踊り子 1
「はあはあはあはあはあはあ……」
荒い息と共に、“ガリガリ”“ザリザリ”と固い地面を掻く音が聞こえる。
「はあはあはあはあはあはあはあはあはあ…………」
“ガリガリ”
“ザリザリ”
「はあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあ…………」
“ガッ”
“ガッ、ガ……”
「ああ、もう。早く早く早く……」
“ガリガリガリガリ……”
「はやく、はやくはやくはやく……」
“ざ、ざ、ざ、”
「ああ! もう……」
という具合に、
たいそう焦りながら、地面に向かってブツブツと呟く声と共に、
地を細い枝で掻く音が、森の奥深くでするのである。
背後から、恐ろしいものが迫って来ている。
――このままでは、殺されてしまうだろう。
だから彼女は焦っているのだ。
「はやく」
「はやくっ……」
ただ、暗がりの中で、
がさっ、
ごそっ、
ざわざわざわ、ざわ――
と、生い茂る草を掻き分けるような音はあった。
「はあはあはあはあはあ」
ぐるるるる……
ぐおおおお……
と、彼女の息と重なりあうように唸り声まで聞こえる。
更に大きな物音がして、目を見開く。
闇の中で、耳を澄ますと、みし、みしと、重い足音が近付いて来る。
ひたすらに地面に文字を書く女――
紗羅は焦っていた。
背後に迫る魔獣から、辛くも逃げて来たが、
――また再び、何処からかあの巨大な獣が襲って来るのでは、と考えると気が気でなかった。
「早く早く早く……はあはあは……」
必死の形相で、狂ったように、地を掻く。
やがて、
「で、できた!!」
喜び顔を上げる彼女の顔前には、
先程襲って来た獣の牙があった。
黒澤だ――
「きゃああああああああああ!!!」
咄嗟に悲鳴を上げ、尻餅をつく。
「ひ……ひいいいいいっ」
ガタガタと振るえ、縮こまる。
うずくまり、
恐ろしくて、周りの様子など確認できないが、自分の周りをぐるぐると廻る獣の脚許を見ると、とても一頭だけとは思えなかった。
地面に書いた文字が、完成していたのが幸いだった。
彼女の周りには三頭の魔獣が、円を描くように周回している。
「う……うううう、わ、私……此処で終わるの!?」
ぼろぼろと涙が落ちる。
例え獣が自分に近付けなくとも、このままでは身動きが取れない。
この魔獣共が彼女に手を出せないとしても、
紗羅にはこの地面に書かれた文字達の中心で、ただ縮こまり、じっとしているしか術は無いのだ。
ブフウウ……
ブフウウ……
何やら、鼻で息をする音がしばらく聴こえていたのだが、
やがてそれも止んで、みしっ、みしっ、と足音が遠ざかっていくのが聴こえてきた。
ひとまず助かったことに、彼女は頭を上げ、胸を撫で下ろす。
しかし恐ろしくて、とてもじゃないが、この文字の外に出る事などできないでいた。
それから朝まで、紗羅は狭い空間でじっと過ごし、やがて夜が明けたのである。
朝――
紗羅は、ぞくりと背をすくませた。
ガサガサ、
ザワザワ、
というひそやかな音。
音というよりは、気配に近い。
「ひ、ひい!?」
紗羅は、息を飲んでいた。
今度は目を逸らさず、はっきりと姿を確認する。
「――女?」
意外にもそれは、人の容形をしていた。
それに、ぶっきらぼうだが、人語まで扱う――
それは紛れも無く、
「ひ、人!? いえ、神!?」
紗羅は、ありえない光景に、
混乱し、安堵し、
涙と鼻水で美しい顔を、ぐちゃぐちゃに濡らした。
「うっ、うっ、う。怖かったですー」
涙を流しながら、紗羅は、よく知りもしない少年に抱きつく。
――何故こんな処に少年の姿をした神がいるのだろう。
紗羅はそう思ったが、せっかく見つけた希望を手放したくなくて、必死で彼にすがりついた。
「何だ? 何でこんな処に生きた人間がいるんだ」
少年はさして気にも留めず、中腰でしがみつく彼女を冷めた目で見下す。
「人間じゃありませんー……」
まだ治まらない涙をぼろぼろと落とし、紗羅は少年の顔を見上げた。
「わあっ!」
よく見ると、肌理細やかで大きな瞳が特徴の、端正な顔立ちだ。
年の頃は、十三・四だろう。
――可愛らしい男の子だな。
そう思った時には、すっかり涙は止まっていた。
「お前、この魔獣だらけの場所でよく生きていたな……。
一体、どうやっ……」
「この地面の陣だねぇ」
――え?
少年の低くもなく高くもない声に被さり、別の暢気な声が背後から聞こえる。
「きゃあああああっ!」
振り向くと、
そこには真っ黒なローブを着て、顔の上半分に包帯を巻いた、奇妙な男が立っていた。
「な、な、な、」
顔面蒼白で、驚く紗羅を尻目に、二人は遣り取りする。
「陣が使えるってことは、神だねえ」
「そうなのか?」
「うん、スコラで習うよ」
「?」
「正方形のなかに数字をならべるんだよー。
これとこれとこれ、足しても全部おんなじー」
「ふーん」
ローブの男の全く説明になっていない説明をすんなり受け入れ、少年は地面に刻まれた数字を観察している。
この陣は、古くから護符などにも使われた。
正方形の中に、縦横斜め、どう足しても同じ合計になる数字を配置する。
“どう足しても合計が等しい”ところから“完全”を表すものであり、魔を寄せ付けないのだ。
「だけど、こいつに全く神気を感じないんだけど――」
そう指差す先の紗羅は――平伏していた。
「……何の真似だ?」
少年のひと調子落ちた声音に、紗羅はびくっ、と肩を揺らした。
「あ、あの……! 失礼致しました。
私、こんなにも高貴な方々だとは思わなくて……」
「ああ、ポーの神気に中てられたのか。
良かったな、ポー。美女がお前を敬っている」
ふん、と鼻で笑う少年に、紗羅は深々と頭を下げる。
「い、いえ。貴方様にも無礼を」
「わたし? 何故わたしに態度を改める。
お前が神だとしたら、わたしの方が立場としては下だろう?」
その言葉の意図が解らず、顔を上げる。
「わたしは人間だ」
――え??
耳を疑う、
「そんな、確かに貴方から神気が!! ……あ、あれ??」
先程感じた彼からの神気が、不思議なことに今は全く感じなくなっていた。
代わりに、
「ああ、今微かにお前の神気が判った……気がする」
と彼は適当そうに言い放った。
そのときだった。
ざざざざざ……
と、突風が吹きぬけたが如く、草木を掻き分ける音が奔る。
「ひ」
短い紗羅の悲鳴が漏れたときにはもう、
黒澤が、少年の方に向かって飛び掛っていた。
黒澤は体は牛だが、頭部はあご髭を蓄えた人の姿である。
ただし顔に三つ、胴体に六つの目があり、角も額に二本、胴体に四本あるという姿だ。
その異形の姿をした魔獣が、細身の少年目掛けて大きく口を開けながら、突進してきたのである。




