黒い世襲 3
しばしの沈黙が、紗羅にとっては、恐ろしく長い時間に感じられた。
そして、
『……入るぞ』
願いは、届いた。
「ちっ……」
秀嗣は舌打ちしたが、退ける気配が無い。
予期せぬ邪魔に、戸惑っている。
扉が大きく開き、ヒルが、中の様子を見た。
そして、
「ゴメン、邪魔した」
とだけ言い残し、また扉が閉まる。
紗羅は、絶望などしなかった。
そんなことよりも、夢中で行動を起こす。
秀嗣が不用意にも安堵し、油断した隙に、思い切り手を噛んだのだ。
獣のような醜い悲鳴が、部屋中に響き、外にまでも届いた。
「助けてください!!」
更に、追い打ちを掛けるように、紗羅の甲高い悲鳴も加わる。
さすがに、既に僅かに立ち去っていたヒルにも、それは充分に届いた。
『なんかさあ……』
音も立てずに、扉の向こう側に戻って来たヒルの声には、苛立ちが含まれている。
『希望を持っているみたいだから、敢えて言わせてもらうけど。
助けを求められても、わたしにはお前を助ける義理も無いし、この事を誰かに伝えるような面倒な事もしない。
弱いんだから、せいぜい殺されないように黙って犯されてろ』
「そ……そんな……」
たった一つの偶然がもたらした希望は、そもそも希望なんかではなかったのだ。
その事実を突き付けられて、紗羅の体温は、急激に下がっていった。
「ふん、賢いガキだ」
肉が千切れそうなほどに噛みつかれて、情けなくのたうち回っていた男は、仕返しとばかりに、どうにか悪態を吐く。
逃げ出そうと起き上がった彼女の腕を掴み、再び布団に押し倒し、馬乗りになった。
だが、紗羅は気丈にも、鋭く兄を睨む。
「金五枚! それで助けてください!」
はっきりと、怒鳴るような言葉に、扉の向こうは一拍だけ沈黙する。
そして、『いいよ』という声と共に、“バタン”と勢いよく扉が引かれた。
部屋に足を踏み入れるヒルに、「待て」と秀嗣は制止する。
――どういう理由が有ってあの純血と、紗羅と共にこんなガキがいたのか知らないが、と秀嗣は思う。
僅かな会話や、見た目から、野蛮な子供であるに違いないと想像した。
「俺はその倍やるから、出ていけ」
――金さえやれば、こいつは言う事を聞く。その判断は、
「わかった」
正しかった。
だが、紗羅も負けない。
「私はその倍出します!」
「だったら俺は言い値で払おう」
「なっ……!?」
競りの決着は、あっさりと秀嗣が勝利した。
ヒルが、刀を抜く。
それは、おかしなことだった。
競りに勝ったのは秀嗣だ、彼に従うならば、黙って出ていくのが正しい。
「どうした? いくらでもやるから、とっとと出て行け」
「そいつも対価を払うと言った。
……お前らは解っていない。
わたしは金が欲しいんじゃない。この世界のルールに従っただけだ」
紗羅も秀嗣にも、彼が何を言いたいのか、理解できなかった。
「わたしには余裕が無い。だから、無償で他人に何かを与えたりしない……。
でも、対価を払うんなら――味方したい方に、つく」
ち、と秀嗣は舌打ちする。
どうやらこのガキは、自分の敵に廻ったのだと、理解したからだ。
秀嗣は、脅しの為、または邪魔が入った時の為に持って来ていた刀を手に取った。
抜こうとした時――
「わたしがやる。邪魔するなよ」
と、少年は呟いた。
――気持ちの悪いガキだな。
誰にともなく奇妙な独り言を平然と漏らす少年に、彼はあからさまに嫌悪する。
刀を抜き、狭い室内で、少年と対峙した。
紗羅は二人の戦いを、部屋の隅で邪魔にならないように見ている。
逃げ出して、助けを求めることもせずに。
紗羅は目の前の戦況に、戸惑いを感じずにはいられなかった。
切り合いは、秀嗣の方が優勢だったからだ。
――あの魔獣を一太刀で倒したのに……。
戸惑うのも当然だろう。
出会った時の、あの圧倒的な強さを、今の少年には見出せない。
戦場が室内というのも、紗羅に不信感を与える要因だった。
秀嗣と少年の身長差は頭半分程。
秀嗣の方が背も高く、腕も長い。
そして、刀の長さも、少年の方が脇差程度しかなく、この狭い室内では少年の方が圧倒的有利の筈だからだ。
十打、二十打……、と決着が長引いているのは、秀嗣の経験不足だ。
さすがに振りかぶったりしないものの、上半身を狙って切ろうとする。
それを少年は、何とか刀身で払っていた。
室内での切り合いでは、切るというより突く方が正解だ。
小手を狙い、指を突ければ、それだけで切断可能で戦意喪失にもなる。
身体に少しでも刃が当たり引けば、ざっくり切れるのだ。
そんな事も、秀嗣は知らなかった。
しかし、それ以上に、
――軽い……、軽すぎる。
こいつ、こんな有様であんなに堂々としていたのか?
秀嗣は、少年の非力さを、鼻で一笑した。
刀を交わらせると判る。
少年の斬撃には、重みが無かった。
未熟な少年だから、というのもあるが、何よりも刀自体の重みすら感じない。
少年は払い時、力の流れを変え、流している。
切り返したり、受けることを全くしなかったのだ。
しかし、勝敗は決まった。
秀嗣の刀身が、折れたのである。
「なっ……こんな、偶然……」
少年は、秀嗣の喉元に、切っ先を突き付けた。
「偶然? そんな訳無いだろ? 刀身が何度もぶつかれば、普通折れるだろ」
「は?」
言われて、秀嗣は、自分の刀を見る。
真っ直ぐだった刀身は、歪み、刃毀れしていた。
だが、
「な、何で……お前の刀は、全く変わっていない!?」
秀嗣の言うように、少年の刀は不思議なことに美しいままだ。
「神剣だから」
それだけ言うと、「負けたんだから、失せろ」と睨みつける。
てっきり殺されるものだとばかり思っていた秀嗣は、安堵すると同時に、一目散に逃げ出そうとした。
「待ってください!」
間髪入れずに、紗羅が制止する。
「逃がさないでください!!」
彼女の叫びに、ヒルは素早く反応し、無防備な秀嗣のうなじに切っ先を当てた。
ほどなくして、騒ぎに気付いた女中達が駆けつけて来る。
「如何なさいました!?」
「兄上が――秀嗣が、私の寝間に忍び込みました」
その一言に、女中達は大きくざわめいた。
秀嗣は項垂れ、ヒルは切っ先を全くブレさせず、下がったうなじに従い、一歩踏み込む。
「兄上、残念でしたね。
これで貴方の跡目は無くなりました」
そして、この場にそぐわぬ可愛らしい笑顔で、紗羅は――にっこりと、微笑んだ。
「お……まえ、謀ったな!!」
切っ先が食い込むのを気にも留めず、秀嗣は振り返り、頭上の紗羅を睨む。
「謀ったなんて人聞きの悪い、貴方が勝手にやったことでしょう?
私がした事は、ヒルさんに、こちらにおいでいただいただけです」
ふふ、と紗羅はさも楽しそうに、首を傾げた。
「この事は父上に報告させていただきます。
それと、私に跡目を継がせていただきたい、と直々に申し出ます。
――きっと父上は賛成してくれるでしょう。
何しろ、あの方は私の事を一番に愛しておいでですもの」
その言葉は、はっきりと告げられ、上品なだけでなく、豪胆さも溢れ出ていた。
秀嗣は、正に顔面蒼白。一言も発する事などできないまま、後からやってきた下男達に引き渡された。
それを見届けてから、
紗羅は跪き、床に手をついて、ヒルに深々と頭を下げる。
「――いいよ、ちゃんと説明してくれるなら」
少年は、連れられて行く秀嗣の背を見ながら、ぶっきらぼうにそう言った。
室内には、胸を撫で下ろす紗羅と、刀を収めるヒルのみ残された。
開け放たれた扉から、月明かりが射し込み、室内を照らす。
引き戸の横にできた、部屋の中で一番暗くなっている部分から、気配がした。
『自分と同じ形のモノを、殺すのは嫌?』
気配から、声がする。
「だ、誰ですか!?」
驚いたのは、紗羅だけだ。
「狼君に任せたら、殺しちゃうもんね。
それに、その刀の力を使っても殺しちゃうかもしれないから。だからわざわざ相手の剣が折れるまで受け流していたんでしょ?」
声が明瞭になると、ポーが現れ、影から一歩踏み出す。
「……そんなんじゃない」
――成る程。
と、紗羅は漸く合点がいく。
力を持つという事が、どういうものかは解らないが、一太刀で魔獣を両断できる程の力だ。きっと殺さない方が難しいのだろうな――そんな風に、紗羅は認識したのだった。
「で、わたしは利用されてしまったみたいだけれど……」
はっとして、紗羅はヒルの言葉を切った。
「こちらから申し上げなければならないのに、失礼致しました」




