第11話 下校
午後の授業は何事もなく過ぎていった。昼休みの出来事を噛みしめながら、春特有の穏やかな時間に身を委ねていると、あっという間に六時間目も終わっていた。
「……では、帰りのホームルームはここまで。気をつけて帰るように」
「きりーつ、礼!」
日直の号令によって、今日の学校生活は幕を閉じた。教室が騒がしくなった後、皆が帰っていってだんだんと静かになっていく。何も変わらない平穏な一日。強いて変化を挙げるなら、三年生になって大学受験の話題が増えてきたことくらいだろうか。
クラスメイトが教室を去るのを待ってから、身支度をして席を立つ。別にいつ帰っても同じなのだが、他の生徒たちの集団と混じって下校するのは気が進まないのだ。
ふと、教室の前に貼られたポスターを見る。そこには「毎日の出会いを大切に」などという標語が記されている。ありきたりだな。
二年前の今頃か……紫苑と初めて会ったのは。同じ部活に入って、少しだけ挨拶を交わしたような記憶がある。でもその時には何もなかったし、紫苑のことが気になるようなこともなかったんだけど。
紫苑との出会いは俺の何を変えてしまったのだろう。何かを変えてくれた気はするのだが、具体的に言語化するのは難しい。そして……俺は、紫苑の何かを変えることが出来たのだろうか?
「……帰るか」
数十分が経った後、席を立って教室の前方へ歩き出した。そういえば、陽菜はまだ待っているのだろうか。昇降口で待つと書いてあったが……流石に帰ったのかもしれないな。だとすれば申し訳ない。
すっかり静かになった廊下を歩いて、階段に向かう。誰もいない教室というのは哀愁が漂う。毎日毎日若者が大騒ぎしているのに――夕方になれば、ただ机と椅子が集会をしている空間に成り下がるのだ。
階段を降りて、下駄箱を目指す。二年前は部活をしていたから、大急ぎでコートに向かって準備をしていたけど。今やただの帰宅部員だからな。……っと、おや?
「あー、いたー!」
前方から陽菜が走ってくるのが見える。リュックサックを背負い、ショートヘアを揺らしながら足を動かしている。
「なんだ、帰ったんじゃなかったのか?」
「帰るわけないじゃないですかーっ! むしろ探しに行こうと思ってたんですから!」
「ああ、悪い悪い。別に帰ってくれてもよかったのに」
「嫌ですーっ! 雄吾さんをお家までお送りしないといけないんですから!」
陽菜はまたまたむーっとむくれて、俺の側にやってきた。朝と同じように俺の右手を掴んで、下駄箱の方へと引っ張っていく。
「別にエスコートされなくたって大丈夫だよ」
「私がしたいんだからいいんですっ!」
「そ、そうか……」
流石に校内で手を繋ぐのはどうなのか、ということを婉曲的に伝えたつもりだったのだが、それを言って聞く奴ではないらしい。やっぱり紫苑の妹だな。
俺たちはいったん別れ、各々の下駄箱で外靴に履き替えた。そして校舎の外で合流して、再び一緒に歩き出す。
そういえば、陽菜は枡田と同じ部活だったよな。今日は活動がないんだろうか?
「なあ、部活はいいのか?」
「今日はお休みなんです!」
「そうか。だからってお前、何も俺と――」
「ちょっと待ってください!」
「へっ?」
ちょうど校門を出たところで、急に陽菜が立ち止まった。靴ひもでもほどけたのかと思ったら、どうやら違うらしく――陽菜が、右の手のひらを自分の胸に当てた。
「私、名前で呼ばれたいんです!」
「名前?」
「雄吾さんが『お前』とか呼ぶの、なんか寂しいんです!」
「ああ……」
陽菜はじいっとこちらを見ていた。気にしてもいなかったけど、たしかにそうだな。
「分かったよ。なんて呼んでほしいんだ?」
「名前です! 『陽菜』って呼び捨てちゃってください!」
「うーん……」
すっかり親し気に話しているけど、そもそも俺たちは再会したばかり。それでいきなり名前で呼べというのはやや抵抗がある。
「呼び捨てにするにはまだ早いよ。『陽菜さん』だな」
「えーっ、嫌です!」
「お前だって『雄吾さん』とか言ってるじゃないか」
「また『お前』って言ったー! それに雄吾さんは先輩だから当たり前じゃないですかー!」
ぷりぷりと不満そうに主張する陽菜。そういや、紫苑の時も同じようなことを言われていた気がするな。ずっと「藤田」と呼んでいたのに、ある日急に「紫苑」と呼べとか言い出して……懐かしい。
「……ねえ、聞いてます?」
「ん? ああ、ごめん」
「だからー、どうしたら名前で呼んでくれるんですかー!」
校門の前で大騒ぎしているもんだから、また他の生徒からの視線が集まってしまった。このままでいるのも変だし、なんとかしなければ。
名前で呼べ……か。別に絶対に嫌というわけではないのだが、何か引っかかる。ここは陽菜にも対等な条件を提示すべきだろう。
「分かった、分かった。これからお前のことは陽菜って呼ぶよ」
「えっ、本当ですか? やったー!」
「ただし条件がある。それを飲み込んでくれ」
「はいーっ! なんでもござれですよーっ!」
俺がゆっくりと歩き出すと、陽菜も満面の笑みで歩を進め始めた。俺が陽菜に提示する条件。それは……ある意味では罪深い条件でもあるかもしれない。
「俺のことを『雄吾さん』と呼ぶのはやめてくれ」
「えっ……」
陽菜は困惑して、再び立ち止まった。だけど俺は歩き続ける。
名前で呼ばれるのが嫌なわけじゃないが、誰にでも簡単に呼んでほしいわけでもない。手を差し伸べてくれたというだけでも、俺は陽菜に感謝すべきなのだろう。けれど、そこだけは譲れない一線だった。
もしかすれば、このまま陽菜は俺についてこないかもしれない。もう二度と俺に会いに来ることはないかもしれない。それでいい。俺になんか、構わない方が――
「松井さんっ!!」
必死な声が聞こえて、思わず振り返る。そこにいたのはぜいぜいと息を切らす陽菜。そんなに長い距離ではないと思うが、それだけ全速力で走ってきたという証拠か。
「すいませんでしたっ! 私、最初から軽々しく――」
「言わなかった俺が悪い。気にするな」
「でもっ、私っ……!」
陽菜はうっすらと涙を浮かべそうになり、俺に頭を下げていた。ここまで謝られる理由はない。むしろ泣かせてしまった俺の方が謝りたいくらいだ。
涙を浮かべたまま、陽菜は動こうとしない。取り返しのつかないことをしてしまったと思っているのだろう。こんなとき……二年前の俺だったら、どうするか。
「帰ろう、陽菜」
「えっ?」
「ここじゃ目立つ。一緒に帰ろう」
「い、いいんですか……?」
俺がそっと右手を差し出すと、陽菜は顔を上げた。目は少し腫れており、表情には苦しさが残る。自分で泣かせておいて自分で助けるのってマッチポンプだよな、なんて思いつつ――声をかけてやる。
「帰ろうって言ってくれて、嬉しかったんだ。断る理由はないよ」
「は、はい……!」
また笑顔を取り戻して、陽菜は俺の右手を取った。手は繋ぐのに、名前呼びはダメ……なんて変にもほどがあるけど、こういうこともあるだろう。
「あのっ、じゃあ明日もお迎えに行きますから! 待っててくださいねっ!」
「なんだお前、元気じゃないか」
「あーっ、また『お前』って言いましたねー!」
「あっ、悪い悪い」
「もー……」
そう言いつつも、陽菜は俺の手をぎゅうと握りしめてきた。こうして、毎日のように陽菜と共に過ごす日々が始まったのである。




