普通の女子高生 1
吹く風が冷たく、空気がカラリと乾いていた。
朝日が眩しく、寝不足の眼には刺激が強いので思わず細めてしまう。
俯き気味に歩くと視界が狭まり、代わりに思考が広がる。
あれからシュウはどうなったんだろう。
命は学校に向かっていた。
まだ家を出て間もないので、歩き慣れた住宅街の中で、駅を目指す。
昨日の事が頭から離れない。
シュウは大丈夫なのかな……。
“集まってきている”と言っていたが、彼の口振りからすると逃げる事は可能なんだろう。
心配しても仕方がない。
自分から彼処に行くことも出来ないのだから。
眠ると極稀に訪れる“あの世界”へは、不思議な事に成長するに連れ、迷い込む事が減っていった。
中学の時は三年間でたったの二度だけで、殆ど彼に会うことはなかった。
しかし、どういうわけか最近は頻繁に“あの世界”に行く事が多くなっている。
三ヶ月程前から頻度が上がって来たのだ。
週に一度くらいだったのが、二度、三度となり、まだ週の真ん中だというのにとうとう昨夜は二日連続である。
命とシュウとの出会いは、小学4年生の時だった。
やはりその時も、彼女が眠りに就いた後、目を開けると暗闇の中に彼は居た。
ぼんやりした思考。
闇の中に佇む天使のように美しい少年。
生まれて初めて目にする混じり気の無い白い髪、肌、赤い瞳。
夢だと思っても仕方ないだろう。
初めて会った彼は、今では考えられないほどに塞ぎ込んでいて、話しかけるのも憚られるほどの雰囲気を出していた。
シュウと出会った頃はまだ10歳のとき。
命はその頃何でも思った事は口に出す性分で、しかもきつい性格をしていた。
無表情で何を話しかけてもぼんやりとした視線の彼に、幼さ故の残酷さで沢山の酷い言葉を浴びせてしまった。
だが、どういう訳かソレが良かったらしい。
何かに吹っ切れたらしく、会う度に次第に明るくなっていった。
そしてとうとう「好きだ」と彼は告白してきた。
命にとって、初めての面と向かっての告白だ。
それまでは他人づてに、『誰某が自分の事を好きだ』と言う話は聞いた事があったが、はっきりと本人の口から気持ちを伝えられたのは、これが初めてだった。
しかし気持ちには応えられなかった。それでも彼は会う度に毎回好きだと言う。
――昨日はとうとう『愛してる』とかほざいてたな。
命はどうしても、彼を恋愛的な意味で好きにはなれなかった。
彼の愛はとても重かったのだ。
その重さに恐怖を感じた事もある。
在る時。
命は草原のような場所で目覚めた。
シュウの居る“あの世界”に迷い込んだのだ。
自分を見る気配がしたので、そちらを向くと、案の定彼の視線だった。
しかし、その顔に表情は無く、じっと命を見るだけ。
怒っているのか? と思ったが、周囲を彩る品々が、彼の表情と釣り合わない。
下には高級そうなクロスが敷いてあり、なんだかピクニックにでも来ているのではないか、と錯覚させた。
二人の間に置いてあるキャンドルが、とても情緒的で甘美だ。
そして、その横では、灯りをきらきらと反射させながら、趣味の良いクリスタル製グラスが四つ置いてあった。
中には、紫と橙。二種類の液体がそれぞれ二杯ずつ注がれていた。
命はそれを不思議に思って尋ねると、
「ああ、とても美味しいって評判の葡萄ジュースが手に入ったからね。
一緒に飲もうと思って」
表情の無い彼は、口だけを動かしてこう言った。
だが命は首を傾げる。
「このオレンジのは?」
「勿論、オレンジジュースだよ。
おやつにいいかな、って」
そう、彼はゆっくりと表情を崩し、にっこりと笑った。
ロマンティックなキャンドルの灯りが、逆に不気味さを際立たせる演出になる。
――葡萄ジュースのおやつが、オレンジジュース……。
これはマズイ……、と彼女は身構えた。
彼にはこの違和感が判らないようだ。
こういう時のシュウは、やばい。
ちらり、と彼を見ると目が合う。
「まあ、飲んでよ。
大事な話があるからさ、飲み物くらい有った方が良いでしょ」
命は喉を鳴らし、息を呑む。
「い、……イタダキマス」
拒否をすれば何をされるか判らない。
前は一晩中泣き喚かれた。
ある程度の信頼は有るので、変な物が入っているとは思わなかったが、それでも覚悟がいる。
いや、多少変なものが入っていたとしても、面倒なことになるよりかはマシだと思えた。
彼女はグラスをジッと見つめてから、意を決して飲んだ。
味の良い、濃厚なジュースだった。体調にも問題は無い。
だが、彼はそんな事はどうでもいいのか、少し減った手の中のグラスを凝視する彼女を無視し、話し始める。
「オレさ、考えたんだ。
最近ヒル、オレの事避けてるでしょ。
オレは毎日毎日、会いたい会いたいって思ってるのに、全然来てくれないよね。
やっぱりオレの事、嫌いになった?
オレが汚いから気持ち悪くなったんでしょ?」
シュウは捲くし立てるが、
「え、いや……」
彼は命が自分の意思で“この世界”に来られない事を知っている。
命は戸惑うしかなかった。
「だったらもういいよ、もう会わない。
もうヒルのこと忘れるよ。
そもそも君とオレとは住む世界が違うんだ」
うじうじと語り始める彼に正直、
めんどくさい……。
と彼女は思った。
「判った、もう話さない。
いつも勝手にあんたのとこに来ちゃうから、会わないのは無理だけど。
あんたの事を見てもシカトする」
そう言ってジュースを啜り、その日は尚も延々と語る彼の話を子守唄にして眠り、起きればいつものように自室に戻っていた。
次に会った時には、命は宣言通り彼を無視した。
しかし驚く事に、前回のことなど無かったかのような軽い調子で、彼は普通に話しかけてきたのである。
「話しかけるな、って言ったのそっちだよね?」
そのときの命の語気には怒りが込められていた。
「ていうか、今そんな事関係ないよね?」
シュウはあさっての方角を見て溜息を吐いた。
「???」
彼が何を言ったのか、直ぐには理解できなかった。
もう絶対に彼とは話してやらない、と意気込んでいたのに、返答は脈絡の無い奇妙なものだった。
命の困惑する様子を見て、彼は仕方がないな、という風に笑った。
「判ったよ。もうオレから会わないとか言わなーい。
そもそもオレはヒルの事大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで、どうしようも無いんだっ。
ずーっと一緒に居たいのに、会えるのに会わない、話さないなんて不可能だよ」
ははは、と夜空にシュウの笑い声が響いた。
前回の彼は何だったのか、
いや、この彼は何なのか――
背筋に嫌な汗が伝って、
命は言葉を出せなかった。
――理解しようとしても無駄だ……。
彼女はそう思い、これからは彼の思いをひたすら受け流す事に専念する。そう心に決めたのだった。
彼は情緒不安定だ。
普段は彼女に優しく、話題の豊富な良い奴なのだが、スイッチが入ってしまうと、急に可笑しくなる。
だがそもそも、それを抜きにしても、命は美形が苦手なので、彼を好きにはならなかっただろう。
“美形は浮気する”
彼女の持論だ。
命は浮気だけは死んでもされたくない、と思っている。
彼女の怒りの沸点は低い。
すぐに頭に血が上りカッとなってしまう。
プライドが高く自己中心的な自分が浮気なんかされたら、怒りでどうにかなってしまうだろう、と彼女は自分自身の汚いモノを理解していた。