6.誤差②
ピロン♪と柔らかな電子音が鳴る。
音と共に、目の前に私しか見えない台本が現れた。
“庭園にいたオフィーリアは、「レオ様!」とレオリックに駆け寄るアイリスを見て、瞳に憎悪の炎を宿らせた。
長い爪が食い込むほどに手を強く握りしめ、手のひらに血が滲んだ事にも気がつかないようだった。
『レオ様、ですって?私だって「レオリック様」としか呼ぶ事を許されていないというのに……!』
「レオ」という呼び名は、レオリックの亡くなった母親――ウォルシュ侯爵夫人だけが呼んでいた愛称だそうだ。ウォルシュ侯爵夫人の死後、彼は誰にもその愛称を呼ばせないと聞いた事がある。
オフィーリアはもうこれ以上黙って二人を見ている事は出来なかった。
アイリスに笑顔を向けるレオリックに、『そんな笑顔、私には一度たって向けてくれた事ないじゃない!』と激しい感情に揺さぶられていた。
オフィーリアはレオリックに駆け寄って、彼の袖を掴んで叫ぶ。
「レオリック様!どうして?!どうして私に「レオ様」と呼ばせてくれないの?!レオリック様は私の婚約者でしょう……?!」
「そう呼びたいなら、そう呼べばいい」
詰め寄るオフィーリアに、レオリックは侮蔑を含んだ声で冷たく言い放った”
オフィーリアは台本に書かれた文字を、一言一句見落とさないように読み込んだ。
『今度こそ』と、握る手に力を込める。
爪が手のひらに食い込んでいたが、痛みさえ感じなかった。
しばらく待つとアイリスの姿が見えて、『始まったわね』と、オフィーリアの動くタイミングを図った。
「レオリック様!」
レオリックに声をかけるアイリスが、愛称の「レオ様」と呼んでいない。
――台本に誤差が出ている。
オフィーリアは居ても立っても居られなくて、アイリスに顔を向けたレオリックに駆け寄って、彼の袖を強く掴んだ。
「レオリック様!どうして?!どうして私に「レオ様」と呼ばせてくれないの?!レオリック様は私の婚約者でしょう……?!」
この場では辻褄が合わないセリフだと分かっている。だけどもうこれ以上物語の流れを変えたくはなかった。
ストーリーの誤差に恐怖を感じて震えが止まらない。
不安な気持ちが大きく膨らみ、涙も止まらなかった。
取り乱したオフィーリアを見て、レオリックが目を見開き、アイリスに冷たく言い放った。
「ミミリー嬢。生徒会室以外で僕に話しかけないでくれって言ってるだろう?オフィーリアを不安にさせたくないんだ。
あの案件の話なら後だ。多少の変更があったくらいでいちいち知らせなくていい」
「ごめんなさい……」
――レオリックの声が冷たかった。
確か以前は「アイリス嬢」と呼んでいたはずなのに、今は「ミミリー嬢」と呼び名が家名に変わっていた。
レオリックとアイリスに明らかな距離が感じられた。
俯いていたオフィーリアは、アイリスの足早に去っていく足音を聞いて、あまりの展開の違いにまた涙が溢れてきた。
「オフィーリア、泣かないでくれ。僕が愛してるのはオフィーリアだけだよ。
これからレオって呼んでくれるのか?……嬉しいな。それは僕にとって、特別な呼び方なんだ。僕もこれからオフィーリアをフィーって呼んでいいかな?」
ガラス細工を扱うかのように、優しく抱きしめてくれるレオリックにドキンと心臓が跳ねたが、この状況は明らかに間違っている。
「…!!フィー!怪我をしてるじゃないか!」
食い込んだ爪から血が出ていたようで、掴んでいたレオリックの袖を汚してしまったようだ。
高そうな服に血を付けてしまった。
そんな上質そうな生地の服は、現実の私にはとてもじゃないけど弁償できないくらいの物だろう。
「ううっ……ごめんなさい……」と泣きながらつい謝ってしまい、『服くらいで謝るなんて、お金持ちの悪役令嬢らしくなかったわ!』とまた自分の失態に涙が出る。
「フィー……不安にさせてごめん」と、レオリックの腕の中で彼の声を聞きながら、オフィーリアは周りの景色がフェードアウトしていくのを感じていた。
また場面が変わった。
ピロン♪と柔らかな電子音が鳴って、目の前に現れた台本を読んだ時、オフィーリアは自分が窮地に立たされている事を知った。
“暴漢に襲わせていたアイリスが、実はレオリックに助け出されている事も知らず、オフィーリアは近く開かれる卒業パーティーに浮かれていた。
「卒業パーティー後は、ついにレオリック様と結婚できるんだわ!」と、愚かにも頬を染めている。
――オフィーリアの破滅は近い。
これから迎える卒業パーティーの日が、オフィーリアの破滅の時だと予想だに出来ないようだった。
「うふふ。早速パーティーでは、レオリック様の色のドレスをまとわなきゃ。美しい私とレオリック様の、最高の舞台にして見せるわ」
王都一のデザイナーを呼びつけて、ドレスの仕立てに念を入れていた”
確かにオフィーリアは今、念入りにドレスを仕立てられているところだった。王都一のデザイナーが、オフィーリアの屋敷を訪れている。
だけど台本と、今いる現実に明らかな誤差が出ていた。
「レオリック様より最高のドレスを用意するよう依頼を受けておりますのよ。ふふ。オーダーされた生地は、レオリック様の色ではないですか。美しい青地に金の刺繍が入ったものですのよ。オフィーリア様はとても愛されてますね」
デザイナーの楽しそうな声が、どこか遠くで聞こえている感じがした。
オフィーリアは台本が語る記憶を必死にたぐって――そして呆然としていた。
『……私はアイリスさんを暴漢に襲わせていないわ……』
――アイリスを暴漢に襲わせた記憶はどこにもなく、デザイナーもオフィーリアが呼びつけたのではなく、レオリックが手配してくれたものだった。
目の前の台本をもう一度読み直す。
何度読み直しても誤差は変わらない。
破滅の時は確かに近づいていた。
だがそれはこの物語のオフィーリアではなく、現実の私に向けた言葉だった。
『帰れないかも』という思いが現実味を帯びてきた。
得体の知れない何かに包まれていくような気分になる。
オフィーリアはただ台本通りに、頬を染めて浮かれている様子を演じるしかなかった。
――姿だけでも、どうにか原作に似せたかった。
これ以上流される訳にはいかない。
『落ち着いてオフィーリア。冷静に考えるのよ』と自分を叱咤する。
落ち込んでいる時間などない。
だってもう卒業パーティーは目の前に迫っている。
悪役令嬢としての役割は、そこでバッドエンドとしてクライマックスを迎えるはずなのだ。
「破滅の時」とは、きっと「婚約破棄と断罪」を受ける時だ。
だったらせめてシナリオ通りに、「婚約破棄と断罪」は受けなくてはならない。
レオリックが婚約破棄してくれそうにないなら、オフィーリアから申し出て婚約破棄すればいい。
バットエンドの形が多少変わっても、帳尻を合わせれば何とかなるかもしれない。
「とてもお似合いですわ!」「お綺麗です」と侍女達からの絶賛を受けながら、景色がまたフェードアウトしていく。
『次のシーンで婚約破棄を決めて見せるわ』と、不安に震えながらオフィーリアは婚約破棄を心に決めた。