闇 3
その一方で、命と少女は偏った交渉をする。
「あなた、私と一緒に来てくれない?」
大人しくなった獣達を後ろに従え、少女は命の方を向いた。
「何で……」
命は少女の周りで、“伏せ”をしながら唸る獣達を注視しながら、彼女の話を聞く。
「私からは言えないわ。来てくれれば判る」
可愛らしい声には抑揚が無い。
大きな声を出しているわけでも無いのに、高い声は良く通る。
耳元で囁かれているような、不気味さがあった。
「……嫌、今言ってよ。
急に襲ってきたくせに、信用できない」
先程自分を襲った獣。今は死体の気配を背後に感じながら、命は微かに震えて言葉を絞り出す。
「脅すつもりだったのに、殺したのはそっちでしょう?」
少女の声には何の感情も無い。
それを聞いて命の首に冷や汗が伝う。
彼女についていってはダメだ、そう本能で判断した。
「い……行かない!」
命は後退る。恐怖が、身体の末端から這い登る。
彼女は尚も獣を見据えるが、彼らが襲って来るのを警戒してからではない。
少女の目を見たくなかったからだった。
異形の獣達は“早く獲物を食わせろ”、といきり立って居る。
少女の抑えを、完全に受け入れているのかどうかも疑問だ。
彼女の制止を聞かず、いきなり襲って来るかもしれない。
だが、そんな命の不安も他所に、少女は動いた。
「断っても、連れて行くけど」
そう言って少女は手を、下げた。
様々な色の奇声が轟いて、ビリビリと濃厚な殺意が周囲に突き刺さる。
獣達が、命に向かって飛び掛かる。
彼女は両腕で頭部を覆い、衝撃に備えた。
が、何も起きない。
命は状況を確かめようと、周囲を見渡す。
獣は一様に命を無視し、要とローブの男だけを襲っていた。
「な!?」
自分を狙ったわけじゃなかったのか――
「手足もいで連れて行ってもいいんだけど。
邪魔な子達が居るから、無理。
時間稼ぎしているうちに……行きましょう?」
そう言って手を伸ばしてくる少女の目を、見てしまった。
命は再び彼女の目から、視線が離せなくなる。
すると、足許に違和感を感じた。
何か柔らかい物に足を突っ込んでいる、そんな感触だ。
そして彼女の視線が、“徐々に上がっていく”
彼女の立っているところに、人一人分の大きさの、闇の沼が出来ていた。
それは、『ズ、ズ、ズ……』と少しずつ、少しずつ、彼女を呑み込んでいく。
――嫌ぁ……!!!
底なし沼に足を捕られているような、気色の悪さがある。
――ちょっと! 何コレ!?
もがこうにも、足場が悪すぎる。
膝より下が全て呑み込まれても尚、止まりはしない。
少女から視線が離せないので、自分の足元がどうなっているのか確認できない命は、余計に恐怖する。
――まさか、このまま……。
全て呑まれてしまうのではないか、と嫌な予感が過ぎる。
だが、腰程まで呑まれて、ピタリと止まった。
要が命の腕を掴んでいた。
要が一気に命を引き上げ、その反動で彼は後ろに倒れて尻を地面に打ちつけた。
命が顔を上げると、要の顔が瞳いっぱいに映し出される。
視線が漸く自由になったのだ。
要の腕の中に抱えられている事に気付いた命は、真っ赤になって慌てて立ち上がろうとする。
「ご、ごめん!」
だが腕を引き寄せられてそれは叶わなかった。
「離れるな」
要にそう言われれば命は黙るしかなかった。
――可笑しい……。
彼の言葉の支配力に妙な高揚感を覚える。
――もっと……、もっと命令して欲しい……。
そこで命ははっとする。
自分の漏れ出た感情のおぞましさに、音を立てて血の気が引いた。
――な、今何考えて……!
だがその感情の正体を確かめる間も無く、橙色の少女が動き出した。
少女が両手を大きく広げる。
すると、先程とは比べ物にならないほど大きな闇の沼が口を開けた。
要は咄嗟に命を闇に染まって居ない所まで、放り投げる。
命を呑み込んだものは半畳程の大きさだったが、今拡がっているものは十畳は優に有る。一般的な寝室より少し大きいくらいだ。
「要!」
命は初めて彼の名を口に出し、出来る限り手を伸ばす。
だが、彼はあっという間に肩まで呑み込まれてしまう。
――さっきより、早い!!
「助けて!!」
命はローブの男の存在を思い出し、助けを求めた。
しかし、更に絶望する事になる。
本来ならば、要も相手をする筈だった獣達全てが、彼を――恐らく、取り囲んでいた。
はっきりとそう言えないのは、獣達が群がるその中に彼の姿は確認できなかったからだ。
――動きも見えない。
声もしない。
嫌な予感しかしなかった。
獣が群がっているという事は、
彼は肉塊になっているのだろう。
「ヒル!」
絶望している命の足元に何かが転がる。
命が見ると、それは要の使っていた刀だった。
「!!」
彼女は驚いて彼の表情を確かめる。が、そこに在るのは、黒い地面から生えている右腕だけだった。
その手を掴もうと彼女は懸命に手を伸ばすが、全く届きそうも無い。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、と涙が溢れては零れる。
やがて、『ズズズズ……』と音を立ててその腕も呑み込まれていった。
「……あ、……あ、ああああああああ……」
彼女の半開きの口から微かに音が漏れる。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙は流れ続ける。
「ウフフフフ……、はははははは!」
甲高い笑い声に命は顔を上げ、その主を見る。
「まさかあんな大物が手に入るなんて!
馬鹿な奴! はははははは!!!」
闇を使う少女は、先程迄とは別人のように感情顕わに声を張り上げていた。
その目は相変わらず闇しか映さない。
――なんて事を……、なんて……、「……なんて事を!!!」
命は全身から憎悪の気配を滲ませ少女を睨み付ける。
もう少女の瞳に恐怖する余裕など無い。
ただ憎しみだけが隙間無く感情を埋める。
だが唯一、頭の片隅の冷静な部分が問いかけた。
――なんで自分、こんなに怒ってんの?
『あんな奴どうでもいいのに』
確かにその疑問はもっともだ。
数えられる程の会話しか、した事の無い相手を想う感情にしては、命の様子は異常だった。
そして、そのちぐはぐな想いの正体も、命自身、認めたくはないが、気が付いていた。
「返して!」
怒りの中に喪失感が芽生える。
「返してよ!」
命は少女に詰め寄り、まるで自分の所有物かのように要を返せと乞う。
「ああ、貴方。もう必要ないから、死んで良いわよ」
少女が命の喉許を指差す。
すると指先から闇の靄が湧き出て来る。
その靄があっという間に命の首に巻き付き、環を作った。
「な!?」
命は慌ててそれを外そうとするが、靄は掴む事が出来ず、指先をすり抜けまた環の形に戻る。
「千切れるくらい、締め付けてあげる」
そう宣言すると、少女は手を握り締める。
「……がっ……あ゛っがが……!!!」
突然首が強い力で締め付けられ、命はもがいた。
顔面に血が溜まり、顔が腫れ上がっているような感覚がする。
「っ……!!!」
息が出来ないよりも、締め付けの痛みが彼女を苦しめる。
喉の軟骨が軋むような音がした。
瞬間、命の全身が力を失う。
四肢がだらりと垂れていたが、彼女は倒れることもなく、宙に浮いている。
力を持った黒い靄は、命に倒れることも許さず、尚もギリギリと彼女の首を絞め続ける。
その光景を死んだような目で見ていた少女の顔に、恍惚の色が浮かぶ。
だが、一瞬でそれは消え去った。
命の身体が、重力に従い、地面に落下したのだ。
首許では靄が薄くなり、やがて霧散した。
「楽しい遊びの邪魔しないで欲しいわ」
色の無い瞳が捉える先に、獣達の群れが横たわっていた。
その中心に、“円錐”が生えている。
「君こそ、僕の話し相手を壊さないでよ」
獣の餌になったと思われた男が、そこに立っていた。
命が「ひゅっ……」と音をたて、息を吹き返した。
荒く呼吸をし、全身に不足していた空気を送り込む。
――今、一瞬……頭が真っ白になって……。
その後記憶が、……無い。
意識が死の淵に落ちて、寸前で引き戻されたのだ。
命はぞっとした。
ローブの男の周りでは、獣達が白目をむき、泡を吐き、その口から「ぐがががぎごがががぐぐが」とか「おおお゛ううううう゛」とか意味の無い音を出していた。
少女は死んだような目をしながら、小首を傾げる。
「今は貴方と遊んでられないわ……」
そう言って、少女は踵を返し、元来た闇の中へ戻って行った。
「僕と遊べるだけの力も残ってないくせに」
ローブの男は命の傍に寄り、彼女を支えた。
だが、少女が入った闇は消えはせず、残ったままだ。
命が不審に思って見ていると、其処から再び獣が現れた。
闇は一匹獣を吐き出すと、また一匹、また一匹、と際限なく吐き続ける。
『だから、その子達と遊んで……』
まだ、闇は消えずにどんどん獣を吐き続けている。
「あ゛、あれ!」
命が闇を指差す。
喉に痛みが走るのか、上手く話せないようだ。
「僕があれ閉じるから、君はあの魔獣をやっつけて」
――ええ……!
「そんなことできない!」
「僕がやったら、さっきみたいに凄く時間がかかるんだ。
僕はアレみたいに物理的な事は得意じゃないんだよ。
獣みたいに知性の低い者には僕の攻撃は効きにくいんだ」
そして、包帯に隠れているが――視線を落とす。
其処に要が置いていった、刀があった。
「彼は君に此を託したんだろ?」
彼の背後では獣が増え続けていた。




