終章~殻を破る~
彼女の見る先には、黒い海が拡がっていた。
壁のように険しく切り立った岸の先端に、彼女は立っていた。
大きな波が打ち寄せてきたが、彼女には飛沫一つかからない。
岸壁は高くそそり立っており、海と彼女との距離はかなりある。
濃く潮の臭いがする。それは、
――血の臭いに似ている。
彼女はぼんやりとそう思った。
つい数ヶ月前には考えもしなかった事だ。
吐く息が白い。
――もう冬か。
「寒いな」と、中性的な声が空間に融けた。
彼女の身を包むのは、濃紺の大きめの羽織。
膝上丈の、薄紫色の着物。
脛当てを仕込んだブーツだ。
ちぐはぐな格好だが、彼女自身の印象もまた、歪だった。
露出した部分が闇夜に際立つ、陶器のように肌理細やかな白い肌。
全く手入れしていない、黒いぼさぼさの髪。
そして、小さな顔に大きな瞳。
瞳は鋭く精悍で、少女というよりは、美少年といった風貌だ。
また波が壁に打ち付けられ、濃い潮の臭いがした。
跳ねる飛沫がきらきらと月明かりで輝いている。
綺麗。
今は純粋にそう思える。
汚いと思っていた自然の生き物も、この世界に生きる人々の事も。
死に物狂いで生きてきて、得た物は何だったのか。
この海の向こうに答えはあるのか。
彼女は眼前に拡がる闇の、その先を見ていた。
――この先には“無”が在るだけ、だがわたしには……。
そこで、背後から音がした。
それに気付いた彼女は困ったように、呆れたように苦笑いを浮かべる。
振り向くと、彼女が辿ってきた林の中から、獣の小さな群れが激しい勢いで迫って来た。
彼女は飛び掛って来る影の一頭に、すれ違いざまに一閃した。
月明かりで、それらの姿が明らかになる。
針金のように、硬く青い毛。
巨体を支える柱のように、太く丈夫な四肢。
大きな口から覗く、牙の隙間からは涎が滴り、同時に白い息が漏れ出る。
彼女の手には、血で濡れた刀が握られていた。
刀身は短く、腰に挿す鞘には美しい模様が描かれている。
彼女は自嘲した。
――相変わらず、良く切れる。もう、随分と酷使してきたが、一向に刃こぼれ一つしない。
当たり前か。
刀は日本刀に似ているが、鍔が無い。
殺生を行う為に作られたのでは無く、飾りとして鑑賞を行う事が正しい使い方のように見える。
しかし、ここに来てから彼女と共に生き、彼女の命を守っていた相棒であって、真実“兄弟”でもあった。
斬られた一頭が立ち上がる。
「流石にまだ、一度じゃ無理か」
彼女は刀を握り込み、次の強襲に備えるが、自分から動くつもりは無かった。
もっと、
もっと、強くならなければ。
獣達は体制を低くし、威嚇するように呻いてから、一斉に飛び掛かる。
彼女は刀を振り上げた。