第5話 親友
「じゃあ、私はここでっ!」
「ああ、ありがとな」
昇降口で上靴に履き替えた後、俺たちは別れた。陽菜は一年生の教室の方へと走っていく。時間にしたらせいぜい数十分の出来事なのに、随分と強烈だったな。
陽菜の後ろ姿を見送った後、のそのそと歩き出す。さっきまで騒がしかったから、まるで静寂な異空間に飛ばされた気分だ。
「……」
俺の足音だけが廊下に響き渡る。今日もまたモノクロの一日が始まるんだな。紫苑が消えてから、俺の世界はずっと白黒テレビだ。まあ、さっきまで一緒にいたアイツは――色鮮やかに見えたけど。
階段を登り、三階にある自分の教室を目指した。自分の息が荒くなるのを感じる。部活を辞めてから、本当に体力が落ちてしまった。ろくに飯を食っていないというのもあるんだろうが。
登り切ると、他の三年生たちが廊下で談笑しているのが見えたが、まもなくそれも止んでしまった。さっきと同じように視線を感じるが、もう慣れたものだ。周囲からの意識を振り切るようにして、足を速める。
もともと人付き合いは苦手で、高校に入学してからもほとんど友達はいなかった。クラスでも浮いていたし、授業なんかで俺とペアを組まされた相手が嫌そうな顔をするのもしょっちゅうだった。
そんな俺に興味を持ったのが紫苑だった。活発で友好的なアイツとは対照的だったはずなのに、俺たちは恋人同士になった。今考えても、随分と不思議なことだ。
紫苑は、俺に他人と交流することの意義を教えてくれた。他者と笑いあい、時に悲しみを共感し、また笑いあう。それがいかに尊いのか、ということを理解させてもらった。もしかすれば、アイツは俺にもっと人間関係を広めてほしかったのかもしれない。
……だけど、俺にとっての「他人」とは紫苑だけだった。俺は紫苑がいれば十分だったし、他に何もいらないとすら思っていた。俺の世界を広げてくれた、紫苑こそが――俺にとって世界の全てだったのだ。
だからこそ、今日の出来事は衝撃的だった。こんな俺に、文字通り手を差し伸べてくれる人間が現れたのだ。もちろん、簡単に受け入れられたわけじゃなかったけど……二年ぶりに、他者というものの存在を意識したような気がした。
考え事をしていたら、教室の前に着いていた。扉の窓を覗けば、多くのクラスメイトたちがおしゃべりに花を咲かせている。それを邪魔しないように、そっとドアに手をかけて、カラカラと開いた。
……一瞬、皆の意識がこちらに向いて、再び戻る。どこにいってもこの状態か。人の波を避けるように自分の席に向かうと、その周りに何人かの女子が集まっていた。
「あっ、ごめん松井くん!」
「いや……いいけど」
ある一人が俺に気づくと、まるで腫物を扱うように仰々しく席を空けた。それに伴って、集っていた女子たちもなんとなく教室の後方へと移動していく。
触れたくないものには、触れない。というのはある意味では正しいと思う。このクラスにおいて、俺は恐らくニキビみたいなものだ。あるのは困るけど、触って変なことになっても困る……という存在だ。
ニキビが出来たら、人はどうするか。美容に気を遣う奴なら、より一層スキンケアに磨きをかけるだろう。不精な奴なら放っておくかもしれない。
どのみち、わざわざ直接潰すような真似はしないのが普通だろう。けど、ごくまれに潰す奴がいる。よほどニキビが嫌いで、見ることすらしたくないというような――
「松井くん」
後ろを振り向くと、さっきの集団から一人の女子が抜けてきていた。長髪で、背が高くて、眼鏡をかけた優等生。
「今日の朝、どうして陽菜ちゃんと歩いていたの?」
問い詰めるような厳しい口調。その目は真っすぐに俺の瞳を見つめ、逃さないぞと言わんばかりだ。
コイツの名は枡田百合奈。……紫苑の、親友だった。