三、爾恵摩の猫
幾年かに一度、七月の頃、爾恵摩島から風が渡る。その風に乗って、異国のものがこの浜に流れつく……
三、爾恵摩の猫
異国の風が流れてくる。
斉田湾の船着場にたむろする漁師たちは、時化に荒れる海を眺めながら、ぼんやりと煙草などふかしていた。
「今日で幾日目になるかね」
「ちょうど一週間ぐらいじゃあないかねえ」
七月にこれだけ海が荒れるというのは珍しい。おかげでおまんまの食い上げだと、漁師たちは延縄などを手入れしながら愚痴をこぼしあっていた。
「こいつは爾恵摩島のほうから吹いてくる風さ」
ひとりの年老いた漁師が、口ひげについた塩を払いながら言った。
「幾年かに一度、七月の頃、爾恵摩島から風が渡る。その風に乗って、異国のものがこの浜に流れつく……古くから斉田で継がれた言い伝えだが」
その幾年というのが、果たして数年か、数十年か、数百年か。それは誰にもわからない。実際に、この漁師も還暦を迎えて久しいが、生涯でこの現象に出会ったのはこれが初めてであった。
「異国のものって、何だい」
ひとりの若い漁師が興味を持って、老人に尋ねた。
「いいや、わからんよ。物かもしれんし、人かもしれん。あるいは……」
そこへ、おうい、と人を呼ぶ声がかかった。
「ちょっと来てくれ」
浜辺に流れ着いた海藻のなかに、一匹の猫が絡まっていた。高潮にもまれたようで、長い毛足はぐっしょりと濡れ、生きているかどうかさえ疑わしい。
「海へ落ちたんかな」
かわいそうがった漁師のひとりが海藻を解いてやると、なんと猫は目を覚まし、ひょいと立ち上がった。だいぶ毛が吸っている海水を、ぶるぶるっと体を振るってはね飛ばし、涼しげな緑の目で漁師たちをぐるりと見渡す。
毛足が長く、背中や尾はサビトラといった風、口元や足先、裏地は黄土がかった色をしている。宝石のような緑の目はらんらんと光り、この辺りでは見られない猫だということが、誰にもわかった。
「まさか、こいつかな?」
若い漁師が老人の肩をたたいた。
海を見れば、風はやみ、穏やかな波が打ち寄せている。
斉田湾に流れついた猫のことは、人のあいだでも、猫のあいだでもたちまち有名になった。
この猫は打ち上げられて早々、ものめずらしさから引き取った家で自分から水浴びをし、家人の度肝を抜いた。それからすぐ隣の家へ行き、雑草をいぶす火の近くに横になって、体を乾かしていたという。
「この地方では、昔から漂着したものに何らかの神性を認めてきた。あの猫も案外、神さまとして祀りでもしたらいいのかも知れない」
斉田で民話や伝説を聞いてまわっていた国文学者のたまごは、そのように言った。
「それが、あながち神さまだってのが、間違っていねえかも知れねえよ」
そのうち、東屋のばあさんの白斑がなおっただの、五郎の骨折がよくなっただの、猫に触れたり祈ったりすると良いことがある、という噂が流れ始めた。
斉田の村役場などでは、この猫を目玉にして、観光客を呼ぼうという計画まで立てられたという。
「あんまり騒ぎにしないほうが良いように思うがね」
斉田で有名な「海原の温泉」に湯治に来ていた紳士はそう言ったが、聞くものはなかった。
小さな集落はお祭り騒ぎで、不思議な猫の来訪に浮かれきっていた。
「果たして、それがほんとうに吉兆ならばいいが」
「東京のかた、何をそんなにぴりぴりなさるね。あんた、猫はお嫌いかい?」
宿の女将に言われて、紳士は丸眼鏡を直しながら、ううんとうなった。
「いいや、前世では猫にうんと恩があるんだが」
斉田湾に猫が打ち上げられて、一週間が過ぎた。
漁はすこぶる快調で、湯治にくる客の数も増え、村は大賑わいであった。
「猫のことをふれ回る前でこれだもの、えらいご利益さね」
宿の女将もこれまでにない忙しさに目を回す。
紳士は宿を出て、人でごった返す小さな通りを、港のほうに向かった。
防波壁の上に、件の猫はいた。のんびりと日向ぼっこをしているようであった。
「よう、名前はなんていうんだ」
紳士が声をかけると、猫は鬱陶しそうにこちらを振り返る。
「おれは藤枝吾郎ってんだ」
眼鏡をずらしてまばたきを一つ。猫はさらに面倒くさそうにしながらも、まばたきを返してよこした。
「おれはジェマ。海の向こうの島からきた」
そう言ってあくびをすると、猫は再び海のほうを向いて、押し黙ってしまった。
なるほど、こいつは一筋縄ではいかない相手だ。藤枝が次の手を考えていると、そこへ、国文学者のたまごがやってきた。
「やあ、やあ、藤枝さん」
「これはこれは、椎名くん」
この青年は同じ東京出身である藤枝のことを、先輩のように慕っている。見てきたように――実際に見てきているのだが――昔のことを詳細に語る藤枝のことを、歴史学の大家とかってに思い込んでいるらしかった。
ところで、椎名の手には鰹節と、それを削るためのカンナがついた箱が握られていた。
「よかったよかった、ここに居たか。どれ、ちょっとこっちを向いてくれよ……」
彼は熱心な学者であったが、高価な本ばかりを買い求めなければならず、非情につつましい暮らしをしているらしい。よってカメラなどというものは買えずに、気になる風景やものがあれば、こうしてスケッチブックとコンテで写生をするのであった。
「なんだ、この猫の姿を写したいのかい」
「ええ、記念にと思って。正直、村の神さま騒動にはついていけませんよ。漂流物を神聖視する風習はわかりますが、やっぱり相手は生きた猫です。最初にあんなことを言ったのは僕ですが、猫もいい迷惑でしょうに」
藤枝には、聞いてもいないことまでよく喋る。
「ほれ、こいつもこうして反省していることだし、ちょっとこっちを向いてやるくらいはいいだろう」
「ああ、おれは構われるのがいちばん嫌いだ」
しかし、鰹節に免じてといって、猫はくるりと椎名を振り返った。
「おお、やった」
椎名は嬉々として、すばやく猫の姿を写し取り、お礼の鰹節をその場で削りはじめた。あんまりいいにおいをさせるもので、藤枝の喉までがごくりとつばを飲みこむ。
「あれ、藤枝さんも召し上がりますか。実はこれ、いいものですよ」
しばし、猫と大の大人がふたり、削りたての鰹節をもさもさと食べる奇妙な光景がくりひろげられた。
夜になり、藤枝は再び漁港を訪れた。
やはりあの猫はそこにいて、海を眺めていた。
「帰りたいのかい」
「いいや」
ジェマは背中を向けたままで言った。
「そもそもおれは、自分の意思でここへ来たわけじゃない。だから、帰るときもいつだかわからない。おれには待つことしかできない」
昼間に比べればずいぶんとお喋りになった。やはり、夜のほうが目が冴えていて、機嫌も良いのだろうか。
月明かりに照らされる夜の海は、まるで大きな真っ黒い生き物のようで、寄せては返す波が鼓動のように感じられる。
「島はどんなところだい」
「さあねえ、昼間はそれは賑やかだし、夜は素敵なほどに不気味だが、これといって変わったところはないよ」
爾恵摩島。それは猫ならば誰もが知っている場所だ。
「そうかい。おれの聞いた話じゃあ、特別なところだってことだが……」
爾恵摩島に降る雨は玻璃の雨、水溜りは水晶のようにきらめき、一年中晴れる日がない。雨がやんでいる間はうす曇りで、南洋の植物が先を争うように背伸びをし、いつも暗い影が島を覆っているという。
洞窟のなかは鍾乳石やとりどりの宝石で満ち溢れ、周辺の海では天然の真珠貝が群生している。
そこに暮らす生き物は、聞いたことも見たこともないような獣たちだ。ニホンオオカミ、ハシブトゴイ、ヒラマキウマ、ヒタタキ、ツキノワグマ……
島の大地は海から突き出した岩石の上に広がり、ねずみ返しのようになっているから、招かれたもの以外は決して踏み入ることができない。
ただ、島の中枢へと降りていく階段があって、その先には猫が一匹通れるだけの通路があり、許された猫だけが行き来ができるということだった。
「それに、島の真ん中には『金波塔』ってりっぱな塔が建っているそうじゃないか。金波塔のてっぺんには、神さまがいるって話も聞いた」
「ふん、お前も昔は猫だったろうが、いまは人間だ。話してやれることは何もない」
「つれないねえ」
藤枝は懐からパイプを取り出し、夜空へふっと煙の筋をあげた。
「爾恵摩島へ行った猫は、みんな金波塔にのぼることができる。金波塔をのぼりきった猫は、なんでも願い事をひとつきいてもらえるって……」
「そうだ。きいてはもらえるだろう。だが、叶えてもらえるかどうかはわからんな」
金波塔の頂上に座す神は、願いをきく代償として、その猫の存在をこの世から消し去ってしまう。だからといって、猫が望むままの願いを叶えてくれるわけではない。
「ジェマよ、お前さんもその塔へのぼった猫なんじゃあなかったのかい」
ジェマのしっぽは、是とも否とも言わずに、ただふらりふらりと振れるだけ。藤枝のパイプから上がる煙も、夜の静かな潮風になびいて、左右に揺らぐ。
「あんた、何を願ったんだい? ああ、いいよいいよ、聞かせてくれる気になったら、ぼんやりとここで聞いているよ……」
ジェマの毛並みが風になでられ、ふわりと綿毛のように揺れた。ふつうの猫よりも一回りか二回りほど大きな体が、塀の上でむくりと立ち上がり、ゆっくりと藤枝に向き直る。
藤枝と目を合わせたジェマは、観念したように頭をふった。
「いいだろう、まだ時間はある。誰か一匹には、こんな話をしなけりゃいけないと、おれも思っていたところだ」
お前さんは、仲間が一匹もいなくなるって思いをしたことがあるかい。
おれは何度も夢に見たもんだ。日に日に少なくなっていくおれの仲間が、おれと同んなし連中が、あるときついに、ぱったりと姿を消しちまうって夢をな。だけどそれも夢で終わりゃしないのを、おれはわかっていた。
いつか、おれの一族はこの世から姿を消しちまうってことが、おれにはわかっていたんだよ。
だからおれは海を渡り、ほんとうにあるかどうかさえも知らない島を目指した。
その頃、島には名前もなくて、浜辺からすんなりと陸へ上がれたし、小鳥やねずみくらいしか棲んじゃいなかった。
金波塔だけは、変わらず島の真ん中へ建って、雲を突き破っていたよ。
おれはのぼっていったさ、声に招かれたわけでもないのに、延々とのぼった。金波塔の螺旋の階段は終わりを見せない。おれが呼ばれた客じゃあなかったってことも、あったかもしれないが。何度も諦めかけてはまたのぼり、下をぐっと覗きこんで、ちょっとここから飛んでみようかなんて思ったりもしたが、荒海を渡る苦労に比べればと、とにかく頂上までこぎつけた。
そうまでしてやってきた猫を、金波塔の神さまとやらも不憫に思ったか、願いをひとつ聞いてやろうというんだ。
だからおれは、願ったよ。
「この世から消えそうになっている生き物を、みんなこの島へ呼び寄せて、一族の命を永らえさせてやりたい」
そう言ったら、神さまはそりゃあたいそうな願いだと驚いていた。
「こいつは見上げた願い事だ。それにお前は、いっとう特別な力を持っている猫だろう。それじゃあひとつ、私を手伝ってもらうことにしようかね」
おれの願いは島の地面をたかく引き上げ、外界からのものをいっさい受けつけないようなつくりにした。
島には見たことも聞いたこともないような獣たちが集められ、暮らしはじめた。おれの一族もいまではそっちで大半が暮らしている。そろそろ、島のほうへみんなで越そうかといっているところだ。
そんなわけで、島には猫が通れるだけの道があるのさ。
金波塔も、昔は人間だって何だってのぼることができたんだが、今となってはたどりつけるのが猫だけになっちまったんで、猫の間でしか知られていないのさ。
さいごに、神さまはおれの魂をつくりかえた。おれは神さまの遣いになった。もう生きることも死ぬこともない、猫でありながら猫ではない。
そんなおれが、こうして人の世に打ち上げられたのは、なぜだと思う。
「気をつけな、もうじきに、きっと人間もあの島で暮らすようになるぜ」
ジェマの笑った顔が闇に溶け込む。宝石のようにきらめく緑の双眸だけ残して、ジェマの姿はどんどんと闇に溶けていった。
やがて、月に照らされた海の光と、パイプの先に灯る小さな火のあかりだけが暗闇に取り残される。
ほかに光っているものは、藤枝の黄色くするどい目だけだ。
宿に戻ると、椎名が騒いでいた。手には昼間のスケッチと、なにやらぶ厚い本を持っている。
「ああ、藤枝さん、見てください」
椎名は藤枝の前に本を突き出した。見開きのページには、見慣れない猫の図と、長ったらしい名前が記されている。
「ほら、あの猫、そっくりでしょう」
イリオモテヤマネコ。
何だか知らないが、たいそうな名前じゃあないか。藤枝は笑って、図鑑を椎名につき返した。
「あの猫なら、もう帰ったよ」
「ええ」
椎名はすっとんきょうな声を出し、言葉の先を見つけられないようであった。藤枝は椎名の肩をひっかけ、自分の部屋へと誘う。
「自分の島で大切なお役目があるんだとさ。それより今夜はいい月夜だ、呑もうじゃないか」
「僕は、お酒はあんまり」
「そうつれないことを言いなさんな、興が冷める」
人間ってものは、いつかはこっちの世から姿を消すかもしれないのか。それなら今のうち、たくさん仲良くやっておこう。
いつか猫だけの世の中になるかも知れない。そんなとき、ちょっと昔を思い出すのに、仲のよかった人間の話はいい酒の肴になるだろうから。
幸い、今夜はいい月がのぼっている。
「今日のことは、後々の世まではっきりと思い出せそうだ」
杯を傾けながら上機嫌に言う藤枝に、椎名は首をかしげつつも、つられて笑った。椎名のほうはだいぶ出来上がっているようだ。
「おかしなひとですねえ、藤枝さんは」
「なあに」
丸眼鏡の奥の目が光る。月に照らされた藤枝の影に、愉しげに尾が揺れる。
あなたの町にも、野良猫たちに混じってジェマが来ているかも知れません。
もちろん、藤枝たちも……




