刃 1
――無理だ、自分にはそんなことできない。
命は黒いローブの男と、その背後で増えている獣を交互に見た。
既に現れている獣は、産まれたての小鹿のように小さく身震いしている。
最初に現れた獣達は“準備万端”という様子だったが、現在増え続けているのは、そうではないようだ。
ローブの男は命に、それらと戦えと言う。
そうしないと、獣は際限なく増え続ける、と。
頭では、解る。
誰かがあの闇を塞がなければならない、と。
命にはそれが不可能だ。
同じく闇を使うローブの男にしかできない。
彼は自身の口から“物理的なことは得意ではない”と言った。
ならば、あの闇を塞ぐのにもかなりの時間を要するのではないか。
その間、獣の相手をするのは、この場に彼女しかいない。
それは、解る。
――でも、どうしたらいいか判らない。
命は刀を拾い上げ、胸に抱いた。
何も見たくない、聞きたくない、という風に踞る。
そうしてまた、ただ誰かがどうにかしてくれるのを待つのだ。
「困ったなあ。このままだと君も、あっちに在る村の人も皆死んじゃうよ?」
そんな暢気な口調で言われても、実感が湧かない。
先ほど死の淵に立っても尚、彼女は自分が死ぬかもしれないなどと思えなかった。
駄々を捏ねる子供のように、刀を抱く力を強め、命は拒否した。
――この刀、思ったより、ずっと軽い。
そして、安心する。
脳裏に要の顔が浮んだ。
うちが死んだら、誰があいつを助けるのかな。
この人は、助けてくれるかな。
突然。
空気を切り裂かんとする高い奇声が上がる。
鳶の鳴き声に似ていて、それよりも何倍にも大きな音だった。
命が目を向けると、鳥のような翼と頭部を持ち胴体が馬のような獣がこちらに殺気を放っていた。
それは、翼を折り畳むと、頭を低くし犬のように唸った。
――来る……!
そう思った瞬間。
命の前にローブの男が現れ、獣の進行方向に立ち塞がる。
獣が彼に跳びかかる動作が、彼女の目には現実よりもスローで流れた。
――あ、この人が死んだら、誰も要を助けられないじゃん。
ぼんやりとそう思ったら、勝手に身体が動いていた。
まるで、自分の中の、別の存在が、そうするかのように。
彼女は立ち上がり、刀を抜いていた。
命は、自分のいのちよりも、自分を助けてくれる者のいのちよりも、これから頼ろうとしている村人のいのちよりも、要の心配をして、戦う決意をした。
だが、一歩土を蹴ったところで、命は止まった。
布団を思い切り殴ったような、鈍い打撃音と共に、獣の首に横から棒状の物が突き刺さった。
獣は慣性に従って、そのまま横に倒れる。
が、地面に接する事は無い。
獣の首と地面の間に鈍く光る切っ先があった。
両腕を広げるよりも長い棒が獣の首を貫通していて、その先端が刺さった方と反対側から飛び出ていたのだ。
――槍?
そう思った瞬間。
激しく、雪崩が起こったような轟音が始まり、空気が揺れる。
命もローブの男も、咄嗟に頭部を腕で守った。
揺れる空気の中、それが止むまで二人は動けない。
暫く轟音は続き、
やがて止まった。
静けさの中、獣達の多くは、先程と同じ槍に身体のあちこちを貫かれ死んでいた。
命は顔を上げ、ソレを確認すると、口許に引き攣った笑みを浮かべた。
――ほら、やっぱり。
世の中なんとかなるもんなんだよ。
だが、その表情をした事に後悔することになる。
いったい、この光景は誰の仕業か、そう思い、その者の姿を探すために、命は槍が飛んできた方角を見る。
山を少し登った所、彼女が苦労して下りた、あの小さな崖の上に幽かに何かが見えた。
彼女の表情が一変し、今度は眉間に深い皺が刻まれる。
其処には、数台の槍を発射する為の装置と、精悍な目つきをした若い男が十人ばかり居たのだ。
刀を握る彼女の手が汗でじっとりと湿った。
――あいつら……!
忘れる事が出来ない、彼らの顔を。
それは二度と会う事はないと思った、要の手下達だった。
――なんで……、
彼女がそう思うのは尤もだ、彼らのリーダーを助ける為に駆けつけたのならば、其れはあまりにも遅すぎた。
要の手下達の半数以上は、既に此方に向かって走っていた。
投射が終わった時は、もう崖と命達のいる場所の中間辺りを駆けているのが見えた。
その速度は速く、命が掛けた時間の四分の一程で此方に到着する。
しかし、その間にも闇は獣を吐き出し続けていた。
「ポー様! こっちは俺達に任せて早く塞いでください」
手下の一人が、獣の額を斧で割りながら、ローブの男にそう言った。
「あれれ? 君達、要の眷属? 来るの遅くない?」
「ついてくるなっていわれたんっすよ! ……いいから早く!」
ローブの男は「はーい」と気の抜けた返事をして、作業に取り掛かった。
闇の前に立ち、両手を翳すと、不思議な事に半分出ていた獣が引っ込んでいった。
だが、まだ闇の大きさはそのままで、彼は両手を翳し続けている。
この闇が消えるまでは、彼はこの状態のままなのだろう。
要の手下が戦い、次々と動いている獣の数が減っていった。
闇の大きさも、徐々にだが、小さくなっているようだ。
そこに一人、命は茫然と立っている。
結局何もしていない自分に、居心地の悪さを感じながら。
ふと、背後から風が吹く。
命が振り向くとそこに、彼女を平手打ちした…あの男の背中が在った。
吐き気がする程の怒りが胸の辺りから込み上げ、彼女の足元がふらつく。
虎に似ている獣が咆哮した。
命はそこで漸く、獣が彼女の背後に迫っていた事に気が付いた。
先程吹いた風は、男が間に割り込む時に生じたのだ。
対抗するかのように、男は「ガァ゛ッ」と……それこそ獣のように咆え猛た。
命はそれに驚く。――人間の声帯にこんな音が出せるのか、と。
虎のような獣は、その鋭い爪で彼を襲った。
だが、男は背に負う長い刀を素早く抜くと上部に払い、その脚を一閃した。
獣がそれを理解するよりも早く、男は距離を詰め、開いていた獣の口に刀を突き刺した。
一連の動きが終わるまで、早すぎて命の目はついていけなかった。
――強い……。
彼は獣の頭を足で押さえ、長い刀を引き抜いた。
嫌な音がして、栓を失ったそこから血が溢れ出る。
まさか、こいつに助けられたのか。
その可能性一つで、彼女は自分の考えの愚かさを知った。
――“何もしなくても誰かが助けてくれる”って……バカか!
その“誰か”が……誰でもいいわけないだろ!
憎い相手に助けられて、それで本当に自分は満足なのか。
そんなことで生き長らえて、怒りが風化していくのを許せるのか。
そんなの絶対に嫌だ!
男は刀に着いた血を払うと、獣の死骸を足で転がしながら、何かを調べていた。
いまなら背後から、ブスリと行ける。
命はだらしなく右手から垂れていた刀を、両手で握り直した。
丁度そこで男は振り返り、命との距離を詰める。
――バレた……!?
緊張から肩が引き締まる。
男は命の胸倉を掴んで、彼の灰色をしたウルフカットの短い前髪が触れる程にまで、彼女に顔を近付けた。
――殴られる……!
そう思って、命は目を瞑る。
しかし、衝撃は起こらず、代わりに「びびってんじゃねーよ」と怒鳴られた。
命は赤面して目を開けるが、羞恥のあまり顔を上げる事が出来ない。
「頭はどうした!」
彼女のそんな様子に構わず、彼は更に怒鳴りつけた。
要。
男は当然の如く自分達のリーダーを心配していた。
それなのに、彼女はコソコソと小人物がするような事しかしない。
本当に、なんてつまらない人間なんだ――
彼女は顔を上げて、決意の色をした目で彼を睨み返した。
「要は黒い穴みたいなのに沈んでったよ……、うちを助けて」
男の眉がよった。
「この剣を置いて、沈んだんだ……。
うちはそれを何もしないで見ていた。
分かるのはそれだけだ。……それからどうなったのかは、分からない。
殴るなら殴れよ。うちのせいで要はそうなったんだ」
命は吐き捨てるように、苛立ちを隠さずにそう言った。
男の眉が更による。
彼は舌打ちをして、乱暴にその手を離した。
「ったく、そんなこったろーと思ったけどな」
また彼は舌打ちをする。
「頭はその為に、お前を守る為に此処に来たんだ。……気に病むことはねーよ」
そう命に言って、頭をぼりぼりと掻いた。
彼女は目を見開く。
――なんだこいつ、慰めているのか……?
それが命には、施しを受けているようで、面白くなかった。
彼のそんな態度にも、彼女の怒りを治めるには足りない。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が訪れる。
話は完結していて、もうそれ以上話す必要が無いのに彼は、命の横にそのまま立っていた。
「…………」
「…………」
いつの間にか、獣退治をする人数が増えている。
要の手下が全員集まって来たのだ。
「………………」
「………………」
獣の数が、一匹、また一匹と減る。
男達は、戦い慣れているようで、とても鮮やかに捌いていった。
「……」
「……ってか、お前も戦えよ!」
命は沈黙に耐え切れず、彼に向かって言った。
心底嫌っている相手に隣に立たれる苦痛が、耐えられなかったようだ。
「……あー? いいじゃねーか、別に……他の奴らがやってんだし」
彼はダルそうにそう答えたが、さすがに彼の意図が命にも判る。
彼女は目を見開き唖然とした。
――こいつ、うちのお守りかよ。
腹立たしかったが、自分に力が無い、ただの守られる存在だと思い知ったのだ。
だがせめて……、と命は思う。
せめて彼以外にその役をして欲しかった、と。
生きている獣の数が減り、男達はほぼ、先程ウルフカットの男がしたように獣の死骸を何やら調べていた。
死骸はあまり見たくなかったが、命は男達が何をしているのか興味を持ったのでその光景をぼんやりと眺めていた。
そこで、彼女は目を逸らすことになる。
その様子に気付いた男は、
「ああ……ありゃあ使えそうなモン頂いてるんだよ」
と淡々と言った。
毛まみれの獣達が死んでいる姿は、
正直彼女はそこまで気持ち悪いと思わなかった。
殺し方の差で、多少形が崩れているものも有ったが、それを見ないようにすれば、殆ど獣の剥製でも見ているような気分だった。
だが、折角綺麗に死んでいるソレを、あろうことか、男達は解体し始めたのだ。
角の有るものは角を、爪が大きく鋭いものは爪を、牙は顎ごと外されていた。
そして、殆どが毛皮を剥ぎ取られることになる。
命は蒼白になり、手の甲を口許に持っていった。
それを見て彼は、
「お前、アレを気持ち悪いと思うのか? ほんと、目出度い奴だな。
どんな生活してたんだよ。」
とつまらなそうに言った。
それがとても馬鹿にされたように思えたが、命は何も答えられなかった。




