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第五章:赤頭巾と狼、そして狩人

廻る歯車が導く、一つの事件の終焉。

 醒歴1878年 五月 土壱ドイツ 解鎮絃ゲッティンゲン


 その日は、明け方から降り注ぐ雨が昼過ぎになっても止まない、実に鬱陶しい一日だった。

 ヴィルヘルム・グルムバッハは午前の診療を終え、パンと珈琲だけの質素な昼食を取り、ドロテーア・ヴィルト、ドルトヒェンの元へ面会に行こうとしている所であった。

 そして表に出た彼は、工房に面した通りが、いやに騒がしい事に気がついた。普段よりも馬車の…それも解鎮絃警察の紋章が刻まれた…往来が激しい。制服に身を包んだ警察官の姿も何時もより目に付く。

 彼が何事かと訝しがっていると、その前に警察用の四輪馬車が駆け寄り、停止した。

「いやいや、丁度良い所におられましたな。」

 ドアを開け、現れたのはベルトルト・サビニーである。

 奥にはエミール・フォン・ヴァンシュタインの姿もあった。

「何があった。」

「お話は乗りながらでお願いします。」

「私が?」

「えぇ、あなたに用があります。さぁ早く。何せ性急に解決しないといけない事態ですから。」

 ベルトルトに急かされるままにヴィルヘルムが乗り込むと、すぐさま馬車は走り出した。

 ガタガタと車輪を鳴らせながら直走る馬車の中で、中年刑事は皇帝髭を弄りながら語り始める。

「まずはつい先日の事から。あなたから伺いました、戦闘用全身義体の持ち主。漸く判明しました。」

 そう言うと、彼はパチンと指を鳴らす。それに合わせて、エミールが鞄から一枚の書類を取り出した。それがヴィルヘルムに渡るのを見て取ると、ベルトルトは再び語り始めた。

「名前はヴォルフ・ティーク。シュヴァルムシュタット出身で、斧翁戦争、風土戦争に参戦していました。記録では、風土戦争の時に新型兵器の機関銃の直撃を受けて担ぎ込まれた時に、義体化した様ですな。目が覚めた時自分の体が機械の、それもただただ無骨で硬い物になっていた気分と言うのはどんなものでしょう。」

 ヴィルヘルムは応えなかった。ただ書類と共に掲載されている写真を見る。まだ二十代前半かそこらのがっちりとした中肉中背で、金髪の若者が屈託の無い笑みを浮かべていた。

 今彼が手にしている報告書によれば、この若者の両手両足は鉄の鉤爪を付けた豪腕豪脚と化し、吹き飛んだ下顎には河馬の様に突き出た牙を生やし、内臓含む胴体の半分がごっそりと機械に替わっていると言う。

「ま、私の個人的感想はどうでも宜しい。ここからシュヴァルムシュタットは地理的にも近く、現在の行方も解らない。これはもう確実でしょうが、念の為にと今日ドロテーア・ヴィルト嬢の所に出向いたのです。」

「……初耳だな。私は何も聞いてないが。」

「そうでしたか?まぁ病院側にはちゃんと許可を取ってありますよ。」

 眉間を僅かに上げながら、訝しがるヴィルヘルムをベルトルトは素っ気無く返す。

「そして私は彼女にそれを見せましたよ、あなたと同じ様に。彼女はじぃっと、その写真を眺めてましたよ……そこで、部下の一人が報告に現れました。『奴が現れた』とね。」

「ヴォルフ・ティークが?」

「そう、その通り。」

 皇帝髭をくっと上げながら、ベルトルトはにんまりと笑みを浮かべた。

「随分呆気無いな。今まで何処に居たんだ。」

「何処にかは知りませんが、何処からならば。下水道だとか。」

 曰く、地獄の蓋を開けた様な凄まじい悪臭を放ちながら地面の下よりヴォルフは現れた。そして空腹か苦痛か、どちらにせよその飢えを満たす為に西通りの肉屋に飛び込んだ。そこで思う存分暴れ廻っていた所を巡回中だった警官達が発見、到着。ヴォルフは篭城を決め込み、有り余る肉を食い漁っている内に主人と女将は自力で脱出したと言う。彼等は店の損害を市は償ってもらえるのかどうか、警官達に捲くし立てているそうだ。

「まぁ彼等の気持ちも解りますがね、下手に手は出せない。包囲していると言えば聞こえはいいが、実際は時間稼ぎ、にもなって無い。アレと真正面から戦えば、我々じゃどうしようも無い。」

「目撃が無かった事を考えると、休眠状態でずっと潜ってたな。流石に一ヶ月はきついか。」

 本来ならば無意識下…実際の器官がそうである様に…自動的に活動する各種機構を、かなり詳細に本人が操作出来るのも戦闘用の特徴の一つである。機械の内臓の活動を緩やかに、行動自体を緩慢する事で、エネルギーの消費を極力減らせば、一ヶ月ならば何とかもてない事もあるまい。

「それで、私がちょっと離れていたらですな、」

 唇に指を当て思案するヴィルヘルムに、ベルトルトはしれっと言い放った。

「ドロテーア・ヴィルト嬢が消えました。」

「初耳だぞっ、何故それを先に言わないっ。」

 飛び上がらんばかりに大声を上げたヴィルヘルムに、エミールが驚きふためく。

 ベルトルトは、さして気にしない様子で肩をすくめて見せた。

「土壱男子ならお喋りするより行動するべきです。あなたも解っている筈だ。扉は私が居る。窓は開け放たれ、カーテンが揺らめいていた。三階から飛び降りて、病院を抜け出して……彼女は何処に行ったのか。」

 言うまでも無い事だ。

 ドルトヒェンは、自らの四肢と両親を喰らった狼の元に向かっている。

 ヴィルヘルムは考える。あの何も無い白い部屋で、今日この日まで彼女と接して来た時の事を。まるで事件等無く、何処にでも居る普通の少女の様に談笑していた彼女が、その心の内で何を思っていたのかを。

 あの白く何も無い部屋は繭だった。そして彼女は、機械の翼を得て飛び出して行ったのだ。

 何の為にと言えばただ一つ。復讐の為に、だ。

「……この馬車が向かっているのは西だな。」

 結局彼女の心を癒す所か、早まった真似をさせてしまった事に強い自責の念を感じながら、彼は言った。

「えぇ、狼の巣に。言ったでしょう、お喋りよりも行動を、と。彼女もきっとそこに来ます。」

 ベルトルトが言っている間にも馬車は速度を上げて、通りを駆け抜けて行く。窓の外を見れば、何事かとこちらを眺める市民達の姿が垣間見えた。雨がぽつぽつと降る中、皆思い思いに雨具としての外套を羽織っている。中でも赤いフード付きのケープを身に纏った少女が印象的だった。

 やがて目的地に到着したのだろう、馬車が停止した。カツカツと二頭の馬の足音が遅くなり、惰性的に車輪が石畳を噛む音が聞こえ、一瞬ガクンと座席が沈み、完全に立ち止まった。

 進行方向を前にして座っていたヴィルヘルムの体が、慣性によって少しつんのめる。

 それとほぼ同時に、ゴゥンと言う鈍い音が衝撃と共に馬車の上から舞い降りた。

 何かが馬車の上に居る。そう直感が告げるままに、ヴィルヘルムはばっと馬車から飛び降り、ベルトルト、少し遅れてエミールが慌てながら続く。

 瞬間、ごぅと馬車の薄い障壁が音を立てて突き破れ、先程までヴィルヘルムが居た所に何かが伸びた。

 それはナイフの様に鋭く鉄の爪が伸びた指先を付ける鉄の腕だった。先端が少々赤く染まっているだけで、そのほぼ全体に赤茶げた錆が覆うソレを、馬車上の何者かはギギギと音を立てながらゆっくりと引き戻した。

 外に出た事で、ヴィルヘルムは全身を見る事が出来た。

 一体どれ程の歳月と環境が作り出したのか、悪臭漂わす汚泥がこびり付いたずた袋の如き衣に包まれた巨体は熊ほどもあり、そこからごろりと出ている義肢は丸太の様に太い。あれで殴られたら一たまりもあるまい。上の方を見れば伸ばすに任せた、辛うじて金色と解る髪の毛がフードの様に首から上を覆っている。食事の痕なのだろう、鉄の下顎から太く長い二本の牙を生やした口周りの毛は赤く染まっていた。

 これが先程写真で見た若者、ヴォルフ・ティートだと、ヴィルヘルムはどうしても思えなかった。

 訝しがりながら馬車上に佇む異形の者を眺める彼の視線が、相手から向けられる視線とぶつかり合う。

 はっと息を呑んだ。

「何してる捕らえるんだ……殺すんじゃないぞ。傷付け、痛めつけるのは一向に構わんがなっ。」

 その瞬間、肉屋の周囲を包囲していた警官達が、ベルトルトの命に従い、馬車を囲った。エミールもその中に加わり、銃を向ける。制服に身を包んだ彼等が握るのは回転式拳銃に小銃の類であり、怪物然としたヴォルフと比べるのが哀しくなる頼りなさだ。彼等は降り注ぐ雨の雫を汗と共に垂らしながら近付く事も出来ず、一定の距離を保って銃口を向けるのみである。

 雨音が激しくなった。そんな中でも、警官達の荒れた吐息がヴィルヘルムの耳に確かに届く。

 不味い、と思う間も無く雷鳴が轟き、狼の咆哮が大気を掻き乱した。

「待っ――」

 ヴィルヘルムの声は警官達の甲高い叫びと、けたたましい銃声によって誰の耳にも届かなかった。

 放たれた弾丸は降り注ぐ雫の一滴一滴を更に小さい飛沫に打ち砕きながら、ヴォルフの巨体にまで迫る。

 彼の腕が動いた。背筋が泡立つ様な音を立てながら、顔面を覆う様に交差させる。その大半が錆びているとは言え、鋼鉄で構築された肉体において、唯一目立って生身なのは頭部だ。だが逆に言えば、そこを守れば弾丸等恐れるに足らぬと言う事である。元々弾丸の雨が飛び交う戦場で活躍する様作られているのだから。

 飛来した弾丸は、カンカンと腕か体に当たって空しく堕ちるか、見当違いな方向へと飛んで行った。警官達の顔が完全に恐怖に歪み、目の前の得物であった狩人を凝視する。誰一人として逃げようとしないのは立派な心掛けであるが、だからと言って本心としてはどう言う風に思っている事か。

 ヴォルフはずっと交差させた腕を解くと、ダンと太い脚を蹴り込み、警察官達の上を跳んだ。衝撃で四輪馬車が前後に大きく揺れた。その巨体に相応しくない距離を持って、着地する。石畳が罅割れながら、深く沈んだ。そして地面に両手を付けると、正しく獣の如き格好で水飛沫と小石を蹴り上げながら走り始める。

「ぼさっとするんじゃない、構えろっ。撃てっ。」

 突然の事に一瞬茫然自失となった警官達を、ベルトルトが叱咤する。はっと気付き、銃身を構えた彼等だったが、引金も引けずにその場に凍り付いた。ヴォルフが進む方向に、赤いフード付きのケープを羽織った女の子が歩いて来ているのだ。一般市民に当てる危険性を警察官が冒す訳には行かない。

 魔狼の巨体が赤い頭巾の少女に迫る。

 ヴィルヘルムは、エミールの銃に手を伸ばした。

 ベルトルトが舌打ちしつつ、何事かを叫ぶ。

 警官達は引くべきか、引かざるべきかを必死に思考する。

 だが、最早遅い。

 硬質な衝撃音が、通りに響き渡った。

 赤いケープがふわりと舞い上がった。

 そしてヴォルフの体が後方に飛んだ。

 仰け反り、宙返りする様に水溜りの中に放り込まれたヴォルフの陰から見えたのは、

「ドルトヒェンッ!!!!」

 ヴィルヘルムが叫ぶ。

 スカートが捲れるのも構わず蹴り上げた右脚をタンと戻した瞬間、陶器で出来た義脚に深い亀裂が入った。もう無理は出来ない。生身と同じ様に皮膚の下は繊細な神経で覆われているのだから。

 顔を顰めるドルトヒェンは、そこで自分の名前を呼ぶ青年の存在に気が付き、笑みを浮かべた。口元をくっと吊り上げ、三日月形とする笑い。乙女らしい薄い唇の間から白い歯が見える。だが笑っているのはそこだけだ。瞳は決して笑っていない。そこにはまだあどけなさが残る彼女の顔には似つかわしくない、冷酷な光が宿っていた。

 遠い記憶に繋がる既視感。その恐怖にヴィルヘルムは固まった。あの笑い方は、余りにも似て――

 彼が下がった後で、ドルトヒェンが跳んだ。右脚の脛部分が砕け、欠片が飛ぶ。落下地点は仰向けとなって、体を起こそうとするヴォルフの腹だ。左脚を曲げ、膝から鳩尾に向けて一気に堕ちる。

 金属がへし折れる音に耳を塞ぎたくなる様な絶叫が被さった。馬乗りになったドルトヒェンはそこから更に、白い拳を握り締め、ヴォルフの顔面目掛けてその拳を叩き込む。薄汚れた髪の毛を振り乱しながら、右、左と交互に首の向きが鋭く変わった。

 義体が動く原理は、基本的に人体が動くそれと変わらない。要は細胞、神経、骨格、筋肉の役割を成すものが全て機械に置き換わっているだけだ。ただやはりその違いは大きく、多くの者は馴染むのに時間が掛かる。馴染まない者もまた多い。だが、ドルトヒェンは自らの義体を完璧に使いこなしていた。本来十五歳と言う年齢の少女では絶対に出せない力を、意思を持って機械の体に発揮させている。最初の奇襲から一気に攻勢に回った彼女は圧倒的暴力を持って、男達が恐れおののく狼男をねじ伏せていた。その口元に愉悦の笑みが浮かんでいる。今度は手の方に亀裂が入るも、最早ドルトヒェンは止まらない。

「……やれやれ、これは……どう、したものか。」

 唖然とする警官達の心情を代弁する様に、ベルトルトが呟く。あの少女がこのまま殺人鬼を押さえ込んでくれるならば万々歳だが、被害者であり関係者であるとは言え、一般市民に他ならない彼女の行動を黙って見ているのも警察官として如何なものか。私怨に満ちたその拳は犯人の命も奪いかねない。それだけは避けたかったが、今の二人の間に入り込む様な真似も出来かねる。正しく、どうしたものか、だ。

 だがその様な危惧も直ぐに終わりを告げた。

 ヴォルフの首が大きく唸った。鉄で出来た顎が、ぐわりと開かれる。ドルトヒェンは先までの勢いのまま拳を突き出した、底の見えぬ井戸の様な口目掛けて。がきりと顎が跳ね上がり、口が閉ざされる。まるでネズミ捕りに掛かった哀れな小動物の様に、少女の腕が中程から食い千切られた。

 びくっとドルトヒェンが怯み、腕を引く。ヴォルフの豪腕が唸った。小さな悲鳴を上げながら、彼女の顔が地面に叩き込まれる。水飛沫が上がった。べっと陶器の欠片と歯車、動力機、様々な金属の入り混じった残骸を吐き出しつつ、巨体が起き上がった。

 気が付けば、二人の位置は逆転している。今度叩き伏せられるのはドルトヒェンの方だ。少女の顔が苦痛と屈辱、そして恐怖に歪む。青い瞳が、咆哮と共に振り上げられた右腕に、その先の鉄爪に向けられる。

「不味い……引金を引け、早くしろっ。」

 状況が一変し、ベルトルトが叫んだ。はっと気が付いた警官達が再び銃を構える。だが誰も引金を引かない。ここに来ても尚、万が一の可能性が頭をよぎっているのだ。

 たった一人を除いては。

「貸せっ。」

 ヴィルヘルムが、引金を引けぬ大勢の一人エミールの手からあっと言う間に拳銃をひったくった。

「何をする……つもりですっ。」

 ばっとその横にベルトルトが付く。拳銃の命中精度は決して良いものではない。寧ろ悪いと言ってもいい。ヴィルヘルムと今にも掲げた腕を振り下ろさんとするヴォルフの距離はかなり離れている。その手の訓練を受けていないだろう義体職人が当てられるものでは無い。

 そう言おうとしてヴィルヘルムの肩に手を置いたベルトルトは、彼の異変に気付き、ぎょっと後ずさった。

 金縁の肩眼鏡越しに見える青白い右目が、キリキリと飛び出んばかりに見開かれていたのだ。左目は普通の状態にある為に、右目の異様さが良く解った。そこに灯るのは水晶の輝き、奥から届くのは歯車の囁きである。

 この時のヴィルヘルムにとって、ベルトルトは眼中に無かった。

 それは言葉通りの意味である。ただ単に視界に入っていないと言うだけである。

 だが逆に、その目は視界に入っている全てを捉えていた。

 全てを、とはどう言う意味か。

 それは文字通りの意味だった。

 黒雲の谷間から降りてくる瞬間の雨を

 天から来る数千数億の雫を。

 それが建物の壁や街路、警官の服に当たるのを。

 水滴がモスクの様に膨れ上がり、王冠の如く四散するのを。

 そうして飛び散って行く無数の飛沫の一つ一つを。

 飛沫の一つがヴォルフの右肘の隙間に入って行くのを。

 その先で、無数に蠢く歯車や配線がどの様に動くのかを。

 時間にして一瞬きの間に。

 まるで写真で撮ったかの如く鮮明に。

 ヴィルヘルムは捉えていたのである。

 掲げられた右腕が振り下ろされるより早く、ヴィルヘルムは撃った。

 撃鉄が雷管を強烈に叩き伏せ火薬が炸裂。

 衝撃に押し出され、無数の粉塵を上げながら鉛色の弾丸が飛んで行く。

 それは螺旋状に回転しながらまるで線を引いたかの様に正確な直線を描いて、ヴォルフの右腕に向かった。

 当然だ。全ては見えているのだから。

 多くの者にはただの閃光にしか見えない弾丸は、狙いあたわず戦闘用義腕の関節部を撃ち抜いた。神経糸が途切れた事で、それは既に義体では無く、肉体に引っ掛かった重しと化す。ずぅんとその腕がだらりと下がった。重さに引き寄せられ、ヴォルフの巨体がバランスを失って傾く。

 更にヴィルヘルムは引金を引いた。右腕だけでは無く、左腕、両脚の関節、顎の付け根も撃ち抜く。完璧に支える力を失って、ヴォルフは夏の熱さにへたった駄犬の様に倒れ込んだ。きゃっとドルトヒェンの小さな体がその下敷きとなる。目の前の男に露骨な嫌悪を示しつつ、抜け出そうとその体を身じろいだ。

「は、はは……流石自前の眼、だけありますかな。」

 苦笑いを浮かべてそう言うベルトルトに、ヴィルヘルムは無言で応えた。すっと右手で片眼鏡を覆う。数秒して離した時、恐るべき視力を誇った義眼は僅かに色が違うだけの瞳の位置に戻っていた。

 ヴィルヘルムは、驚きの表情を浮かべるエミールに拳銃を押し付けると、ドルトヒェンの元に向かった。

 彼女は罅割れた義腕の力を振り絞り、ヴォルフの体から這い出た所だった。立ち上がろうとするが、しかし片脚に支障を来たしている為上手く行かない。あえなく肩膝を付き、そして耳障りな呻き声を出しながら横たわる男の姿を見た。きっと瞳が釣り上がり、振り上げられた拳が後頭部に向けて叩き込まれる。

「止せっ。」「離しなさい、なっ!!!!」

 再び叩き込まんと振り上げられた腕に、駆け寄ったヴィルヘルムがしがみ付いた。

 全身筋肉のレスラーを相手にしている様な力へ必死に体を張って押さえ込む。

「邪魔、しないでったらっ。そりゃ感謝はするわ、手足をくれたんだからっ。でも貴方に何が解るのよっ!!!!」

 ドルトヒェンもまた体ごと振るい、その束縛から逃れようとする。

「君の、やっている事は、良く無い事だっ。そんな事をしても両親は何も喜ばないっ。」

「えぇ、えぇ、そう、でしょうねっ。でもね、こうでもしないと、私の気が治まらないの、よっ。ねぇもう一度聞くわヴィルヘルムッ。貴方に何が解るって言うのよっ。この怒りがっ、哀しみがっ!!!!」

 醜く歪んだ表情をヴィルヘルムに向けて見せながら、ドルトヒェンが吼えた。

 激情に駆られ、抱きつかれたその腕が、義体職人の中から逃げ出そうともがく。

「解る、私には解るっ。そんな事を、しても、得られるのは一時の安堵感と、途方も無い虚無感、だけだっ。」

 暴れる腕を抱きながら、ヴィルヘルムは回転する様に大きく横に倒れた。巻き込まれ、きゃんと悲鳴を上げながらドルトヒェンも倒れ込む。彼は腕を離し、彼女の襟首を持って眼前に引き寄せた。

 一転して怯えが篭り潤んだ瞳と、冷静ながら熱と力の篭った瞳がその視線を重ねる。

「……いいか、ドルトヒェン。今の君は理不尽な暴力の執行者だ。感情のままにそれを執行しても、誰も救われない……この男は法の下に明け渡す。そして、罪に見合った罰を受けるんだ。罰するのは君じゃない。いいか、もう一度言うぞ。君じゃないんだ。で無ければ――」

 で無ければ、何なのか。それを告げる事無く唇を閉ざし、ヴィルヘルムはドルトヒェンの応えを待った。

 頭で解っても心は納得しないのか、彼女はきゅっと唇を噛み締めながら、首をぶんぶんと横に振った。

「でもっ……でもそれじゃっ!!!!それじゃ、あ……。」

「……ドルトヒェン……。」

 悲痛な言葉は最後まで紡がれず、呻き声へと変わる。その様子を痛ましげに眺めながら、ヴィルヘルムはすっと彼女の顎を持ち、優しく向きを固定させた。地に伏し、雨の中呻く男、ヴォルフに向けて。

「見て欲しい、ドルトヒェン。彼の瞳を……。」

 ぇ?と小さく呟きながら、彼女はヴォルフの、髪の隙間から覗ける瞳を見た。

「彼もまた、己の罪に苦しむ人間なんだ。」

 そこには荒々しい怒りも禍々しい憎しみも無い。ただただ苦々しい怯えが、痛みがあった。石畳の上に横たわり、冷たい雨に打たれている。そして今も感じる後遺症の痛みに耐えながら、成り行きを待つしかないのだ。

 その痛みを、ドルトヒェンは文字通り痛い程良く知っていた。

 彼女の口が、あっと開かれ、直ぐに歪んだ。

「……う……ぅ、ぇ……。」

 感情が爆発した。

 降り注ぐ雨の中、滴る雫の中でありありと見受けられる大粒の涙を流しながら、ドルトヒェンは泣き叫んだ。喉が張り裂けんばかりに泣き続ける彼女の首にヴィルヘルムは腕を回し、陰鬱な面持ちで胸に抱き寄せる。

 彼はドルトヒェンの濡れそぼった金髪を撫ぜながら、天を見上げた。遠くの方に、晴天が垣間見えた。やがてこの雨も止むだろう。今はまだ降り注いでいても、止まない雨等無いのだから。

 二人の様子を固唾を呑んで見守る警官達の中で、ベルトルトが形容し難い笑みを浮かべて何事か呟いた。その呟きは雨音に掻き消され、自身を含めた誰の耳にも届く事は無かった。

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