下山
命は立ち尽くしている。
どうしたものか、と途方に暮れていた。
彼女の立つ先には、崖と言って良いほどの急な斜面が拡がっている。
先を見れば、木々の頭が丸見えだったが、更にその先。
其処に彼女は目を留めた。
――あと少し……、あと少しなのに……。
森の終わり。
木々がひらけたその先に、小さくだが、田畑と、民家がぽつぽつと数件建っていた。
日が中天に在る。
此処まで彼女は一切の休息は摂っていなかった。
正確には摂れなかったのだが。
もう空が青白い時に出立した命だが、いざ木々に囲まれると、そこはまだ暗く足場もよく見えない状態だった。
夜行性の動物達が、まだ積極的に活動していた時間帯である。
最初に鹿の群れに出会った。
確認できただけで五十頭はいたのだから、彼女は彼らが襲って来やしないか、気が気でなかった。
鹿は草食動物だが、100kg を超えるものが多い。
突撃でもされれば、細身の命など無事では済まないだろう。
だがその心配もよそに、幸い彼らは草を食むのに一生懸命で、命の事など眼中に無かった。
問題はその後。
三匹の狐の親子が川沿いで休んでいた事だ。
命の地元では“狐に触れてはいけない”と注意喚起されていた。
北国の狐等には寄生虫を体内に飼っていることがよくある。
彼らの糞便から排出され、それが付着した山菜や沢水を口にした人間の体内に入る。
加熱処理をすれば死滅するので、昨日の食事は大丈夫なのだが……。
その恐ろしい点は、知らないうちに肝臓で寄生虫を飼い、気づいた時には手遅れということだ。
だから近寄るつもりなど、毛頭無かったのだが。あろうことか、彼らの方が“自ら近寄って来た”のだ。
野生の狐が、自ら。
可笑しい――
とは思ったものの、とにかく命は彼らに接触したくなかったので、全力で逃げるしかなかった。
しかし、彼らは自ら意思を持って追いかけて来た。
それも、命が石を投げ威嚇しようが、全く気にする様子も無く。
野生の動物でも人間に慣れていて、あまり気にせずに逃げたりしないものも多いが、彼らの方から近寄って来ることは殆ど無い。
必ず一定の距離がある筈だ。
なんで――
と考えても、追いかけてくるのだから、逃げるしかない。
暫く川沿いに走っていると、やがて彼らは諦めて追って来なくなった。
一息ついても、彼女は足を止めずに、歩いた。
腰掛けて川水を口にして休みたかったが、狐が触れた水を触りたくはなかった。
流水や湧水は問題ないとの見方もあるが、“念には念を”と川の水を生で飲むなど決してしようと思わなかった。
暫く歩くその先で、彼女は再び鹿の群に遭遇した。
先程とは違う群だ。
最初に見つけた群と同じく。気付かれないように、じっとしていたが、残念ながらその中の一頭と目が合ってしまった。
すると一斉に彼らは命の方を向き、狐の時と同じように“近寄って”来る。
とにかく命は逃げるしかなくて、川を見失う事だけは無いように注意しながら、走った。
そして、その後も狐や鹿ばかりに出会った。
此処まで来るのにずっと、動物に気付かれないようにしたり、逃げたりの繰り返しで、当然、休む暇等無かったのだが、
「おかしい……」
命は自分の身体にあまり疲労感が無いのを不思議に思う。
昨日は今よりもずっと短い時間彷徨っていたが、立つのもやっとなぐらいに疲れと身体の痛みがあった。
命は普段、学校の体育以外に運動はしない。
駅から学校までの十数分間を歩くのに、息を切らす程に体力が無かった。
だが、今はまだまだ平気だ。
まるで、昨日までとは別人のように。
心当たりは、有る。
あの要という男だ。
「要……。あの人、絶対アレ……何かしたんだ……」
命は彼に口付けられて、とても身体が楽になった事を思い出した。
まだ、アノ効果は続いているのか、
一時的じゃなく、持続するものなのか。
「まさか、ずっとこのままって訳じゃ……」
もしそうなら、何だか少し得したな、と彼女は思った。
そして思いの外。余裕が出来ている自分の図太さに苦笑した。
――要……、不思議なヤツ……。
命は無意識に彼を思い浮かべる。
昨日から何度と無く、あの口付けが頭の中で再現される。
さらに、
森の中に現れた彼の姿、
先を歩く彼の後ろ姿、
黒い瞳、
薄い唇。
たった短い時間の出来事なのに、鮮明に脳裏に焼き付いている彼が浮かび上がり、命は赤面した。
その事実に、彼女はゾッとする。
ありえない――と。
なんで、あんな奴のこと。
まあまあ美形だし、チビだし、悪の親玉で凄い浮気しそうだし。
まさか、と彼女は鼻で一笑した。
彼の特徴を考えると、自分が苦手なタイプそのもの。そんな彼に惹かれるなど、あり得ない。
今は、そんな事を考えていられない、と命は頭を振って彼の姿を打ち消した。
見据える先は、麓の村。
そして、何処までも横に伸びる小高い崖。
命は何処か下りられる道が無いか探したが、崖は弧を描くように聳え立っており、日が暮れる前に迂回路を探すのは困難なように思えた。
仕方なく、彼女は眼下の崖をその身一つで下りる決意をする。
その崖は高さ3m程で、一般家庭の天井高が2m40cmだから、それより高いくらいだ。
普通に飛び下りたとしても、打ち所が悪くなければ無傷で済むことが多い。
だが、男ならば多少遊びの中でやることもあるだろうが、日常生活でその経験がある女子はまずいないだろう。
全く経験の無い事をしようとしているので、命はどうしたものか、とあれこれ思案するが、やがて一つの結論に至った。
彼女は暫く躊躇っていたが、漸く意を決して動き出す。
格好悪いが、崖先端の地面に生える草を両手でしっかりと掴み、恐る恐る身体を崖に沿って下に這わせた。
傾斜が垂直になっている処で、彼女の両足は宙に浮き、完全に投げ出される。
そこまでは予想通りの感覚だった。
しかし、いざ手を離すとなると、言いようの無い恐怖が襲ってくる。
彼女の身長は161cmだから、残りの高さは1m50cm程度。
多少足は痺れるだろうが、子供でも簡単に下りられる高さだ。
だが、着地点が見えない怖さと、足元がふらつく不安が彼女の勇気を萎えさせた。
とはいえ彼女の気持ちとは裏腹に、両手の握力は限界を迎える。
――い……いたっ……い……。
摩擦で……手がちぎれる……っ!
手を握り直そうとすればするほど、草はちぎれ、掴む物が無くなっていく。
草を握る動作が困難になったので、崖の縁に手を掛けた。
――も……むり……っ!
だが直後。
大きな蚊のような虫が指に止まる。
――!!!
そこで思わず、手を離した。
「わっ……!!」
どすんという音をたてて、彼女は草叢に盛大に尻餅をついてしまった。
「痛……ってー……」
尻をさすりながら、
下りてしまえば、意外と大した事無かったな。
そう思って、土だらけの身体を掃っていると、膝を擦り剥いているのに気付いた。彼女がお気に入りの、分厚いストッキングもそこだけ穴が開いている。
どうやら崖に擦ってしまったようだ。
「わーっ!! 最悪!
やっぱり、制服着るんじゃなかったかな……。
でも持ち運んでて、何かあって手放すようなことになったら嫌だし……。
要の妹があんなフワフワのドレス着てるわけだから、コレくらい別に違和感無いだろうと思って着てきたけど……」
やっぱり止めればよかったかな、と命は独りごちた。
「それにこの制服は、唯一元の世界から一緒に来た物だし」
まだたった数ヶ月しか着ていない制服でも、今の命にとっては、ただ一つの自分の物だった。
失う訳にはいかない。
命は、思ったよりも、身体の痛みが少ないのを確認し、再び歩き出した。
何としてでも日が暮れるまでにはあの民家にたどり着くのだ、その希望が彼女を進ませる。




