7.軌道修正
気がつくとオフィーリアは、屋敷の応接室でレオリックとお茶を飲んでいた。
レオリックに蕩けるような笑顔で見つめられて、いつものように恥ずかしくて少し視線を逸らしてしまっているところだ。
『今度場面が変わったら、必ず婚約破棄を申し出る!』と強く決心したばかりなのに、レオリックの顔を見た瞬間に決意は揺らいだ。
オフィーリアは、自分の登場シーンの記憶しか持っていない訳ではない。
台本のない時間の中でレオリックと過ごした日々は、オフィーリアの記憶としてしっかりと残っている。
いつでもレオリックはオフィーリアに優しかった。
贈られる花や宝飾品は全て、オフィーリアが一番好きな青色と金色――レオリックの色で、彼が自分に向けてくれる気持ちを感じられた。
元々オフィーリアはレオリックを愛していたのだ。
そんな風に彼に好意を返されたら、ますます深く彼を愛してしまうに決まっている。
「婚約を破棄してください」なんて言えるはずがない。
現実世界の私が、物語のオフィーリアに重なりかけていた。
そこにピロン♪と柔らかな電子音が鳴って、目の前に台本が現れた。
“オフィーリアは、目の前に座るレオリックに、妖艶に微笑んだ。
「いよいよ明日は卒業パーティーね。あのドレスを着るのが今から楽しみだわ」
オフィーリアに応えるように、レオリックがフッと暗く笑う。
その笑いが意味するものを、オフィーリアが気付けるはずもなく、機嫌良く言葉を続けていた。
「卒業パーティーが終わったら、今度は結婚式の準備ね。早く一緒に暮らしたいわ。
結婚も近いんだし、明日にでもウェルシュ家に入れるように、お父様とお母様にお願いしようかしら。……ふふ」
オフィーリアの機嫌はとても良かった。
レオリックとの仲を、散々邪魔してきたアイリスはもういない。
『どうしてもっと早くに片付けておかなかったのかしら』と思うと笑みが浮かんだ。
楽しそうに笑うオフィーリアを、レオリックは表情のない顔で眺めていた”
オフィーリアが目の前の台本を読み終えると同時に、レオリックが嬉しそうに笑った。
「いよいよ明日は卒業パーティーだね。あのドレスを着たフィーを見るのが楽しみだよ」
『台本と違う!』
――オフィーリアに戦慄が走る。
セリフは同じだが、それはオフィーリアのセリフだ。
ドクンと心臓が鳴って、オフィーリアは顔を暗くする。
そんなオフィーリアに気付く事はなく、レオリックは機嫌良く言葉を続けた。
「卒業パーティーが終わったら、今度は結婚式の準備だね。早く一緒に暮らしたいよ。
結婚も近いんだし、明日にでもフィーがウェルシュ家に入れるように、お義父様とお義母様にお願いしようかな」
ふふと機嫌良く笑うレオリックを見て、オフィーリアに恐怖に近い焦りが込み上げる。
台本通りのオフィーリアのセリフは、やっぱりそのままレオリックに代わっている。
早く。早く言わなきゃ。
早く言わないと取り返しのつかない事になる。
せめてストーリー通りに婚約破棄をして、何とか軌道修正しなくては、私は現実世界に戻れなくなってしまう。
「レオ様を愛してるの!」
「婚約破棄なんてしたくない!」
――オフィーリアの心が叫ぶ。
………分かってる。
オフィーリアの気持ちは痛いほど分かる。
だって私ももうレオリックに惹かれているのだから。
だけど私はしょせん悪役令嬢オフィーリアの代役だ。
私の現実世界は、この小説の世界の中にはない。
だからどれだけ叫ばれても、何もしないまま流されるわけにはいかないのだ。
まだ間に合うよね?
まだ物語は終わってないよね?
オフィーリアはバクバクバクとうるさくなった心臓を押さえて、一息に言葉を吐き出した。
「レオ様!私との婚約を破棄してください!……レオ様と私が結ばれる未来なんて間違ってます!レオ様が選ぶべき相手はアイリスさんです!
私は明日の卒業パーティーを限りに身を引きます……!」
シンと部屋が静まり返った。
オフィーリアはぎゅっと目をつむる。
言えた。
これでいい。これで間違いは正される。
婚約が破棄され、こんなに素敵なレオリックを足蹴にした者として断罪されれば、ストーリーの帳尻を合わせる事も出来るはずだ。
今まで色んな間違いを犯してきたが、何だかんだで失敗を流してくれたこの小説なら、きっと上手く作ったこの流れを拾ってくれるだろう。
―――そうであると信じたい。
ホッとすると同時に、『これでお別れだ』と思うと涙がブワッと込み上げた。
だけどここで泣いてはいけない。
私は悪役令嬢だ。高慢で自己中心的なオフィーリアなのだ。
役になり切って、自分のように振る舞ってきたオフィーリアを最後まで演じ切らなくてはいけない。
オフィーリアはぐっと唇を噛んで涙をこらえた。
『私の現実はここじゃないわ』と、自分に言い聞かせる。
役を終えて現実世界に戻って、初給料を受け取るのよ。
そのお金でとりあえず家賃を振り込もう。
都会での、自由な一人暮らし生活を続けるのよ。
――現実を生きるのだ。
「……どうしてそんな事を言うんだろう?」
静かに問うレオリックに、オフィーリアは涙をこらえて気丈に答えてみせる。
「だって私はレオ様の運命の人じゃないですから」
声が少し震えてしまった。
「……どうしてフィーは、ミミリー嬢が僕の運命の相手だって思うんだろう?彼女はただの生徒会のメンバーだって言ってるのに?」
オフィーリアは口を強く結んで首を振り、レオリックの言葉に否定の意思を見せた。
今度口を開いたら、きっともっと声が震えてしまう。
涙もこぼれてしまうだろう。
ストーリーが大きくズレてしまっているだけで、本来のレオリックの運命の相手はアイリスなのだ。
――オフィーリアじゃない。
多少無理矢理感があっても、本来の筋に戻すべきだった。
「……ふうん。………どうして僕は、フィーとの仲を散々邪魔してきたあの女を、もっと早くに片付けておかなかったんだろう」
聞こえてきた信じられない言葉に、思わずオフィーリアは顔を上げた。
レオリックの呟きは、今まで聞いた事もないくらい暗く低い声だった。
レオリックが笑っていた。
暗い瞳で笑うレオリックを、オフィーリアは血の気が引いた顔で眺めていた。
周りの景色がフェードアウトし出した。
オフィーリアにしか見えない台本も揺らいでいる。
――揺らぐ台本の配役は、すでに完全に変わっていた。