5.誤差
気がつくと、オフィーリアは誰もいない教室にいた。
教室で一人、アイリスの机の前に立っている。
机の上にはノートが置いてあり、「アイリス・ミミリー」と可愛らしい文字で名前が書かれていた。
書かれたアイリスの名前を見ながら、『なんて幼稚な文字を書く女なのかしら。文字が品格を表すと言うけど、その通りね。ギリギリ貴族の男爵家らしい字だわ」と、悪役令嬢らしい思いが自然と湧き出てオフィーリアは嬉しくなった。
『今回こそ成功ね』と口元が緩む。
そこにまたピロン♪と柔らかな電子音が鳴り、目の前に台本が現れた。
“誰もいない教室に忍び込んだオフィーリアは、アイリスの机の上にノートを見つけた。
ノートには幼さを残す文字で「アイリス・ミミリー」と名前が書かれている。
『なんて幼稚な文字を書く女なのかしら。文字が品格を表すと言うけど、その通りね』と、オフィーリアは侮蔑の色を滲ませて醜悪に笑った。
オフィーリアはノートを掴むと、迷いなくビリビリに破って、机の上にばら撒いてやる。
これでアイリスは、課題をクリアする事は出来ないだろう。
今日オフィーリアは、すでに学園を早退している事になっている。誰もオフィーリアが犯人だと気づけるわけがない。
「いい気味よ」と小さく呟いて、オフィーリアは教室を足早に立ち去った”
『楽勝ね』と、オフィーリアはすでに自分の成功を確信してニヤリと笑う。
どうやら今回は、誰もいない場所で、目の前のアイリスのノートをビリビリに破ってやればいいだけらしい。
早速ノートを手に取って、何気にパラパラと中を見てみると、ノートには文字がビッシリと書き込まれていた。子供っぽい幼稚な文字だが、とても丁寧にまとめられていて分かりやすい。
『これを書き上げるのに、アイリスさんはどれだけ頑張ったのかしら……』と、オフィーリアの良心がチクリと痛んだ。
課題の提出期限は今日だ。
アイリスは特待生でもあるので、成績を落とせば授業費を払う事になり、ミミリー家の家計に響くかもしれない。
なんせ彼女は、学費程度もまともに払えないくらいの、ギリギリ貴族に乗っかっているだけの、貧しくチンケな男爵家なのだから。
オフィーリアは、文字が書き込まれたノートをビリビリに破く勇気が出なかった。
躊躇しながら『そうだ!』と思いつき、オフィーリアは自分のカバンをゴソゴソと探り、ほぼまっさらなノートを取り出した。
オフィーリアは勉強が嫌いな方だった。
大した事を書いていないノートなど、破ったところで痛くも痒くもない。
――現実の世界の私だって勉強が嫌いだが。
『細かく破ってしまえば、誰のノートかなんて分からないわよね』と、オフィーリアは一心不乱に細かくノートを破って見せた。それはシュレッダーにかけたような細かさだ。
アイリスの机の上に、こんもりと山になったビリビリのノートを見て、オフィーリアは達成感に満たされた。
「指が痛いわ……」と小さく呟いて、オフィーリアは教室を足早に立ち去った。
教室を出た瞬間、周りの景色がフェードアウトしていく。
『今回は上手くやったわ』と、オフィーリアはガッツポーズを決めて、スッキリとした気持ちで次のシーンを待った。
気がつくとオフィーリアは庭園の片隅に立っていた。
少し離れたところにいるレオリックを見つめているところだった。
『また次のシーンが始まったわね』と思った時、「ノートビリビリ事件」のその後の騒動が、記憶としてオフィーリアの頭の中に流れ込んだ。
あの日誰にも見つからずに教室を出たオフィーリアは、結局誰にも見つかる事なく学園も出ていた。
翌日意気揚々と学園に向かったオフィーリアは、「ノートビリビリ事件」が大きな騒ぎになっている事を知った。
アイリスの机の上にビリビリに破かれたノートが置かれていたが、破かれたノートは「自分の物ではない」とアイリスが証明したようだ。
――『本当にあの女は余計な事をする女だ』と、オフィーリアは舌打ちをしたい気分に駆られた。
「こんなに細かく破るなんて、このノートの持ち主によほどの怨恨を持った者の仕業に違いない。一体誰の物だ」と騒然となったようで、生徒会で調査されたようだ。
細かく破られたノートの破片から、オフィーリアの家――エディス侯爵家の家紋をレオリックが目ざとく見つけたらしい。
「必ず犯人を見つけて、社会的制裁を与えてやるから安心して。目ぼしい者が何人かいるんだ。疑わしい者はこの際処分しておくよ」
心配そうにオフィーリアに声をかけながらも、暗く目を光らせたレオリックに、オフィーリアは震えた。
『疑わしい者って誰よ?!犯人は私なのよ!』と心の中で叫ぶ。
冤罪で誰かが処分されるなんて耐えられない。
それに処分される者によっては、物語の筋が大きく変わってしまうかもしれない。
「私なの……。アイリスさんがレオリック様に近づきすぎるから、アイリスさんを脅すために私が自分で破ったの……!だから誰の事も処分したりしないで。犯人なんていないのよ」
震える声でレオリックに必死に訴えると、「君はどこまで優しいんだ……」とレオリックに抱きしめられた。
心臓が跳ねてドキドキして、『ドキドキしてる場合じゃない!』とハッと気がついた。
「お願い!誰の事も処分しないで!誰の運命も変えないで……!」
「オフィーリア、僕が犯人を制裁してやりたいだけだ。オフィーリアのせいじゃない。だから泣かないで」
抱きしめられている手に力が込められた。
こんな時でもドキッとしてしまう自分と、通じない思いに、オフィーリアは涙が止まらなかった。
「ノートビリビリ事件のその後」の記憶が流れ込んだオフィーリアは、「なんて事……!!」と恐怖に震えた。
いくらこの物語のあらすじを知らないからといっても、この流れは明らかに間違っていると確信が持てる。
物語の筋を変えたら、オフィーリアはこの世界の登場人物に認定されて、元の世界に戻れない。
元の世界の私の部屋の家賃だって払えない。
物語が変わり始めている気がした。
『もう誰にも情けなんて見せないわ。これ以上失敗したりしない。これ以上失敗したら終わりだわ……!」
震える手をぎゅっと握りしめて、オフィーリアは台本が現れるのを待った。