光の中の世界
昨日、命と拓海は、あの後真っ直ぐにそれぞれの家へ帰った。
拓海が「俺の家行ってヤろうぜ」と余計な事を言ったせいで、険悪な雰囲気で解散となったのだ。
早くも別れの危機かと思いきや、翌日になればいつも通りの二人に戻っていた。
命は飽きっぽい癖に、気に食わない事はしつこく根に持つ性分だが、拓海の方はそれとは正反対の性格なので、喧嘩をしても大抵直ぐに元通りになってしまう。
今朝二人は別々に登校した。
拓海が命にモーニングコールをし、彼女が十分な睡眠を摂れたことを確認すると、朝練のためにそのまま家を出た。
命が心配していた事は、杞憂だった。
すなわち、昨晩は“あの世界”へは行かなかったのだ。
翌日の寝不足を心配して、学校でも多く寝たし、家でも早くに床に就いたのだが、取り越し苦労だった。
だから今朝は珍しく、拓海が電話してくるよりも早くに起きていた。
余裕を持って家を出、電車も一本早いものに乗れたため、里美とは会わなかったが、代わりに別の友人達に会えた。
昼休み、今朝母親が弁当を作れなかったので購買に向かう命がいた。
――早くしないと、チョコチップメロンパンが売切れてしまう!
急いで教室を後にし、階段を駆け降りようとした時に、声を掛けられた。
「あの、ちょっといいですか」
振り返ると、命よりも背の低い可愛らしい女の子が立っている。
制服のスカーフが赤い、同級生のようだ。
「何?」
「あの、此処じゃちょっと……」
「?」
何だか訳ありみたいなので、好奇心で彼女について行ってしまった。
目的のパンは諦めよう、何か一つでもパンが余っていればいいな。
命はそう思い、目の前の小さな背中を追った。
――ずいぶん遠いところに行くんだな。
黙ってついてきたのはいいが、流石に外にまで出て、砂利道を行き、人気の無い体育館裏へ来れば、不安が奔る。
最近言い寄る男が増えているので、面白くない女子がいじめでもしようとしているのか――ありがちだな。
「あのさ、何処まで行くの? 何か企ん……」
「すみませんっ!!」
彼女はくるりと後ろを振り向き、いきなり深く頭を下げた。
「何だか緊張してしまって」
口許に当てる指先が微かに震えている。
「え? 何が?」
「あ、あの……。
私……、蛭子さんの事が、好きみたいで……。
す、すみません!」
彼女は真っ赤な顔で、消え入りそうな声を出すと、そのまま泣き出してしまった。
命は久しぶりに、人を泣かせてしまった事にうろたえた。
昔はガキ大将さながらだったので、よく人を物理的にも精神的にも傷つけ泣かせていたのだが、
ソレと今回の涙は大違いだ。
とりあえず何かしなければ、と彷徨わせた手で肩をさすってやる。
「蛭子さん、好きです、好きです。
いつも貴方のことばかり見てしまうんです」
縋り付いて来る彼女に、命は胸が痛んだ。
何コレ、かわいすぎる!
自分が男だったら確実に落ちるんだが――
ぼんやりとそう思ってしまい、何言ってんだ自分、と不意に生じた良くわからない感情を振り払った。
命は女で、しかも昨日できたばかりだが彼氏までいる。
何だか惜しい事をするような気がし、断腸の思いで、彼女を優しく突き放す。
「……ごめん、うち彼氏できたんだ。ごめんね」
命は今までの、どの告白よりも丁寧に断った。
「そ、そうですか。
ごめんなさい、私どうしても気持ちを伝えたくて。
本当に……、お付き合いとかじゃなくて。
ただ、伝えたかっただけなんです……」
カ、カワイイ。
どうにも抑えきれない感情から、自然と口許がにやけてしまうのを、何とか誤魔化した。
結局。教室に戻った時は、休み時間も終わりに近づいていた。
命は未だ、弛んでしまう口許を隠すように、戻るついでに買ってきたパックのジュースを飲んだ。
ふと、彼女は考えた。
――拓海が言ってた、無意識に目が行くってアレ。
男子だけじゃなく、女子にもあるのかな……。
だとしたら、謝まらなければならないのは自分ではないか。
何故か、人の目を惹きつけてしまう体質になってしまったようだから。
「ヒルさん、拓海君がさっき来てたよ」
「あ、まじで」
前の席の子が椅子を向けながら話す。
「ねーねー、拓海君とホントに付き合ってないわけ!?」
あまりにも頻繁に訪れる彼に、何かを察したのだろう。
彼女は少し踏み込んだ事を聞く。
「あ、ソレなんだけど。付き合うことになったわ」
命がそう言うと、周りの女子がざわついた。
「え、えーっ!! 好きになんてならないって言ってたじゃん!」
会話を聞いていたのか、横から別の友人が割り込む。
「まあ、いろいろあって……」
命は曖昧な返事をして誤魔化した。
「色々って何!!」
比較的仲の良い女子達が、命を取り囲んでわいわいと騒ぎ立ててくる。
「誰々?」とか、「バスケ部の……」とか、各々好き勝手話している。
命は彼女達の顔色を窺った。
周囲には、「好きではない、お互いただの友達だ」とか、さんざん言っていたくせに、こうして付き合う事になったのだ。
しかも自分はまだ恋愛感情があるわけではない。
どう考えても命が嫌な奴なので、誰にも詳しい事は言いたくなかった。
――でも付き合っているの隠して、後でバレた時、面倒な事になったら嫌だから。
そこは話しておく事にした。
また一つ、嫌な自分が増えたのだ。
彼女は冷めた目で、それを客観的に見ていた。
本来の自分ではない自分がやっている。
本当は――自分はもっと違う人間なんだ、そう思うことで逃げ道を作った。
ちょうどそこで昼休み終わりを告げる予鈴が鳴り、周りの女子が学校指定のスポーツバッグを持って移動を開始する。
次の授業は体育だ。
これ以上拓海とのことを追求されたくなかったので、命は安堵の溜息を漏らした。
急いで自分もバッグに貴重品類を入れて、教室を出る。
「ちょっとトイレに寄っていくね!」
「急がないと間に合わないよー!」
命は逃げるように友人と離れて女子トイレに向かう。
そのままトイレには入らず、ちょうど男子トイレと女子トイレの間にある水呑み場前に立ち尽くす。
顔を上げると、鏡の中に自分が写っている。
――めんどくさい、やっぱり言わなきゃ良かったかな。
当たり前だが、そこには疲れた表情をした命だけがいた。
しかし、
――……?
それは、小さな違和感だったのかもしれない。
何かがおかしい、と彼女は考えてしまったのだ。
ここでもし、彼女が何の違和感も覚えずに、そのまま体育館に向かっていたのなら、未来は変わっていたのかもしれない。
しかし、彼女は“気付いてしまった”のだ。
鏡の中には彼女しか居なかった。
一学年400人居るこの階ではトイレは此処の他にもう一箇所ある。
いくら授業開始数分前だからと言って、この鏡に写る範囲内に誰も居ない事などあまりない。
いや、むしろ昼休みの終わるこの時間だからこそ、此処には人が多く行き来する。
可笑しい――
たまたま誰も居ない。
その程度のことは、良くあることなのかもしれない。
しかし、一度違和感を感じると、不思議なことに耳までも何も聞こえなくなってしまった。
静かすぎる――
周囲の人が発する雑音、機械音。
自分の血流の音までもが聞こえない。
完全なる無音。
何だか命は恐ろしくなって、その場から動けなくなった。
しかし、いつまでもここに居るわけにはいかない。
彼女は意を決して後ろを振り返った。
すると、
「ひっ……!」
細い悲鳴があがる。
振り返ったすぐ目の前に、拳大の“黒”が広がっていた。
その“黒”は球状で、空間に浮かんでいる。
――鏡にはこんなもの映って無かった!
いや、彼女はソレに気付いてはいた。
しかし、鏡に映るソレは、鏡自体の小さな傷であるかのように見えた。
――でも……今目の前にあるコレは何?
先ほど鏡越しに見たソレよりも、大分大きい。
しかも、ソレは黒い靄のようなものを吐き出し、確実に大きく成長している。
――逃げなきゃ!
彼女は本能で危険を感じ、駆け出した。
彼女は必死に走る。
すぐに息は上がり足がもつれる。
形振りかまっていられない。
背後には、明らかに意思を持って、命を追いかけ、増殖する闇が迫っている。
「何で追いかけて来るんだよ!」
黒い靄は、命を追って、一方向に増殖していた。
邪魔な荷物を投げ捨てる。
バッグの中の財布がどうとか、スマホがどうとか、そんなこと考える余裕は全くない。
「もう……、限界!!」
上履きのまま玄関を駆け抜ける。
走って、走って、砂利道を行く。
本当に限界が近いのだろう、脇腹を押さえる彼女はもう殆ど徒歩と変わらない速度になっていた。
そこで彼女は気付く。
――この場所……。
彼女は先ほど、あの可愛らしい告白をされた場所に、無意識に戻っていた。
闇はもう彼女の指先に絡まっている。
「な……何なの……」
必死に振り払おうとしても、靄は増殖し続ける。
「何なんだよ!?」
指先から手首、肘、下腹部、肩、膝、つま先、そして頭部。
『死』
その一文字が頭に過ぎり、
そこで、意識が途絶えた。
彼女はついに闇に呑まれ、全身が見えなくなった。
段々と闇は凝縮し、どんどん小さくなり、そして――消えた。
命はもう“此処”には居なかった。