序開 1
目覚めると、朝だった。
天気の良い、清々しい一日であるが、ヒルの心は少しだけ沈む。
――また今日も、晴れた。
この神界に来てからというもの、
晴れの日ばかりで、雨が殆ど降らなかったのである。
もうすぐ冬なのだから、あまり気に掛ける必要も無いかとも思うが、やはり気がかりであった。
もし人々が飢えるようなことがあるならば、それはきっと、多分にヒルコのせいなのだから。
――救ってやりたい。
そう彼女は決意し、部屋を出た。
彼女が寝ていた部屋は、こちらの世界に来て初め、
柊に案内された、別棟の一室であった。
そこから出て、
川に沿って下り、
屋敷の方へ向かう。
玄関の方から行儀良く中へ入ると、竈の方から好い匂いがしてきたので、そちらへ顔を出すことにした。
土間の有る部屋を覗くと、紗羅と柊が朝食の準備をしている。
2人は直ぐにヒルが居ることに気付く。
紗羅が明らかに彼女を無視し、柊はそんな彼女の様子に苦笑した。
「ヒルコ、早いな。
頭は昼近くに起きるんだけどな」
柊は苦笑したまま、気安くヒルに声を掛けた。
彼は要の初めての眷属で、ヒル以外では唯一の元人間だ。
だからヒルは、無意識に彼に親近感のような感情を持っていた。
「わたしも割と朝は遅い方だが、昨夜は寝すぎた」
「――? お前」
「ひ!?」
紗羅がうっかり手を滑らせ、包丁を壁に突き刺す。
「そうだ、紗羅。わたしの食事に毒を盛る必要は無くなったぞ」
そんな彼女をヒルは、何事もないかのように、見やった。
朝食が出される前に、これだけはどうしても彼女に言っておきたかったのだ。
しかし当の紗羅は、聞いているのかいないのか、ただ大粒の涙を浮かべて、
「ヒルさぁぁぁぁぁん!!」
ヒルに飛び付いた――
・
朝食の席には皆が集まったので、ヒルは自分の今後を話した。
そして、今日にでも発つ、とも。
幾つかの反対や、提案が出たが、ヒルは自分の意思を曲げなかった。
朝食を終え、支度を整えると、昼前には別れの挨拶のために屋敷前で皆が集う。
「――ヒルさんがご自分でお決めになられたのでは、仕方ありません……わたしも連れてって、と言いたいところですが」
この神界を覆う結界はヒルしか出入りできないし、紗羅には自分のやるべきことがある。
「ヒルさんが私のためを思って旅立たれるのです……私は自分の域を守り、いつまでもお待ち申し上げます」
はらりと流れる涙を、ボレロの袖で押さえる。
対する晩霞が、しんみりとした余韻を打ち消すように、がなり声を上げた。
「お前だけのために旅立つなんて言ってねーだろうが! 都合よく解釈してんじゃねー、寝ぼけてんのか!
……っつーか、俺はてめーみてぇなガキの薄ら寒い戯言にノるつもりはねえからな!」
「わかってるよ、わたしが自分でそうしたいと思っただけなんだ」
晩霞の鋭い視線を正面から受け、ヒルは苦笑するしかなかった。
「紗羅、すまない。
こんな形で、お前との契約を反故にしてしまって。旅を続けるなら、晩霞とポーに護衛を頼んでくれないか?」
「いいえ、もう充分です。ヒルさん、ポーさんのお陰で域だけなら三割ほどは周れましたし。
何よりヒルさんが、私を……私の域を救ってくださるとおっしゃられたので。私、信じてずっと、待っています」
最後は嗚咽交じりに、堪らず紗羅はヒルに抱きつく。
そんな2人の様子を尻目に、桐截が晩霞に声を掛ける。
「晩霞はどうするんだ? なんなら此処に居てもいいんだぞ?」
ずっとヒルの影になっていた桐截は、晩霞の事情も知っていて、影でなくなってからは、お互い何度か言葉を交わしたこともある。
「俺は……その後星星がどうなったか気になる……」
晩霞は、視線を逸らし、呟く。
企みには自信があったが、どうにも自分の目で星星の姿を確認しないと、気が晴れない。
真面目な星星が、生贄としての生活を捨てて上手くやっていけているのか、ずっと不安だったのだ。
「ふーん、ま、頭に連れってもらえよ。それからどうするか決めたらいい」
「ああ――」
紗羅を落ち着け、
晩霞の決意を見届けると、
ヒルは要の傍へ寄り、真剣な眼差しを向けた。
「要、少しだけ、一緒についてきてくれないか?」
「?」
何処へ、
と彼が問おうとするが――
「僕も行っていい?」
ポーが彼女の隣に立つ。
ヒルは彼へ微かに笑み、頷いた。
「うん、いいよ」
――最後まで、共に。
ヒルは皆を振り返り、丁寧に一礼する。
皆目を丸くしたが、彼女は彼らの顔を確認せずに、
踵を返す。
ポーが闇を広げた。
闇の先は、彼女が行きたい場所に通じている。
ヒルが先に入り、
要が後に続き、
最後にポーが、闇に消えた。
やがてその闇も消滅し、
ヒルたちは完全にこの場から消えた。
「ヒルさん、どうか、お元気で――」
・
賑やかな昼時の海上。
桟橋に四つの人陰が在った。
「来てくれると、信じていたよ」
何処か影の有る笑みで、グリェーシェニクはヒルたちを出迎えた。
「……」
彼の言う通りになってしまったのは癪だが、
ヒルはどうしても彼に伝えたいことがあったのだ。
先ずは彼の話を聴くべく、ヒルは彼の言葉を待った。
「答えを聞かせてもらおうか――」
“答え”とは、以前彼が彼女にした、『私に力を貸してくれないか』ということであろう。
「結界を解くことはわたしも賛成だが、
神、魔族、人を一つに……、ってやつには反対だ」
「おい……」
要がヒルとグリェーシェニクの間に、割って入ろうとするが、ポーがそれを、手で制した。
「充分だよ。結界さえ解いてくれれば、後は何とでもなる」
「どうかな、お前にできるとは思えない。知っているんだろう? ペルセポネーはもう居ない。
魔界を解放することはできないし、要を捕らえた時点で、お前に協力する神も居なくなった」
「私には可能だよ。彼女が要を捕らえたのは、魔族の事情だろう? 私は聞き及んでいなかった」
「お前が連れてきた魔族がやったんだ。お前も従犯だと思うのが自然だろう」
「しかし私は本当に知らなかったんだよ。
確かに、魔界はいずれ解放しなければならなかったが、君が結界を解いてくれなければ、意味は無い。
彼女がたまたま魔族の事情で、私の将来の目標と同じことを為そうとしただけだ。もっとも、何故か彼女は、裏切った後も私の許に訪れたがね」
グリェーシェニクの芝居めいた口調にヒルは顔を顰め、しかし軽く頷く。
「そうだ、わたしはそれを言いに来たんだ。
やはりお前は、ペルセポネーの気持ちに気付いていないんだろう? お前が気付いてやっていれば、神魔人を一つにする、というお前の野望――その第一歩は、もっと簡単に、しかももっと早くにできていただろう。
そんな奴には、一生かかっても無理だね」
彼女の言っている意味が、グリェーシェニクには、理解できなかった。
自分の考えている方法以外で、どうやってそれを成し遂げるのか、測り兼ねていた。
「何を――」
「あいつはお前のことが好きだったんだろう」
「?」
「やはり、そんな簡単なこともわからなかったのか。あいつはお前に恋愛感情を持っていたんだ」
「まさか……」
グリェーシェニクはそう呟き、ヒルを真っ直ぐに見つめる。
心の底から驚いている顔だ、そうヒルは思った。
「お前の望む、神魔人が一つになるのは、お前たちにはずっと可能だったんじゃないのか? その道に気付けなかったのはお前のせいだ。
だからわたしは、お前の目的には反対する」
機械的に、淡々と語られるその裁定は、
グリェーシェニクを戦慄させるには充分であった。
彼女の言うことは、神と人間の混血である自分と、魔族であるペルセポネーの子供ができれば、それでもうひとつになっているじゃないか、という至極俗世的で、単純なことだ。
すなわち、神、人間、魔族で“愛し合え”――という、彼にとっても、恐らくはどの種族にとってもおぞましい提案であった。
しかしそれはグリェーシェニクのいう“一つにする方法”よりもはるかに簡単で現実的なことであるのも、また事実であった。
「そんなこと……不可能だ」
「ああそうだ、お前の言う通りなんだよ、グリェーシェニク。“不可能なこと”なんだ。皆で仲良しこよし、愛し合うことなんかできっこない。だがこれが“現実”だ、“現実”なんだよ――」
最も現実的な方法ですら、彼は成し得なかったのだ。
その意図を理解した彼は、
彼女はもはや――神ではなく、人間であるのだと、理解する。




