最悪の一日 1
「う、……ぅう……ン」
どの位意識を失っていたのかは判らない。
肩から背中にかけて鈍い痛みがはしり、命はうめき声をあげた。
――生きてる……?
“闇”に呑まれ、目の前が真っ暗になり、思考が停止する寸前。死を感じた――が、彼女は生きていた。
何とか地面に手をつき、身体を起こす。
その時、首もとを何かがぞわりと這う感覚がして無意識に手で払うと、地面の草の上にぼとりと何かが落ちた。
それを見て、命は絶句する。
蠢く二十本以上の脚、
うねる赤黒い体躯、
ゆらゆらと揺れる長い二本の触覚。
――虫だ。
小指ほどの大きさの、百足のような形状をしたそれは、命は見たことがない虫だった。
彼女は真っ青になり、体の痛みなど無かったかのように素早く立ち上がると、無言で、病的に、念入りに全身を払う。
「何なの、何なの、何なの!」
悲鳴混じりの呟きが、木々のざわめきに掻き消される。
暫く荒い息をしていた彼女だが、漸く落ち着いてきたのか、周りをぐるりと見渡した。
そこは草木が生い茂り、地面には傾斜がついていた。
見上げると、急に斜面がきつくなったり、緩くなったり、木々が生えていないところがあったり、たまに地面が剥き出しになっていたりする。
此処は山の中ではないだろうか、とぼんやりと予想できた。
どの位そうしていたのか判らないが、自然の中に無防備にも横になっていたのだから、虫が這い上ってくるのも無理は無い。
命は暗闇の中、微笑むシュウの顔を思い浮かべた。
彼の傍で目覚めた時、必ず彼女の下には大きな布が敷いてあった。
それはきっと彼が、虫や、寒さ、地面の硬さから自分を守ってくれていたんだ、とやっと気付く事が出来た。
今更ながら、彼に感謝した。
「そうだ、シュウ!」
昼間に来る事なんて今まで無かったけど、きっとあの黒いモヤモヤが自分を連れて来たのだ――
自分の考えに命はぞっとした。
――って事は、今まで寝ている間にアレに飲み込まれていたってこと!?
ソレはただの憶測だったが、どちらにしろ自分の知らない間に何かが起こっていたのは変わらない。
眩暈がしたが、ここで倒れるわけにはいかない。
「シュウ! 何処に居るの!!」
大きな声で叫ぶ。とにかく、こんな所に独りで居る事など出来ない。
「シュウ!!!」
今までの人生でもあまり無いくらいに大きな声で叫んだが、一向に彼は現れなかった。
命は何度も何度も叫んだが、誰も現れてはくれなかった。
いい加減、泣きそうになりながら彼女は此処から離れる決意をした。
――なんで今日に限って居ないんだよ、あいつは。
いつもは目覚めれば其処に彼は居た。
皮肉にも、僅かな明かりすら無い今迄にはすぐに見つかり、周りが明るくて良く見える今は見つからない。
生い茂る草木を掻き分け、彼女はとりあえず傾斜を下った。
素人が闇雲に山中を動くのは遭難の危険があるが、この場合もう既に遭難していて、しかも身一つで食料や防寒するものなどは一切持っていない。
山中で夜を過ごすのはいのちの危険すらある。
日が暮れる前に一刻も早く誰かに保護してもらう必要があった。
しかも、此処が山の中だというのはただの憶測で、本当はもっと別の場所で、下っていくのが正解かどうかもわからない。
事実、
「……どうなってるの?」
真っ直ぐに下っていたはずが、目の前には先の見えない木々の群れが空に続いていた。
日は傾き、木々をオレンジ色に染め始めている。
先に拡がる登りの斜面を前に命は絶望していた。
草木を掻き分けるというのは想像以上に、精神的にも体力的にも辛い。
グロテスクな虫や、見た事もない気色の悪い植物、歩きにくい足場に、彼女が見るのも食べるのも嫌いなキノコ。
泣き出しそうな顔で、必死に歩いてきた。
しかし、目の前には終わりの見えない傾斜。
其処を登ったからといって、ゴールが待っているとは限らない。
むしろ、登ったのだから再び下り道が続いているに決まっている。
其処から先は、長いのか短いのかも解らない。
足……痛い……。
足許を見ると、上履きの真っ白だったスニーカーは土と草で汚れていた。
彼女はまた泣き出しそうになり、視線を逸らすと、足のすぐ横。少しずれた処に、毒々しい紫色をしたキノコが生えていた。
恐怖から、背筋にひやりとした感覚が伝う。
「ひっ、……いやっ、何なの何なの何なの何なの何なの何なの何なの何なのっ!!! 何でこんな目にあわなきゃなんないの!!」
彼女は一歩下がり、しかし其処から動けなくなった。
動いた先に、また気持ち悪いキノコやらカタツムリやら虫やらが居るかも知れないと思うととにかくその場でじっとしているしかなかった。
縫い付けられるように、足が動かない。
「もういやーーーーーっ!!!」
命は何かに八つ当たりするように、傍から見れば異常なほどの金切り声を上げた。
命はまさか、自分がこんな風に無様にも何かに恐怖し、悲鳴を上げるなど、思ってもいなかった。
自分はもっと強い人間だと思っていたのだ。
しかしそれは違った。人目を気にして格好つけ、人前でただ虚勢を張っているだけだったのだ。
独りになればこの体たらく。
――何も……出来ない……。
怖くて動けない。
立ち尽くすしか無かった彼女は、思考の迷路の中にいた。
どうしてこんな事になったんだ。
あの闇に捕まったから?
でも、逃げ切るなんて不可能だったし、
それに、あの時はもう既に異様な空間の中に居た気がする。
だったら、何処に居ても、どうやっても、此処に来ることは決まっていたんじゃ?
ぐるぐると思考は廻る。
もっと早く大人に相談しておけば良かった。
でも、どうせ誰も信じない……。
段々と日が暮れてくるのが解る。
しかし、此処から動く気にもなれない。
ふと、彼女は思考を止める。
――!?
素早く顔を上げた。
何かに気付き耳を澄ます。
「やっぱりそうだ!」
微かに、ほんの微かに人の声が聞こえた。
「すいませーん!」
もう何度目かわからない大声で助けを呼ぶ。
「誰かー! 助けてくださーい!!」
――お願い! 誰か!
聞き間違えではない、確かに人の声が聞こえたのだ。
彼女は必死に力を振り絞り、その場で叫び続けた。
『おい、こっちに誰か居るぞ』
今度は声がはっきりと聞こえた。
声は確実に近づき、こちらに向かってきている。
助かった。
彼女は安堵の溜息を漏らした。
「なんだア? 何でこんなとこに人が居るんだ?」
何人かの男の声が聞こえる。
草木を掻き分ける音がして、段々と近づいて来るのが解った。
一人、二人と姿が現れ、命は喜び駆け足で自分からそちらに向かった。
不思議と、先程までは考えられないくらいに、軽々と足が地面を離れる。
「良かった、あの、私此処がどこか解らなくて……。どこか、保護してくれる場所まで連れて行って欲しいんですけど……」
「……」
一番先頭に居た男に出来るだけ丁寧に、自分の希望を伝える。
しかし、迂闊すぎである。
自分の状況がまるで判らず、知らない土地で、知らない人に助けを求めるなど、多少自立した大人ならば警戒したかもしれない。
だが命はまだ子供で、学校生活を中心とした、狭い世界しか知らない。
それに加えて、疲労と体験した事の無い恐怖から早急に逃れたくて、深く考えることを拒否していた。
「……なんだ、お前知らないうちに連れてこられたのか?」
「?」
――連れて来られた? この人は何か知っている?
「あの!」
“私自分の家に帰りたいんですけど、どうすればいいですか”と聞こうとしたが、その男の後ろに目が奪われる。
話し声から複数の人間が居たのはわかったが、彼女の予想とは異なっていた。
彼の後から来た人達が全員集って来る。
その光景は圧巻で、命を怖気させるには充分だった。
それは、十人ほどの若い男達であった。
彼らは全員10代後半から20代位の年齢で、着物のようなものを羽織っている。
下半身は素足が見えており、着物の裾に隠れて見えないが、下着以外何も穿いていないようだ。
それだけでも異様なのに、更に命が恐怖したのは、彼らが各々武器を持っていたからだった。
ある者は刀だったり、またある者は槍だったり、斧やナイフのような物を携帯している者もいた。
命はゴクリと唾を飲み込む。
数歩下がったが、立ち止まる。
――ここでビビって逃げたら、またさっきの逆戻りだ。
命は独り草叢を彷徨う恐怖で、周りの事等注意する余裕が無かった。
男達は下卑た笑いを浮かべていた。