闇の中の世界
暗闇の中。
少女の首許だけが浮かび上がっている。
気の強そうな大きく釣り上がった目は、いつもの半分しか開かれていない。
艶めく美しい黒髪は、風呂上がりにしっかりと乾かしていないため、明日起きた時には寝癖がつくだろう。
半袖から伸びる腕は、すらりと長く華奢だ。
彼女はベッドの上に横たわり、黙々とスマートフォンを弄っていた。
今日も一日疲れたな。
彼女の平日はいつも同じだ。
学校に行き、帰宅すれば食事を済ませ、風呂に入る。
たったそれだけの事なのに、どうしようもなく疲れている。
眠い、面倒くさいけど、メール返さなきゃ――
時刻は午後九時。
年頃の女子高生が眠る時間にはまだ早い。
だがもう既に寝間着で、部屋に明かりは無く、いつでも眠れる状態だった。
黒と白を基調とした六畳の洋室は、彼女専用の部屋。
モダン、と言えば聞こえは良いが、どちらかというと“殺風景”と言った方が適当で、彼女の性格をよく表している空間だ。
彼女――蛭子命は普通の高校生。
少々面倒臭がりなところがあるものの、何にでも興味が有るし、流行にのったりもする。
普通の女子高生だ。
彼女はうとうととしながら、メールの内容を確かめる。
学校の帰り道に友人から届いたから、もう五時間は前のものだった。
――用事があってメールしてきた訳だから、
すぐに返してやれば良かったんだろうけど。
内容はすぐに見た。
しかし、帰宅途中で気軽に返せる内容ではなかったので、一旦見なかった事にしたのだ。
面倒臭い。
質問の多さに悪い癖が出てしまい、“駄目だ”と自分の額に拳を当てた。
こんな自分だから、よく人には『冷めている』だとか、『男前』って言われるのか。
たくさんあった質問に妥当な答えを打ち込み、送信した。
程無く、
返信が来る。
「はや……」
どうやら色々と質問してきたのは、男に頼まれたからのようだ。
その男は命の事が気になっているようで、同じ学校だが接点の無い彼女について、お互いと仲が良い友人が相談されていたみたいだ。
命は正直うんざりした。
またか、と思う。
高校に入り何故だかモテ期というものが到来した。
小学校の時にもあったので、命にとって実質二度目のモテ期である。
嬉しくない訳ではないのだが、どういう訳か“話したこともない人”にしか告白されなかった。
さすがに初めて付き合う人は自分も好きになった人がいい、と彼女は眠たい頭でぼんやりと思う。
あまり異性の友人が多くない彼女にとって、知らない人間にいきなり『好きだ』とか、『友達になって』と言われても戸惑いの方が大きい。
それに加えて命は淡白な人間なので、“彼氏が欲しい”という気持ちがぼんやりとはあるものの、無闇に欲しがったりはしなかった。
知らない人と会うのも面倒だし、
そういうのは何か、違う気がする。
命は未だに初恋すらしたことが無い。
だから、恋愛の“好き”というものが、どういう感情か解らない。
高校生になって、周りは急に浮いた話題が多くなり、いつも自分だけ取り残された気分で友人達のおしゃべりを聞いていた。
何故自分なんだろう。
そして、何故知らない人なんだろう。
そんなことをとりとめもなく考えていた彼女だが、今日一日ずっと付きまとっていた睡魔が襲う。
暗闇の中スマートフォンを見つめていた瞳が、瞼に隠れていく。
メール、
返さなきゃ……――
やがて完全に瞼は閉じ、液晶の明かりも消える。
彼女の一日が終わる――
――はずだったのに、
誰かが肩を揺すった。
「ねーヒルぅ、起きてよー。せっかくの時間がもったいないよ」
もう、ほとんど闇の底に落ちる寸前だった意識が、一気に引き戻された。
一瞬寝ていたのか。
気付けば布団の柔らかく全身を包み込む感触は無く、代わりに冷たい風が肌にあたり、彼女は身震いした。
「起きてよ、次いつ会えるか分っかんないんだしっ」
こちらの都合などお構いなしに、その人物は容赦なく言い放つ。
うるさいなあ。
間延びした何とも気の抜けた口調で、高くもなく低くもない声だが今は非常に脳天に響き渡る。
不快感から、彼女の眉間には深い皺が刻まれた。
ああ、また自分は此処に来てしまったのか、と目は瞑ったまま溜息を吐く。
彼女は昨日も此処に来た。
彼の居る、この場所に。
其処は彼女の先程まで居た、自身の部屋ではなかった。
しかし、全く驚きはしない。
目を開けなくても判る。
“此処は別の世界”だという事を――
慣れていたのだから。
夢と現の間のような“この世界”に、命は小学生の時から迷い込んでいた。
頻繁に落ちる“この世界”を、幼い頃は夢の中だと思っていた。
だが、成長すると共に「それは違う」と判ってくる。
眠たい、けどシュウは絶対に譲らないだろう。
「ねー、起きないならこのまま何処かに閉じ込めるよ?
ヒルが帰れないようにさ、時間を止める方法をずっと探してたんだ。
もうちょっとで手に入りそうなんだけど、君がその気ならオレも本気出して、君が眠る前に手に入れてみせるよ」
シュウはさも楽しそうに、一息で語る。
こうなったら彼は止まらない。
蛇のようにしつこく付き纏い、自身の欲求が満たされるまで離さない。
「……」
……、
やっぱり、
そう思い仕方なく身体を起こす。
この不思議な現象と共に、必ず命の傍に居る男。
彼は普段、命に意見を合わせる事が多いが、たまに妙に頑固な所があり、彼女を困らせた。
見上げるとそこには喜色満面な彼、シュウが命を覗き込んでいた。
シュウ――目の前の彼。
命は彼のフルネームを忘れてしまったが、洋風な名前だったのは確かで、名前の通り顔立ちも日本人離れした端正な物だった。
“現実的ではない”、整いすぎた美形である。
透き通るような白い肌に、白い髪。
血のように赤い瞳。
少し童顔だが、完璧な配置の顔のパーツ。
例えるならそれは、命の幼馴染がよく遊んでいたゲームのキャラクターに似ていた。
だから、彼と居ると益々“此処は現実世界ではない”“別世界なんだ”という気になる。
「シュウ、一日ぶり。物凄く眠たいんだけど、寝ていい?」
彼女は心底眠たそうに、彼に言った。
しかし、どうにも寝心地が悪くて身じろぎする。
彼女が寝ていた場所は、自室のベッドの中なんかではなく、ごつごつとした大きな岩がそこらじゅうに転がっている場所だったのだ。
その隙間を縫うように、木々が歪な形で生えていて、苔がへばり付いており、森のかなり奥の方ではないかと窺えた。
シュウは大抵人気の無い、荒野や森の中に居た。
何故か彼の居る場所で寝ている命は、そういった場所でいつも目覚める事になる。
「ダメー! ヒル寝ちゃったらそのまま消えちゃうもん」
「うち明日学校遅刻しちゃうし……はー、まじ眠い」
多少寝心地が悪くても眠気には勝てず、命は横になったままの姿勢で、そのまま再び目を閉じた。
すると突然、轟音が鳴り響く。
岩に接していた半身が、振動で浮いた気がした。
いや実際に浮いていたのかも知れない。
それほどにまで大きな揺れだった。
吃驚して命は飛び起きる。
「何!?」
状況が理解できない。
考えるよりも先に周りを見渡し、無意識に情報を集めようとする。
ふと、視線が留まった。
シュウがいつも通りの笑顔で立っている。
先ほど目を開けた時から一歩も動いていない。
命が横になる岩の隣に在る、同じくらいの大きさの岩。その上だ。
――!?
彼女は目を見開いた。
彼の後ろで焦げ茶の毛でできた、壁のようなものが見えたのだ。
――何??
瞬間。視界が暗む。
シュウの骨ばった大きな手が、命の目を覆ったのだ。
彼は後ろのモノを隠したかったようだが、既に命の眼には焼きついている。
焦げ茶の毛を持つソレは、さながら犬の脚に似ていた。
しかし決定的に違うのは、その大きさ。
180cmは有りそうなシュウの背丈よりも、遥かに大きく、太い。
異様なのは見上げたその先。脚の間接付近から“何も無かった”のだ。
巨木のように聳え立つ“ソレ”の切断面から、どろりとした液体が溢れ出ていた。
その赤黒いどろりとした液体は、焦げ茶色のフサフサと柔らかそうな毛を濡らしている。
「此処はデカいのが多いから」
そう言う彼は、目を覆われる命には見えないが――苦笑していた。
デカいの? あの巨大な脚の持ち主だろうか、と命は彼の言葉を理解しようと考える。
その為にとにかく冷静になろうと、気持ちを落ち着けるように息を吐いた。
だが、彼女が理解するよりも早く彼は口を開く。
「あ、血の臭いに集まって来たみたい。
移動してもいいんだけど、それじゃあ夜が明けてしまう。
明日も学校だろ? 学校は行かなきゃね」
そう言ってウインクする彼は、いつもの彼だ。
“血の臭い”
やはりアレは血だったのか、と彼の言葉を反芻した。
脳裏に焼き付いた、アノ赤黒い色を思い浮かべる。
初めて見る大量の血。
突然現れた巨大な脚、轟音。
一体何が起こったというのか。
恐怖は感じなかった。
ただ戸惑いだけがある。
茫然と、彼女は先週末、幼馴染と観に行った映画を思い出した。
有名な漫画が原作らしいけれど、正直よく解らなかった。
駆け足で進み、いきなり盛り上がって終わった。
予め内容を知っていた幼馴染は楽しめたようだが、理解出来ない台詞、主人公の急激な感情の変化、唐突の展開、全てについていけなかった。
――って、そんな事考えてる場合じゃない!
シュウの見た目の美しさと巨大な獣の脚。
なんだか映画の世界をスクリーン越しに見ているんじゃないか、と思えるほど現実味が無い。
目を瞑っていたのはほんの数秒。
アレは何!?
何で切断された脚しか無いの!?
そう、アレは切断されていたのだ。では、誰がどうやって?
此処には命とシュウしか居ない。
シュウがやったのか? しかし、シュウにもそんな事は不可能だろう。
彼はそれを可能にする道具類は一切持っていない。
いつも彼は身一つで、手ぶらだった。
「あれは……「君に嫌われたくないから、今日は帰ったほうが良いね」
漸く口を開く事ができたのに、言葉を被せられる。
嫌われるような事ばっかりしてるじゃん。
言い返そうとしたが、フワっと温かい何かに包まれた気がした。
それは不思議な感覚で、湯の中にでも浸かっているような気分だ。
目を覆っていたシュウの手がやっと退けられる。
困った様な顔をして、優しく笑っている彼の顔が、目の前に現れる。
「またね、愛してるよ」
そのまま、命は深い眠りに就いた。