第9話 卵焼き
俺たちはだだっ広い屋上の真ん中に陣取った。陽菜は女の子座りをして、袋から直方体の弁当箱を取り出す。
「……あれ、お昼ご飯食べないんですか?」
「ん? 食べるけど」
何もしていなかったから、陽菜が不思議に思ったみたいだ。俺は持ってきたレジ袋の口を開ける。
「あれ、いつの間にそんなの買ったんですか?」
「いつも同じのを食べてるから、前の日に買ってるんだ」
「へえ……コンビニ弁当とかですか?」
「いや、違うけど」
レジ袋をガサゴソと漁って、中身を取り出す。怪訝な顔を浮かべていた陽菜だったが、だんだんと驚いたような顔に変わっていった。
「えっ、これ……」
「これが俺の昼飯。ずっとこんなのばっかりだ」
「デ、デザートしかないじゃないですかっ!?」
俺の前に置かれていたのは――紙パックのお茶、手のひらサイズのクレープ、そしてパックに入ったりんご。陽菜は目を丸くして身を乗り出し、素っ頓狂な声をあげていた。
「だ、ダメですよ雄吾さんっ! ちゃんとご飯食べないとっ!」
「いいんだ、気にするな」
「ダメですってば! あのっ、私が作ってきたお弁当――」
「食えないんだよ。……二年前から」
「えっ……」
慌ててもう一方の弁当袋を開けようとしていた陽菜だったが、俺の言葉を聞いてピタリと動きを止めてしまった。何かを察したようで、姿勢を正してまた女の子座りに戻る。
「紫苑が……ああなってから、まともな飯を食うと吐くようになったんだ。特に午前中が酷いから、朝飯はまず食べない」
「そんな……」
「昼もな、こういう甘いのしか食えないんだよ。情けないよなあ、ははは……」
「雄吾さん……」
陽菜はすっかり閉口して、何も言わなくなった。昔は運動部だったし、むしろ食べるのは好きな方だった。紫苑ともよく美味しいものを食べにいったものだ。
だけど、あの出来事があってから心身のバランスが壊れてしまった。まるで俺の胃腸が生きるのを拒んでいるかのように、飲み食いしたものを戻そうとするようになったのだ。
最初は無理をして食べようとしたけど、吐くことがトラウマになり、いつしか食事自体を敬遠するようになった。そのせいで体力も落ちて、また身体が壊れていく。悪循環だとは認識しているけど、むしろその方が本望だと思う気持ちもあった。
「……あの」
「何だ?」
ずっと黙っていると思っていたら、陽菜が重々しく口を開いた。いつの間にか弁当箱を開けていたようだ。……ってあれ、もう一個の弁当箱も開けてある。
「雄吾さん、食べたくないならいいんです。どうか断ってください」
「お前……」
「でも、私は雄吾さんに恩を返したい。だから……一口だけでも受け取ってくれませんか?」
「……」
陽菜は箸を取り出し、俺の分であろう弁当箱から少しいびつな卵焼きをつまんだ。さっきよりもずっと真剣な表情。けど……どこか不安そうにも見える。
「これ、お前が作ってくれたんだよな?」
「は、はい! その……昔、お姉ちゃんに教わったんです。卵焼きの作り方」
「……そうか」
紫苑は早起きなんかする人間じゃなかったから、弁当を作ってくることなんてそうそうなかった。それでも何回か、俺の分までこしらえてきたことがあった。その時にも……こんな形の卵焼きが入っていた気がする。
食べることは怖い。この卵焼きを食べても、もしかすれば吐いてしまうかもしれない。それを分かっているから、簡単に受け入れることは出来ない。
だけど……陽菜は、俺に恩を返したいと言った。わざわざ俺のために早く起きて朝から弁当を作っていたのだろう。それを一口も食べずに無駄にすることは……紫苑が受けたという「恩」そのものを否定してしまうような気がする。
じっと見つめあう俺たち。俺が何もしないから、だんだん不安が増してきたようで――それに耐えきれなかったのか、陽菜が作り笑いを浮かべた。
「や、やっぱり食べられないですよね! ごめんなさい、無理強いして……」
「いただきます」
「えっ?」
次の瞬間、俺は鮮やかな黄色を口に含んだ。舌先に柔らかい感触があって、甘い味が全体に広がった。陽菜は俯きかけていた顔をハッと上げ、俺の目を再び見る。
「ゆ、雄吾さん!?」
懐かしい味だ。紫苑が作ってくれたのも、こんな味だったような気がする。まさかもう一度、それもこの屋上で――味わえるとは思わなかったな。よくよく噛んだ後、しっかりと飲み込む。
「美味い。ありがとな、わざわざ作ってくれて」
「いいですけどお……これ、私の箸なんですけどー!」
「ん、『あーん』ってことじゃないの?」
「もー! そういうところですよー!」
陽菜は頬を真っ赤にして、むーとむくれていた。紫苑もよく「あーん」なんてしてくれたから、ついそれと同じ感覚で受け入れてしまった。まあ、いいだろう。
ぶつぶつと文句を言う陽菜をよそに、じっと柵の向こう側を見つめた。今日は春らしいいい天気だ。このまま昼寝でもしたいくらいだな。
紫苑の面影は消えていない。それどころか、この場所に来て色濃く蘇ってきた。あの笑顔も、風を受けてたなびく髪も、絵のような立ち姿も。今もこの瞳にはっきりと焼き付いている。
「雄吾さん……?」
「なんだ?」
「いえ、別に……なんでもないです」
陽菜は少しだけこちらに視線を移して、わざとらしく顔を背けた。きっとこちらに気を遣ってくれたのだろう。
たしかに紫苑は消えた。だけど、俺の心の中からはいつまでも消えない。いや……消えてくれない。寂しいのか、紫苑? ――なんて、アイツらしくないよな。俺はゆっくりと天を見上げた。
涙が、零れ落ちないように。