらおこがましいわ!」
怒りのままに矢を放とうとするアルツィ!
しかし、その足元に突然の電撃が走った!
その場にいた全員の視線が魔法を放った人物、すなわちフィラーハに向けられる!
「それ以上お兄様を傷付けたら殺すと言った筈です!」
怒りに燃えるフィラーハ。しかし、同じくらいにアルツィも怒っていた。
「……計画上、仕方がなかったとは言え、お前も姉上を傷付けた罪人だ。先に殺されたいのか」
睨み会うアルツィとフィラーハ。
英雄と呼ばれる、人を越えた者達が醸したす殺気に、二人の間の空間が歪む。
(いいぞ、その調子だ!)
怪我をおして矢を構えていたユーグルが内心ほくそ笑む。
今までの会話から、偏執的なまでにユーグルや族長に執着しているのは解った。
案の定、族長の名を出した途端にアルツィは乗ってきて、それにフィラーハが反応する。
後は、この二人をかち合わせて、その隙に脱出するのがユーグルが画いていた計画だった。
二人が本格的に撃ち合いだしたら即座に神器で転移門を開いて王都に戻る。
そして、状況を報告し、ナトレと兵を連れ戻って一成達を援護、敵の英雄を撃退……上手く行けば不可能ではないだろう。
しかし、そんなユーグルの目論みは、突然横合いからかけられた声によって破綻する。
「はいはい、お二人とも落ち着いて!」
パンパンと手を叩きながら割って入って来たのは、この場にいたもう一人の六杖!
今まで空気や木石のように存在感の無かった男がようやく動いた瞬間だった。
「邪魔をしないで下さい、ムシルダさん」
アルツィへの意識を切らさずにフィラーハがムシルダと呼ばれた男の介入を否定する。
口には出さないが、アルツィも同意見のようだ。
だが、ムシルダは臆することなく二人に問う。
「あなた方の第一目標はなんです? それを果たす前に下手すりゃ死ぬような博打に手を出す意味はありますか?」
言われて、今まで睨みあっていた二人の殺気が弱まっていく。
確かに全てを裏切ってまで二人が求めたのは最愛の人物。
それが手に入る寸前なのに、刺し違えるような危ない真似は確かに割りに合わない。
(くっ……)
この流れに、ユーグルは歯軋りする思いだった。
上手く行きかけていたのに、わずかな言葉で振り出しに戻されてしまい、ユーグルは呪詛の籠った視線でムシルダを睨む。
そんなユーグルに、ムシルダは「残念でした」と言わんばかりのニヤついた笑みを返してくる。
「さあ、お兄様。一緒に参りましょう」
満面の笑みで両腕を広げながらフィラーハがユーグルに迫る。
ジリジリとわずかに後退りながら、何か他に打つ手はないかとユーグルは必死に考えていた。
と、その時!
突如、彼らのいる広場の上空を、空気を切り裂く音と共に巨大な雲のような物が覆い隠す!
突然の光景に上を見上げた全員が見たもの……巨大な雲のように見えたそれは、数えるのもバカらしくなる程の蟲の群れであった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
構え、睨みあう俺とリョウライ。
うーん……なんだか向こうはえらく様になってるな。
口には出さずに観察していると、リョウライの方から声をかけてきた。
「お前さん、さっき八極拳の靠撃っぽい技を出していたが、あれは我流か?」
ギクリと心臓が軋んだような気がした。
ああ、その通り。大正解だよ!
しかし、それを見抜く辺り……さてはやってるな?
訝しげな目を向ける俺に、リョウライは苦笑しながら、一度だけ突きの空打ちをして見せた。
「形意拳……俺がやっていたのはそれだ。郭 雲深のエピソードに惹かれてな」
郭 雲深……たしか形意拳の崩拳の達人で「半歩崩拳、遍く天下を打つ」と称賛された人物だ。
確かに技を極めたって感じで、格好いいよなぁ。
「この世界に来てから、俺はひたすら崩拳だけを研いた。今や俺の崩拳も遍く天下を打つだろう」
むぅ……そこまで言うからには、相当な自信があるみたいだな。
だが、俺のなんちゃって格闘術だって舐めてもらっては困る!
ほぼ脳内組み手とは言え、鬼のように修行したのは俺だって同じだ!
一つを極めたリョウライか!
無数の技を身に付けた俺か!
……「千の技より極めた一つを恐れよ」なんて言葉がある辺り、俺の方が不利っぽい感じはするなぁ……。