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猫下ろし草紙  作者: 天秤屋
2/6

二、金波塔へ

 金波塔のてっぺんには神さまがおわして、願いをかなえてくださるんだと。

二、金波塔(きんぱとう)

 金波塔の頂上には神さまがいらして、訪れたものの願いをきいてくれるそうな。



 湿気た夏の夜は、じめじめと鬱陶しい。

 片目に傷のある母猫は、仔猫どもの毛づくろいをしてやりながら、湿った縁の下に横たわっていた。

 ああこれ、ムカデなんか相手にするんじゃないよ。およしよ。

 三つも仔どもがありながら、この仔たちは父親の顔など見たことがない。仔を産み、育てるのはいつだって女手一つだ。それが当たり前だ。

 だけどほら、この上。家ン中で暮らしている人間たちゃ、父親ともいっしょに住んでいるんだよ。まあ人間ってやつは変わっていて、自分たちでどこかからマンマを捕ってくるわけにいかないらしいからね。父親がうんと働いて、稼ぎをだして、そいつでマンマを買うんだとさ。

 さて、でもこの家には父親はいないようだね。早くに死んじまったか、それとも別の家へ出て行ったか、そんなことは知らないが。

 ね、お前たち。ここの家のぼうずにはお世話ンなってるんだから、うんと愛想よくしてやらなきゃいけないよ。あたしらは、ぼうずのおかげで楽な暮らしをしているんだからね。

 あい、あい、わかったよ、おっかちゃん。

 仔どもがニイニイ鳴くと、人間の子どもが縁の下をのぞきこむ。

「おなかがすいたのかい」

 そう言って、自分のおやつに出された焼き餅だの、大福の中のあんこだの、そういったのを、ちゃあんと小皿に盛って、縁の下へ滑らせる。

 仔猫どもは嬉しがって、わいわいお祭りをやりながらそのご馳走を平らげた。

「いつも悪いねえ」

 母猫が声をかけると、ぼうずはにこにこして答えた。

「お前も、よくひとりで仔どもをやしなっているね」

 その労いは、きっと自分の母親に言ってやりたい言葉だろう。母猫は承知して、なあに、と一声鳴いた。


「これ、ヨシ坊。ちょっとお遣いを頼まれてくんな」

「はいよ、おっかさん」

 台所に立ってぱたぱたと働く母親は、ぼうずにひとつ籠を持たせた。籠のなかには青く光るほど瑞々しいほうれん草が入っている。

「それ、近所の阿形さんとこへ持っていっておやり。かわりに、いただけたら洗剤をわけてもらっておいで」

「はあい」

 ぼうずは気前の良い返事をして、籠を抱いて通りを走っていく。

「あんまりあわてて、転ぶんじゃないよ」

 背中から母親の声が追いかけてくるが、ぼうずはにかっと笑って、ますます速く走っていく。どんなもんだい、こんなに速く駆けられるんだぞ、と言っているようだった。

 飛ぶように走っていって、ぼうずは五軒となり、二軒南の家へついた。阿形の家は大通りに面した商家で、わき道から飛び出すと、ますます道も家も大きく見えた。

 ぼうずは阿形の家の門をくぐると、玄関までいって、開け放ってある戸のせいいっぱい上のほうを叩いた。

「ごめんくださあい」

 はい、と奥方の声がする。

「あれあれ、ヨシ坊。お遣いかい?」

「うん、これ、おばさんに」

「あらあ、いいほうれん草だね」

 ぼうずが差し出した籠を受け取って、奥方はいったんそれを玄関のわきへ置いた。夕飯のしたくをしていたからだろう、奥方は自分のところのおっかさんと同んなし割烹着姿であった。

 しかし、おっかさんとはずいぶん違う。肌は真っ白で雪のようだし、腕も指もほそくて、せとものみたいにつるっとしている。髪は真っ黒で艶があり、化粧がよく映えて、子どもでもほれぼれするほどだ。

 おっかさんは、髪はぼうぼうだし、腕も日焼けしていて、指なんか節くれだって赤黒くなっている。昔は、それは高貴な家の出身で、人形みたいな美人だったと近所のひとは言うけれど、今ではお百姓のように、土にまみれて畑仕事をやっている。

 違うんだなあ、なんだか、おっかさんはかわいそうみたいだなあ、と子ども心にぼうずが考えこんでいると、奥方は優しく笑ってたずねた。

「こんな良いものをもらって、それじゃお返しに、何あげようか」

 ぼうずは、あっと言って、お遣いの中身を思い出した。

「あのね、せっけん貸してくださいな」

「ああ、せっけんね……」

 奥方は考えこむようにして、台所からお手伝いさんを呼んだ。

「ちょっと、せっけんはあったかい?」

「へえ、それが、せっけんは切らしているところでして。明日にも買いに行こうかと」

「まあまあ、悪いねえヨシ坊。もし明日でもよかったら、とりにおいでな」

 奥方は困ったように笑って、ぼうずの頭をよしよしとなでた。

 ヨシ坊のヨシとは、名前のことではない。こんな風に、いろんな人からよしよしと頭をなでられるような良い子だということで、ご近所連中がヨシ坊、ヨシ坊と呼んだのが始まりだ。

 ただ、いくらよしよしとなでてもらっても、お遣いができなかったんじゃ何にもならない。

 ぼうずはしょぼくれて、前も見ずに大通りへ出た。

 そこへ。

「危ねえっ」

 誰かが叫んだ。



 台所で、母親がぶつぶつ言いながら歩き回っている。

「おかしいねえ、遅いねえ……」

 どうやら、ぼうずがあんまり帰らないので、気をもんでいるようだった。

「しかたない、ちょっとようすを見てきてやろうか」

 母猫は縁の下から這い出すと、仔どもらにジッと待っているよう言いつけて、さっと塀へ飛び上がった。そこから軒伝い、また塀伝い、通りを渡って、あっという間に阿形の家の脇へついた。

 路地からそろりと顔を出すと、大通りが騒がしい。

 ありゃあ、阿形の家のすぐ前だ。やたらでっかい荷馬車が停まっていて、人だかりができていた。

「何だろうね……」

 阿形の立派な土塀の上へ乗って、母猫はそろりそろりと人だかりに近づいていく。

 と、後ろのほうから、やたらばたばたと音をさせて、人が走ってきた。白くて丈の長い背広に、大きな革のかばんを提げた、あいつは医者だ。

「先生! 早う、早う」

 大人たちが一斉に手招きをする。慌てふためいたようすでやってきた医者と、医者を連れに行った男とが、群集に呑み込まれるようにして騒ぎの真ん中へ駆けつけた。

「どうね、先生」

「ああ、どうにもこうにも、これは……」

 かがみ込んだ医者が、すぐにまた立ち上がった。首を横に振っている。

「もうだめだ。即死だ。はね上げられたときか、地面へブッつかったときか、背骨も首の骨も折れちまっている」

「ちくしょうめ、むごいことをしやがって」

 一人の男がすごんで、馬車を急がせていた使いの胸倉をつかみあげた。

「許してくれ、夜までに荷を運ばなけりゃ首がとぶとこだったんだ! 俺だって家族があらァ、許してくれ!」

「このやろう、人が死ぬほどのいきおいで、こんな大通りを走るやつがあるかっ てめえ、人殺しめっ」

 今にも殴りかからんとする男を、医者と、数人のやじうまがとめた。

「やめろ、騒ぎを大きくするんじゃない。それより早く桶かなにか、持ってこい。このまま、この子をここへ放っておくつもりかね」

 息巻いていた男は鼻をすすり、悔し涙をのんで「おう」とこたえた。

 それから、桶屋の主人が、子どもがひとりおさまるような樽を運んできた。大人たちがかがみ込み、そっと何かを抱えて樽へ移している。

 見えた。

 母猫はぶわりと体じゅうの毛を逆立てた。

 紺地のかすりに、欝金で染めた帯をしめ、ぼうず頭がまだ青い。あの優しい顔には泥がついて、血がついて、もう見ていられない。

 なんてこと。

 これを、あの母親が知ったらどう思うだろう。自分の子が、こんな姿になったなどと。

 それ、知らせがわき道を走っていく。

 しかし、それから母猫が思案したのは、悲しむであろうぼうずの母親のことではなかった。

 これからどうして、あの仔たちを育てていこうか。

 あの母親が、いままでにマンマをくれたためしはない。どこか他のところへ移ろうにも、ここらはだいたい縄張りがせまくて多くて、仔どもを連れながらやたらに動いてはいられない。

 ええ、憎たらしいのはあの荷馬車。こんなに良い子をはね飛ばして、何の弁償もあったもんじゃない。同じお使いの身だって、お前なんか、あの子の代わりになんぞなるものか。

 母猫はじっとりとした呪いを使いの男へ送って、くるりと背を向けた。

 阿形の家の玄関先では、奥方が泣き崩れ、お手伝いさんが懸命に背中をさすってやっている。


 数日は、母猫もすずめをとったり、ねずみをとったりして仔猫どもをやしなってはいた。だがそれも、すぐに他の猫に見つかって、狩場からは追い出されてしまった。

「なんだい、仔どもを育てる女の一匹くらい、お前らで面倒をみてくれたっていいようなものだよ」

 若い雄に捨てぜりふをはいて、今日も母猫は狩場から追い立てられる。

 そうして戻ってみれば、家のようすがおかしい。

「どうだ、他には」

「何も。縁の下に猫が仔どもを産んであったから、そいつは始末しておいたよ」

 母猫は耳を疑った。自慢の耳だ。どんなに遠くでするねずみのくしゃみだって、聞き逃さない上等の耳だ。

 何だって。

「家財道具で売れそうなもんはもうないか」

 男どもは、土足でひとの家へあがりこみ、どかどかといろんなものを持ち出していく。

 ぼうずの母親はどうしたのだ。ええい、それよりも。

「お前たち!」

 母猫は叫びながら縁の下に滑りこんだが、そこに仔どもの姿はなかった。代わりに、ぼうずがいつもマンマをくれた小皿がひっくり返り、赤いつぶつぶがぶちまかれている。

「こいつは毒だ!」

 母猫は怒りのあまり、悲しみのあまり、もう身が縦に裂けてしまうかと思うほど震え上がった。

 やつら、あの男ども、どうしたってこんなにひどいことができよう。腹をすかした仔どもたちに、ぼうずが使った小皿で、ねずみ捕りの毒を盛るなんて。

「殺してくれる!」

 母猫は向こう見ずに縁の下を飛び出し、家のなかへさっと上がりこむと、ものすごい形相で男のひとりに飛びかかった。

「ぎゃあっ」

 修羅と化した母猫の小さな顎は、たしかに男の喉笛をかききり、骨を砕くほどに食い込んだ。血しぶきをあげてもだえ苦しむ仲間を見て、もう一人の男は恐れをなした。慌てて庭へ出て行く。

 しかし、男は戻ってきた。手には納屋に置いてあった鋤を構えている。

「この、化け猫め!」

 そいつを力いっぱい母猫に振り下ろす。

「ギャッ」

 たまらず、母猫は男の喉から顎を離した。良かったほうの目もつぶれ、体じゅうに、どうやら穴が開いた。

 痛みと熱に目もくらんだが、男のひとりは助かりそうにもなく、ひとりは逃げるようにして去っていくのを、たしかに見届けた。

 どうだい、復讐はしてやった。

 だけど、と母猫は意識もうつろになりながら思う。

(あのぼうずが死にさえしなければ、こんなことにもならなかったろうに……)



 次に母猫が目を開けたときには、真っ白なところに居た。

 どこだか検討もつかないほどに白い。雪か、それにしては冷たくない。猫の足のうらというのは案外鈍いもので、地面が硬い、石の床のようなものだということくらいしかわからない。

 母猫は立ち上がり、方々を見渡した。

 目はあいかわらず片方しか見えないが、体はぴんしゃんとしている。男に鋤でなぐられた傷跡など、どこにもないようであった。

「ははあ、あたしは死んだのかね」

 猫というものは、生きることと死ぬことをはっきりと区別している。だから、自分が死んだのもわかるし、殺されたというのもわかる。蛇と同じで執念深く、自分を殺したものの顔は生まれ変わっても忘れないほどだ。

 あの男の顔ははっきりと覚えているぞ、と母猫はうなり声を出した。

「孫子の代まで祟ってやろう。あの荷馬車の男にかけた呪いも、きっと忘れないよ」

「そう悪いことばかり考えるものじゃない。それに、お前は生まれ変わることはできないよ」

 すると、上のほうから声がする。

「誰だい」

「さあ。知りたければのぼっておいで」

 よくよく目をこらすと、地面と同じ白い色をした段々が、どこまでも上へ向かって伸びていた。くるりくるりと螺旋を描く階段を、母猫はどこまでものぼっていく。

 これは天の国まで伸びているかのような高さだ。あっという間に、さっきまで居た地面が気の遠くなるほど下になった。

 あまりに階段が長いので、のぼりながら、母猫はいろんなことを思い出していた。

 自分が仔猫であったときの、母猫のぬくもり。若いときは言い寄る雄どもや、狩場の少なさで苦労したこと。

 身重の体でやっとたどりついたあの家で、ぼうずによくしてもらったこと。仔猫が生まれてからは、毎晩、三つのちいさなぬくもりを抱いて眠ったこと。あの仔たちの声。ぼうずの笑顔。

 自分は、なんて恵まれていて、なんて幸せな思いをしていたんだろう。

 母猫の片方の目から、涙がこぼれる。それはあたたかい思い出を懐かしむ涙でもあり、悔しさと怒りの涙でもあった。

 そんな幸せを奪っていったやつらが憎い、憎い、憎い。

 母猫がたまらず、負の感情に押し流されそうになると、さっとあの声が通りすがっていく。

「そいつらを呪ったって、幸せが甦るわけじゃない。呪いは呪いしか生まない。それがめぐりめぐって、お前がこれから出会うはずだった者たちにまで及ぶことだってある。それじゃあ、あんまりだろうに」

 声は上から下へ、母猫の恨みつらみを押し流すように。下から上へ、母猫を励ますように。階段をのぼる間じゅう、絶えることなく響きわたった。

「さあ、もう少しだ。お前は、お前の手でさだめを変えなけりゃいけないよ」

 とん、と小気味の良い音がして、母猫は階段をのぼりきった。そこは下と同じようにどこまでも白い場所であった。

「おいで」

 その白い床の上に、なごやかな光が集まる場所があった。母猫はそろそろと光へ近づいていく。

 光に近づけば近づくほどに、母猫の青みがかった黒い体は、長い毛先から同じように光り輝いていく。

 やがて、母猫の体も光に包まれた。

「さあ、よく来たね」

 そうしてはじめて、光の中心に座している、男とも女ともつかない人間の姿が見えた。光る人間は柔和に微笑み、やわらかい腕を広げて母猫を招く。

「ここは金波塔。ここを訪れ、塔をのぼり来たもののために、世のさだめを少しだけ変えることのできる場所」

 金波塔。

「ああ、聞いたことがあるよ。金波塔ってところのてっぺんには神さまがおわして、のぼってきた者の願いをきいてくれるんだって」

 母猫の言葉に、光る人間は少し首をかしげた。

「うん、だが、望みどおりにというわけにはいかない。ここでは、お前の存在がなかったことになる代わりに、少しだけ世の中のできごとを変えることができる……それだけの場所だよ」

「あたしは、この世に生まれなかったことになるのかい」

「丸ごとすっぽり、お前がいたというところが欠け落ちるだけさ。お前の母親の魂には、たしかに仔どもを産み育てた思い出が残るし、お前の仔どもたちも、母なし仔にはなるが、この世に生まれてきたことになる」

 その代わり、と金波塔の神は続ける。

「お前が願いを叶えて、どんな形であれなにか良い結果に繋がったとしても、誰もお前のおかげとは思わないよ。お前は、居ないものになるのだからね」

「そんなことはいいよ。あたしが消えちまうことで、何もかもがうまくいくっていうなら、賭けさせておくれよ」

 母猫は一歩前に進み出て、きちんと前足をそろえると、胸をはって言った。

「どうか、ぼうずが死ななかったことにしておくれ」



 母猫はまた目を覚ました。今度は暗がりに居た。

「あれは、夢だったのかねえ」

 どこからどこまでが夢であったのか、検討もつかない。

 そこへ、ぼうずの明るい声がする。

「ごめんくださあい」

 母猫ははっとして、暗がりから明るいところへ出て行く。そこは阿形の家の反対側、大通りに面した家の庭さきであった。

「あらあ、いいほうれん草だね」

 阿形の奥方とぼうずの話し声が聞こえてくる。

 にわかには信じがたいが、まだぼうずが生きて、そこにいる。

 奥方が籠を持っていったん立ち上がり、ぼうずににこにこと話しかけた。

「こんな良いものをもらって、それじゃお返しに、何あげようか」

 ぼうずは待っていましたとばかりに、お遣いの用を伝えた。

「あのね、せっけん貸してくださいな」

「ああ、せっけんね……」

 奥方はちょっと台所へ引っ込むと、手ぬぐいにせっけんを包んできて、それをぼうずに渡した。

「はい、また何かあったら、よろしくねえ」

「ありがとう」

 ぼうずは誇らしげに阿形の家を出て行く。

 そこへ、だかだかとやかましい音が、土煙をあげながら近づいてきた。あの荷馬車だ!

 母猫はとっさに、庭先から大通りへ飛び出し、馬車に向かって突進した。

「ぎゃおうっ」

 毛を逆立てて飛びかかってくる母猫に驚いて、馬はヒイイッといななき、荷を横倒しにしながら馬車を停めた。

「うわあっ」

 どさんという音がして、馬車を急がせていた使いの男が地べたに落ちる。しりもちをつきながら、腰をさすりさすり、男は暴れだす馬を鎮めようと手を大仰に振った。

「どう、どう!」

「ギャアッ」

 母猫は後先も考えずに馬へ飛びかかっていって、混乱して暴れくるう馬に踏み潰され、事切れた。

 しかし、母猫は満足であった。

 見ろ、ヨシ坊が通りへ出てきて、何事かと大人たちと一緒にこっちを見ている。あの子は助かったんだ。

 神さまの言ったとおり、あたしのおかげだなんて思ったり、感謝したりしないでいいよ。その代わり、ほんとうに母なし仔になったあの仔たちを、立派に育てておくれよ。きっとだよ。


「なんの騒ぎだい」

「荷馬車がひっくり返ったんだよ。猫をひいたんだと」

 ぼうずは大人たちに混じって、かわいそうに、馬にひかれてしまった猫の背中をちょっとだけ見た。しかしすぐに、危ねえから帰んなと、大人たちによって路地のほうへ送られてしまった。

 ぼうずは家に帰ってから、その猫の話をぽつりとした。

 すると母親は考えられない力でぼうずを抱き寄せて、ああ、お前じゃあなくてよかったねえ、と涙を流した。

「おっかさん、そんなこと言ったら、猫だってかわいそうだよ」

「そんなこと、おまえ……」

 そこへ、縁の下からニイニイと、腹をすかした仔猫どもの鳴き声がする。

「そういえば、縁の下に仔猫が居るんだっけ」

「ねえ、おっかさん。もしかしたらあいつらのおっかさんだったのかも知れないよ、その猫」

「そうだねえ」

 不憫に思って、母親はぼうずに小皿を渡し、夕飯の白身魚を少し切り分けて、皿へ盛ってやった。

「持っていっておやり。言うように母猫がお前を助けてくれたんだったら、せめてあの仔たちにマンマはくれてやらなけりゃ」

「はあい」

 ぼうずが小皿を縁の下へ滑らせると、仔猫どもははじめ恐がっていたものの、すぐに白身魚にとびついて、うめえ、うめえと鳴いた。

「おっかさん、うまいうまいって鳴いてるよ」

「ああ、そりゃあ、よかったねえ」



 時は五十年も過ぎ、表町二通りには、見上げるほどに丈高い商社が建った。

「会社もここまで大きくなって、ほんとうに、阿形さんは才がありますな」

「いえいえ、これもすべてはめぐり合わせ、私は恵まれていたんですよ」

 老紳士は自分の会社を見上げながら、腕に抱く猫の頭をなでた。

「ほほう、招き猫を飼っていなさるようで」

 のどを鳴らす白い猫は、のんきにあくびなどしている。

「ああ、招き猫というなら、こいつだけじゃない。この先代の、そのまた先代の……思えば、最初にうちの縁の下で生まれた三匹の仔猫。そこから始まっているんでしょうな」

「じゃあ、それからずっと猫を飼ってなさる」

「ええ、物好きなもんでね。その三匹の子孫にあたるのが、今のこれですよ」

 雪白、と名づけられたその猫は、生まれつき片目が見えない。それを見ていると、まるで誰か、遠く懐かしいものを思い出すような気分になった。

「ああ、だけど時の経つのは早いものだ。いまは若い者の時代で、我々は静かに隠居するに限ります。これから、時代はどんどんと進んでいくでしょうよ」

 目を細めた老紳士のまぶたには、過去の思い出が甦る。

 実の母親が過労と流行り病とで死の床につくと、それまで何かと世話になってきた阿形の家が援助を申し出て、自分は阿形の養子として迎えられた。

 阿形の家には子どもがなかった。今思えば、母親はそういうことも考えて、ちょくちょくと自分を阿形の家へ訪ねて行かせていたのかも知れない。

 それからは、跡取りとして高校まで出してもらい、商法を学び、新たに会社を起こし、産んでくれた母のため、育ててくれた阿形の奥方のため、邁進した。

 その会社も、今では一大企業として数えられるまでになった。

 そうした人生のあいだ、彼は猫を養い続けた。何だか、あの日の事件はほんとうに猫が自分をかばってくれたものだとしか思えずに、あの猫へ恩返しするつもりで、まず三匹の仔猫をりっぱに育て上げた。

 一匹は知らないうちに独り立ちして去っていき、一匹は他家にどうしても欲しいといわれて、貰われていった。残った一匹は身ごもり、彼はまた生まれてきた仔猫たちをやしなった。

 雪白や、と老紳士が猫に呼びかける。

「私のところへ残ってくれて、今日までこうして命をつなげてくれて、ありがとうなあ」

 わかっているのかいないのか、雪白は一声、なあに、と鳴いた。

猫はみんなトルコへ行ったらいいよ!(切実)

でも、キンパトウはトルコにはありません。

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