第7話 授業
いつからだろう、教師の話が耳を通り抜けていくようになったのは。
黒板に書かれた関数が微分され、定数に成り下がっていく。変化に乏しい生活は無に帰すということかな、なんていうふうに数学的事実を人生論に当てはめてみるが、虚しくなってやめた。
「えー、この問題を……枡田、解いてみろ」
「はい」
指名された優等生様がすっと立ち上がり、教室の前方へと歩き出す。姿勢良く歩くその様は、まるでどこか高貴な家のお嬢様みたいだ。
「……」
カツカツという音とともにチョークが黒板の上を走り、教師がその様子をじっと眺めている。指定された点を通る接線を求める問題らしい。枡田は慣れた様子で、すらすらと解答を終えた。
「解けました、先生」
「うむ」
教師は手元のテキストと枡田の解答を見比べた。答えは合っているようだが……論証が不十分だな。これでは厳密な議論とは言えない。
「接線の式は合っているが、解答としては不十分だな」
「えっ? そんな……」
「誰かー、指摘できる奴はいるか?」
枡田が困惑する中、教師が教室中をぐるりと見渡した。他のクラスメイトたちは一斉に目を背ける。普通に問題を解くならともかく、他人の誤答を正せってのは難しいよな。
「いないのかー? お前ら受験生だろ? 自覚がないのか?」
また面倒くさいことを言い出しやがって。お前の教え方が悪いから生徒が理解していねえんだろうが。俺たちに責任転嫁すんじゃねえよ。
「おい! いないのかー? はあー……」
教師が明らかにいらいらし始めた。チョークで黒板をコンコンと叩き、不満そうな顔をこちらに向けている。すぐ近くに立っている枡田も焦った表情を見せた。
あまり目立ちたくはないが、分かっているのに馬鹿なフリをするのも癪だ。手を挙げるのも面倒だな、仕方ない。
「……四行目のとこ」
「へっ?」
枡田が虚を突かれたような声を出したが、俺は構わず話を続ける。
「f(α)が0になる可能性を考えてない。後ろの方で矛盾が出来る」
「そっ、そうだな。松井、その通りだ」
教師も納得したようで何よりだ。俺は再び視線をまっさらなノートに戻す。二年前は一言一句も逃すまいと必死に板書をとっていた。けど……見せる相手がいなくなってしまったからな。
紫苑は部活にのめりこむばかりで、テスト前になって俺に泣きつくことも多かった。ファミレスなんかでノートを見せながら勉強を教えたこともある。大変だったけど、紫苑と過ごせれば何でもよかった。
……っと、いつの間にか皆が教科書とノートを机にしまっている。そろそろ昼休みか。
「今日はこれで終わる。日直、号令」
「きりーつ、礼!」
気だるげに席を立ち、ペコリと頭を下げた。一斉に教室が騒がしくなり、購買や食堂を目指して次々にクラスメイトたちが飛び出していく。俺も行くとするか――
「松井くん」
「あ?」
嫌な声に呼び止められた。渋々振り向くと、そこにいたのは弁当袋を持った枡田。その後ろには何人かの女子。どこかに弁当を食べに行く途中らしい。
「さっきの問題……どうして分かったの?」
「別に。ああいうの、慣れてるんだ」
「慣れてる?」
「インチキな答案ばっかり書いてくる彼女がいたもんでな」
「!」
枡田はハッとしたように顔を上げる。そうだ、紫苑の数学は酷い出来だった。どうやってうちの高校に入ったのか不思議に思ったくらいだけど、意外とテストの点は悪くなかったんだよな。
「……紫苑があなたに入れ込んでいた理由が未だに分からないわ」
「はあ? なんだよ急に」
「別に。私だってあの子に勉強を教えようとしたのよ」
「へえ」
そりゃそうか、枡田だって紫苑とずっと一緒にいたんだもんな。
「でも『教えられなくても出来るから』って断られたの。実際、中学の頃の紫苑は勉強が出来る方だったわ」
ちなみに、枡田と紫苑は中学一年生の頃から友達らしい。だから昔からよく知っているというわけだ。
「アイツ、とてもそんな雰囲気じゃなかったけどな」
「……まだ私の言いたいことが分からない?」
「なんだよ」
枡田は呆れたような表情で、額に手を当てた。さっきのやり取りといい、どうもコイツの発言は鼻につく。いいからさっさと用件を――
「紫苑はわざと間違えていたのよ。あなたに会いたいがためにね」
「……へっ?」
予想外の真実に戸惑う。言われてみれば間違い方が妙にワンパターンだったような気もする。計算間違いとか、符号間違いとか。
「こう言っちゃなんだけど、私は学年一位であなたは二位。私を頼ってくれてもよかったじゃない」
「まあ、理屈で言えばそうだけど」
「そういうことよ。馬鹿なフリをしてまで、どうして紫苑はあなたに――」
などと言いかけた枡田が、俺の背中越しに教室の前方に目を向けた。何かに気が付いた様子で、無言で後ろに振り向いて歩き出す。
「お、おい? どうしたんだよ?」
「じゃあ、私はお昼を食べてくるから。あなたも食べるといいわ」
「お前に言われなくても――」
「今日は『デリバリー』が来てるみたいよ」
教室がざわついたような気がした。反射的に振り返ると、そこには――
「雄吾さーんっ! お弁当ですっ!!」
インチキじゃない、本物の笑顔があった。