第3話 通学路
「学校、行きませんかっ?」
手を引かれるまま、道路へと歩み出す。まるで重力が消え失せたように、自分の体がふわりと浮き上がった気がした。
「紫苑……!?」
「いいえっ、私は陽菜です! 雄吾さん、これからよろしくですっ!」
思わず彼女の名前を叫んでしまったが、目の前の少女は首を横に振った。そうだ、コイツは妹。俺が愛した紫苑じゃない。けど……本当に同じだ。
俺の右手を掴んだまま、陽菜は離そうとしない。夢を見ている気分だ。いまほっぺたをつねれば、眠りから覚めて一人ぼっちの布団にいるかもしれないな。
「ちょっ、ちょっと待て!」
「ふぇっ?」
状況を咀嚼しきれず、その場に立ち止まる。先を歩いていた陽菜も、それに従って足を止めた。
「お前、本当に何が目的なんだ?」
「何って……何のことですか?」
「だって、紫苑が死んだのは――」
「違いますよ、雄吾さんっ!」
俺のせいだろう、と言いかけたところを遮られた。
「私は雄吾さんと一緒に学校へ行きたい! それだけなんです!」
「それだけ……って」
「逆にっ、雄吾さんは何が気になるんですか? やっぱり暗証番号ですかっ?」
「違えよ」
俺は困惑しているのに、陽菜はずっとニコニコと笑顔を絶やさない。なぜこんな真似をする。
「お前、大して俺と話をしたこともないだろう? どうして俺と学校に行きたがる?」
「んー……」
空を見上げて、考え事をする陽菜。たしかに、紫苑が生き返ったのかと心が躍った自分もいた。だけどあくまでコイツは妹。俺とは何の関係もないはずだ。
「私、あなたに恩を返したいんです!」
「お、恩?」
「はいっ!」
恩……と言われてもピンとこない。別にいじめられていた亀を助けたわけでもあるまいに。竜宮城にでも連れていかれるのだろうか?
「俺……お前に何かしたか?」
「いいえ、違います! ――お姉ちゃんが、雄吾さんに受けた恩です」
「えっ……」
陽菜は真っすぐに俺の目を見つめ、はっきりと言った。お姉ちゃん――すなわち紫苑――が受けた恩、だと?
二年前、俺は紫苑からいつも元気を貰っていた。ずっと孤独に生きていた俺にとって、彼女は光と呼ぶべき存在だった。
茶目っ気にあふれた仕草、予想もつかない言葉、何よりも輝く笑顔。紫苑からいろいろなものを与えてもらったが、俺は何一つ返すことが出来なかった。
それなのに――陽菜は、紫苑が俺から受けた恩を返しに来たという。俺は彼女に何を与えたんだ? そして……どうして、陽菜がそれを律儀に返そうとしているんだ?
「……悪い、分かんねえよ。俺は紫苑に何もしていない。むしろ――」
「雄吾さんっ!」
再び、右手を強く掴まれる。あっという間もなく、陽菜は再び歩き始めた。
「お、おい!?」
「雄吾さんは引け目を感じなくていいんです! 全部、ぜーんぶ私の勝手です!」
「お前……」
こちらの言葉も意に介さず、どんどん先に進んでいく。やはり紫苑の妹だなと感じたが、一方で――どこか、陽菜が自分自身に言い聞かせているような発言にも思えた。
「一つ聞いていいか?」
「はいっ、なんですかー?」
どうしても、気になることがあった。俺は紫苑のことが好きだから、今でも忘れられないでいる。実の妹である陽菜も……それは同じなのだろうか?
「お前、紫苑のことは好きか?」
シンプルな問い掛け。陽菜は向こうに顔を向けたまま、一瞬だけ黙り込む。そして、ゆっくりと――口を開いた。
「……はい! そうに決まってます!」
やはり、陽菜が自分自身に言い聞かせているように思えた。
……こうして、陽菜から「恩返し」される生活が始まったのである。