人間 2
冷たい床板の上に直接座る。
命が客扱いされていないのでは無く、座布団などこの家には無いのだ。
「あの、さっきの。どういう事ですか?」
「ああ、神話さ」
「神話……」
「大昔、この世界は神様に創られたって話さ」
それならば、命の世界にもあった。
宗教によって異なるが、大筋は一緒だ。
神が天地を創造した、そんな内容だ。
「この世界は邪悪な世界から独立して、新しい世界……楽園になったのさ」
――独立……?
この世界の神話は命の知っているそれとは違った。
命の世界の神話は、もっと根源の話。
無から生まれる世界の話だ。
しかし、彼女が言うのは元々の世界があり、その後の過程の事。
「あんた本当に何も知らないんだね? 何処の域にもこの手の神話はあるもんだって聞いてるよ?」
命は黙り込む。
楽園という単語に違和感を覚えた。此処が楽園だとは到底思えなかった。
――こんな処。
こっそりと彼女は家に目を遣る。
みすぼらしい家。家具類は一切無い。
便所も風呂も無い。こんな処が楽園だとは到底思えなかった。
「うち、冗談じゃなくて本当に別の世界から来たんです。
何処か、そういう人を保護するような組織を知りませんか?」
女性は目を丸くした。
「うち? 家がかい?」
「いえ……私、です」
ポーと目の前の女性。立て続けに同じ事を言われて命はなんだか恥ずかしくなり赤面した。
「うーん? そんなもの無いと思うけど。全くそんな話聞いたことないよ。他の域にも無いと思うよ?」
そういえば、と命は思った。
「あの、他の域の事知っているんですか?」
「ああ、年に数回、行商人が来るのさ。
奴らは域の話を土産に商売するんだ」
「魔獣に襲われてもものともしない、大団体の武士だ!!
行商人が来ると村はお祭り騒ぎになるんだ!」
彼女の言葉に被せるように、小さい方の少年が目を輝かせながら言った。
小学校高学年くらいの年齢だろう。
高い声が無邪気さを引き立てる。
「100人は軽く居るからね、彼らが落とす金も相当なもんだから、村は総出で迎えるんだ」
――成る程、全く孤立してるわけじゃないんだ。それにしても……、
「人間なんですか?」
「は?」
家族は全員意味が解らないといった表情をした。
「いや、魔獣ってかなり強いみたいだし。
人間には倒せないって聞いたから」
「ああ、そういうことか。ここいらの人間にはまず無理だろうが、行商人は色んな域で仕入れた、たくさんの武器を持っているからね。
それに人数も多いから連携して上手く退治するみたいだよ」
「神様が行商なんてするわけないじゃないか」
かすれた声がする。もう一人の男の子が苦笑しながら言った。
「商売するのは人間だよ」
――中学生くらいかな。
声変わりの時期なのか、話しにくそうにしていた。
――神は商売しないの?
命は首を傾げたが、女性が明るい声で場を区切る。
「さて、話はまた明日だ!
今日はもう遅いから寝るよ!」
そう言って、手を一つ、叩いた。
命は暗闇の中、布団の中に居た。
時刻でいうと、まだ9時にもなっていない。
寝床を用意してもらえたのは、幸運だった。
寒空の下、野宿する破目になるところだったから。
布団は中の綿が湿り気を帯びており、ずっしりと重たい。
黴臭い匂いが鼻につく。
この布団は本来なら、兄弟の片方が使っているもので、予期せぬ来客に急遽、兄弟二人で一つの布団に寝て、もう一方を命に貸し与えた。
――いきなり現れたのに、泊めてくれるなんて。
良い人たちに会えて良かった。
寝心地が良いとはとても言えなかったが、こうして安心して眠れることに感謝した。
これからどうしようか。
当てが外れた。
もっと簡単に、これからの方針を決めれると思ったのだ。
帰り方が、判らない。
手掛かりを掴む事が、これからの目標になった。
――要も探さなきゃ。
もう一度会って、この急激に、全身を侵食する感情を放出したい。
伝えたからといって、どうなることは無いが。
――そういえば、もしかしたら一人で戻ってくるみたいな事も言っていたし……その場合はどうなるんだ……?
もしも彼が自力で戻ったとして、誰かが命に連絡をするのか。
命は深い溜息を吐いた。
考えても仕方ない。考えれば考えるほど、不安事しか浮かばない。
心底面倒臭くなった。
何か希望は無いか。
そう、記憶をたどっていると、ふと幼馴染の無邪気な笑顔が浮かんだ。
今更ながら漸く、拓海との事を思い出した。
――拓海は……帰ったら別れよう。
人を好きになるという感情がこういうものなら、命は拓海に恋することは一生無いように思った。
――勝手だな。
確証も無い事をあんなに堂々と……。
命は自嘲した。
家の外では風が強く吹いていて、戸口の簾がバサバサと不快な音を立てていた。
翌朝。
日の出と共に、命の目が覚めた。
起き上がってみると、軽い筋肉痛を感じたものの、眠る前にあった激しい疲労感が和らいでいることに彼女は安堵した。
「おはようさん」
隣を見ると、家主の妻の眩しいくらいの笑顔があった。
――朝から元気だな。
その奥では家主と、その子供達も欠伸をしたり、背伸びをしていた。
丁度、彼らも起きたばかりのようだ。
「さて、飯の仕度をするから、あんたは布団を仕舞って、畑を手伝いな!」
「は、はい!」
女性の出す指示に、命は素直に従った。
元から何か手伝わなければ、と思っていたのが、はっきりと仕事を与えられると、彼女もやり易かった。
外は霧がかっており、空気は冷たく湿っていた。
子供達に教えてもらい、道具の準備等の簡単な作業を行う。
命と兄弟。三人は、家からさほど離れていない畑の傍で、しゃがみ込んでいる。
命のおぼつかない様子に子供達は笑った。
「やっぱり姉ちゃんは金持ちのお嬢さんだったんだ。
何にもできねえんだろ?」
「――え?」
「そのなまっちろい肌を見れば判るさ。
日に曝される事もなく、毎日お屋敷の奥で詩でも詠って遊んでいるんだろ?」
「こら! 失礼だぞ」
――お嬢さん? まあ、この人達から見ればそうなんだろうな……。
ここの暮らしはとても裕福とは言えないし。
それよりも、彼の言葉で気になる事。
もしかして、彼らはあまり自分の事を好く思っていないのでは、と感じてしまった。
些細な、言葉の捉え方の問題に過ぎないのだが。
「さ、もうすぐ飯だ。家に入ろう」
兄が、弟の頭に手を乗せ、立ち上がった。
「ごめん、姉ちゃん。おれそういうつもりで言ったんじゃないんだ。
……行こう?」
「ああ、うん。全然気にしてないよ」
むしろ関心した。
まだ小学生くらいだろう少年に。
――しっかりしてるなあ、
と感嘆した。
朝食は、命が口にしたことも無いようなものだった。
正確には、物心ついてからは口にしたことが無い。
木の匂いがほんのり香る椀の中には、十倍……否、二十倍にも薄まった粥が盛られていた。その中に幾つか入っている四角いものは、芋を小さく切ったものだ。
赤ん坊の離乳食のようなそれを、命はありがたく啜った。
木の香りと、澱粉の僅かな甘みを感じるが、
それだけだった。
思えば、命は昨日一日、何も口にしていない。
粥を目にするまで、そのことが頭から抜け落ちていた。
空腹をあまり感じていなかったのだ。
――これも、要の眷属になったから?
おそらくは、そうだろう。
嫌だな、とは思うが、今はとても役に立つ能力だ。
――要に言ったら元に戻してもらえるのかな?
「口に合わなかったのかい?」
命の顔を女性が覗き込んだ。
「いえ、違うんです。
つい、考え事をしてしまって。これからどうしようかな、と」
「行く当てが無いのかい?」
「はい。元の世界に帰りたいし、ある人を探しているんですけど。
どうしたらいいか、全く判らないんです」
命が真剣に悩んでいる様子を見て、家族全員同じように、あれこれと悩みだした。
他人の問題を我が身のように共に解決しようとする。
その姿に、命は胸が熱くなった。
「洛要に行けば、何か手掛かりがあるかも」
「うん、それしかないね」
兄がぽつりと溢した言葉に、家族一同頷いた。
「らくよう?」
「この域で一番大きな街さ。役所とかもあるから、偉い人に相談するといい。それともうちに嫁に来るかい?」
「かあちゃん!!」
兄の方が真っ赤になって、夫婦は面白そうに笑う。
弟は意味が解っていない。
――役所!
「そこ!行きたいです!!」
命の性急な物言いに、皆驚いた。
そうかい、と女性は笑う。
「じゃあ、明日の朝一番で出て、洛要に向かおう。私が連れて行ってやろう」
「え? そんな、悪いです!」
「あんた、洛要までの道を知っているのかい?」
「……知りません」
「それに、旅券は持っているのかい?」
「りょけん?」
女性は立ち上がり、土間に下りて、床下の隙間から其れを取り出した。
「これが無いと、役人に相手にしてもらえないよ」
命にその木片を手渡した。
それをまじまじと見る。
旅券は、旅の時に携帯する掌に収まるくらいの木の札だ。
人々は“神から土地を借り受ける”という名目で、役所から土地を与えられていた。
人はその土地を基に生き、役所は人々から収めた税で、神域のいっさいを治めた。
税を得る代わりに、役所は人々を保護する。
だが、土地を離れるという事は、身元が保証されない。
その為に発行されるのが旅券だ。
表には何処の誰か、裏には発行された域の神が住まう場所、役所のある地名が書かれている。
横には鍵のようにぎざぎざに切れ目が入っており、不信あればこの切れ目を照会するのだ。
木肌に黒炭で書かれている、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった字は命には読めない。
見てもわからないので、女性にすぐ返す。
「なあに、気にすることはないよ。たまには街見物でもしてみたいからね」
「すみません」
「ははは、さて。さっさと仕事に取り掛からないと、日が暮れちまう!」
命は慌てて椀を傾けた。
ここの一日はおそろしく早い。日が昇って始まり、日が暮れると終わる。単純明快だ。
日の光があるうちに、できる事はやらなければならなかった。
無駄な時間を作ることが勿体ない。
「御馳走様です!」
命は足早に畑へと向かった。
日が傾く頃。
命はひたすらに鍬を振り下ろし、固い土を掘り起こしていた。
彼女は一日中そうしていた。広大な土地なので、まだたった一分程度しか耕せていない。
――セーラーで農作業してしまった。
したたる汗を、カーディガンの袖で拭う。
手にマメが出来ている。
しかし、だからといって、親切にしてくれた人達に泣き言を言いたくなかった。
彼女は、カーディガンの袖を伸ばして手を被いながら、なんとか作業を続けていた。
袖をまくり掌を見ると、マメが潰れ血とそれよりも薄い色をした汁が出ていた。
「そろそろあがろうか」
急に後ろから声を掛けられて命は驚いた。
女性は笑顔で彼女の肩を叩く。
「あんた、意外と根性あるね! 途中で音を上げるかと思ってたよ!」
日焼けした肌に土がついている彼女の顔が、命にはとても美しく見えた。
つい数日前には考えられないことだった。
――要のおかげで、なんとか根を上げずにすんだんだよ……。
命も彼女に笑顔を返す。
家に着くと、家族は皆、何かの支度を始めた。
命は所在無げに土間に佇んでいる。
そんな命に、
「風呂に行くよ!」
と女性は言う。
命の表情が明らかに色めき立つ。
昨日も汗だくになり、傷にも土がついたままだ。下着も替えたい。
しかし、家に風呂が無いので、それを望むのはいけないと思えた。
「ほら、あんたも行くだろ?」
「はい!」
だが、当たり前のようにそう言う彼女に、やはり人間、汗を掻き泥だらけになれば風呂に入りたいものなのだな、としみじみ思い、彼女は何だか嬉しくなった。
命はとりあえず、持ち物全てを掴む。褌一枚持つのも気が引けたし、着替えようかどうかも迷ったからだ。
夕焼けに向かい、家族と歩いていると、自分もその一員になった錯覚を起こす。
やはり、人間は人間だ。世界が変わっても、人の生き方は変わらない。
自分はこちら側の生き物、神とは違う。
命はそう、改めて確信した。




