君が待つ場所へ 1
ヒルは狭い個室で膝を抱えながら座っていた――
部屋には壁一面に窓が在り、その対面に扉が一つだけ在った。
窓は壁巾いっぱい、天井高いっぱいで、外の様子がよく見える。
扉は部屋の広さに似合わない、
開け放てばグランドピアノでも楽々通すことのできる両開き扉である。
部屋の面積に対して開口部が大きいので、圧迫感が無く、開放的な個室である。
一見快適な空間のようだが、“自分から出られない”ということを鑑みると、さながら“おしゃれでモダンな牢獄”のようだ。
ヒルコの内的世界に在るこの一室で、ヒルは彼の膨大な量の記憶に触れた。
彼が自分の記憶を封じ、個別の人間として生きた、それぞれの記憶。
彼が記憶を封じる前に、孤独と嫉妬に苦しみながら生きた記憶。
そして、まだ要だった頃の記憶――
全てを見せられ――思い出し、
自分のちっぽけな記憶が、霞んでしまいそうになる。
――一体、自分は何なのか……。
それすらも曖昧になっていた。
それは酷く苦しくて、辛くて、肉体的な痛みでは表せない。
――このままヒルコの一部になるしかないのか……。
重たい頭を持ち上げて、
鈍い動作で顔を横に傾ける。
視線の先には、大きな扉が在った。
此処に閉じ込められてから、この扉を何度と無く見た。
膨大に流れ込む記憶に混乱しながらも、何とか扉に触れることもできた。
しかし、触れてはっきりと自覚した。
――この扉の先は、“完全にヒルコの中”だ、ということを。
此処から出てしまえば、“現役”であるはずの自分が、
他の人格たちと同じく、“過去のヒルコ”になってしまう。
そうなってしまえば、二度と蛭子命の精神が独立して表に出ることはできない。
だからこうして膝を抱えて、ただじわじわと精神が持っていかれる苦しみに耐えながら、外の様子を眺めているしかないのだ。
ふと、彼女は窓の外へ目を遣った。
窓の外には、草原にぽつんと立つ、ペルセポネーがいる。
――あの魔族!
自分の記憶の引き出しから、大事な情報を取り出すと、随分と苦痛が和らぐ。
自身の記憶が明確になると、精神が確立される。
ペルセポネーが何やらヒルコに言っていた。
そちらに集中すると、ヒルコが聞いている音が、発している音が、ヒルにも直接届く。
2人の会話を聞きながら、ヒルはあることに気付いた。
――何故、ペルセポネーは此処に来たんだろう、と。
彼女がどうしたいのかは、会話から解った。
『結界を解いて欲しい』のと『魔界を開放して欲しい』ということが。
しかし、それを彼女が単独で、直接言いに来る理由が解らなかった。
彼女にとっては敵だらけのこの域に、何の備えも無く来るのだ、
「――殺されに来たようなものじゃないか……」
それに彼女の言うことは矛盾している。
上司の言いつけを守るのならば、こちらに交渉するのは『魔界の解放』のみで事足りるはずなのだから。
――もしかして……、
ヒルは一つの仮定をつくり上げる。
彼女のジレンマを理解しようとすると、どうしても考えてしまう可能性だ。
そしてヒルは強く願った。
――あいつと直接話がしたい、と。
だが、その瞬間、
ペルセポネーは呆気無く、殺されてしまった。
ヒルコの――自分の手によって。
彼女はその光景に絶望してしまう。
「っざけるな! わたしはまだそいつと話していない!」
窓ガラスを必死に叩くが、
彼女の叫びは誰にも伝わらない。
「もう一度話さなければならなかったんだ!」
叩いても、叩いても、びくともしない。
「せっかくポーが、生かしておいたのに……」
ガラスに縋り付き、
そのまま崩れるように、へたりこんでしまった。
ガラスの外が暗闇に変わる。
夜になったのでも、ヒルコが眠ったのでもない。
ヒルがもう、何も見たくない、と心を閉ざしたのだ。
――わたしの声は届かない、
わたしの存在なんて、つまらないもの。
『その通りだねえ』
聞き慣れた声が、しかし忘れかけていた声が、じわりと室内の暗闇に響く。
ヒルがはっとして顔を上げると、
奇妙なことに、何も無かった壁面に、扉が一つ増えていた。
扉の反対側から『入っていーい?』と声が掛かる。
「ポー……、いいよ」
普段通り、暢気な様子の彼の声に安堵して、彼女は入室を許可した。
扉が開かれると、案の定、ポーが入ってくる。
「どうして……」
とても曖昧なその質問には答えず、ポーはただ首を傾げてニヤニヤと笑っていた。
「此処から出られないんだ……。ポー、何とかできないか?」
「無理だよ、僕が無理矢理出しても、その扉から出たのと同じになっちゃうよ」
ポーが顔を向けるのは、大きな両開き扉だ。
一方の、ポーが入ってきた扉は、いつの間にか消え去っている。
ヒルはそれに気付くと、ぎこちなく苦笑した。
このタイミングで彼が来た理由は、一つしか思い浮かばなかったからだ。
「お前は……、わたしを殺しに来たんだろ?」
ヒルの言葉にポーの口許から笑顔が消え、
そして再び、皮膚を裂いたような、不気味な笑みを浮かべる。
「あらぁ? 気付いてたの?」
「わかるさ。短いが、深い付き合いなんだ」
ヒルは言いながら、彼と距離をとる。
思えば彼から逃げるのは、初めに会ったとき以来だ。
――こんな不気味な奴と、我ながらよく一緒に居れたものだな。
今の彼女には戦う武器は無い、
ポーがどういった攻撃を仕掛けてこようが、素手でどうにかするしかない。
ポーは間合いを詰めようともせず、その場でニヤニヤ笑っている。
ヒルよりポーの方が頭一つ分程も身長が高いのだが、離れていると、まるでポーがヒルを下から見上げているようである。
もっとも、目の方は相変わらず包帯で隠れて見えないのだが――
「――可笑しいと思ったんだ。人間なのに、底知れない闇を感じる。
でも君の中には何も無い。
君の闇もそこそこだけど、それはあくまで人間の範囲内。そんなものに僕が心を動かされる筈は無い。
だから僕は君に興味が湧いたんだ。
でも真実は単純だ。
君の強い闇は君自身じゃなくて要のものだった――
真実を知ってしまえば――僕からすれば取るに足らない、つまらないもの」
「だからわたしに消えて、身体をあいつに譲れっていうのか」
「別にいいじゃない、
君の居場所なんてどこにも無いんだから」
ふふ、とポーが嗤うと、
窓の外の暗闇に、ずっと見たかった懐かしい光景が浮かび上がる。
「……ぁ……」
――ヒルの通う、学校。
授業中の、教室。
いつもの教室、いつもの授業。
世界史の授業は、8割の生徒が寝ている。平和な日常だ。
そこにヒルの机は、無い。
数ヶ月前に失踪した彼女の机は、使用者が居ないので、そのまま置かれることは無かった。
彼女が戻って来たら、また元の場所に置けばいいだけなのだから。
彼女自身も、頭では解ってはいても、心が痛む。
机の上に花でも置かれていた方がまだマシだった――そこに存在していた確かな証拠になったから。
これではまるで、
かつてそこに居たことすらも感じさせない。
まるで最初からそこに居なかったかのようである。
――暗転して、
場面が切り替わる。
別のクラスの、体育の授業風景。
グラウンドでふざけ合う男子、
笑う拓海。
校舎の窓から手を振る里美に気付き、笑顔でそれに応えた。
「っ…………」
拓海だけは、――もしかしたら、自分の事を思っていてくれているのでは、と淡い期待をしていた。
しかし、16歳の恋心なんてその程度のものだったのだ。
たった数ヶ月姿を消しただけで、薄れてしまうほどの。
――いや、16歳にとっての数ヶ月は長いのか……。
仕方ないとは思うものの、彼女の心は痛む。




