4.悪役令嬢vsヒロイン
ピロン♪と柔らかな電子音が鳴る。
音と共に、目の前に私しか見えない台本が現れた。
“オフィーリアは、食堂に入ってきたアイリスに気がついて、食事の手を止めた。
今日は雨なので、食堂でお弁当を食べるつもりなんだろう。
『外で食べておけばいいものを。席だけ使おうとするなんて図々しい』と、オフィーリアはグラスを持つ手に力を込めた。
相変わらずアイリスはレオリックの周りをウロつく忌々しい女だった。
『言ってダメなら分からせてやるしかないわね』と、オフィーリアはニヤリと笑う。
アイリスがオフィーリアの横を通り過ぎようとした時に、手に持つグラスのジュースを、アイリスの顔にめがけてバシャッとかけてやった。
「……あら、ごめんなさいアイリスさん。手が滑ってしまいましたの」
ポタポタと顔からジュースの雫を落として俯くアイリスに、白々しい言葉で口元を歪ませて笑うオフィーリアは、とても醜悪だった”
『ジュースね!分かったわ。この目の前のジュースをかけてやったらいいのね!』と、気がついたら学食でサンドイッチを手に持っていたオフィーリアは、ジュースに視線を移す。
目の前のトレーには、サンドイッチの皿と二つのグラスが置いてある。一つは水で、もう一つのグラスにはぶどうジュースが入っていた。
まだアイリスは遠い。
途中で友達に声をかけられておしゃべりを始めていた。
『こんな所で立ち話をするなんて、本当に育ちが分かるわね。それがギリギリ貴族の男爵家のマナーなのかしら』と考える。
「――あ」
また自然に悪役令嬢らしい事を考えている事に気がついた。どうやらストーリーは順調に進んでいるようだ。
オフィーリアは嬉しくなって、ニヤリと悪役令嬢らしく笑ってみせる。
「………」
しばらく待ったが、まだアイリスはオフィーリアの横を通り過ぎない。
アイリスの立ち話が長い。まだ話している。
ぐうとオフィーリアのお腹が鳴った。
手に持っていたサンドイッチにパクリと齧り付くと、現実の私が食べた事がないくらい、感動的な味だった。
パンに挟まれたチキンが絶品だ。
皮はパリッと香ばしく、肉はとてもジューシーだ。
チーズがトロリと口の中でとろけている。
サンドされた野菜はシャキシャキで新鮮だし、甘みさえ感じられる極上のものだ。
甘辛いソースがまたいい。具材が最高のコラボレーションを見せていた。
『美味しい。幸せ……』と、一心に手に持つサンドイッチにかぶりつき、ジュースもゴクリと一口飲んでみる。
「何これ……!!!」
息を飲むくらいの、衝撃的な美味しさだった。
まるでぶどうを丸ごとそのまま食べているようだ。一口飲んだだけなのに、ぶどうの深い味わいが口の中に余韻を残している。
ごくごくごくごく。
夢中でジュースを飲みほして、空になったグラスの中でズッとストローが鳴った時に、ハッと気がつく。
アイリスにかけるジュースがなくなった。
それにいつの間にかアイリスは、オフィーリアの横を通り過ぎて遠くの席についている。
『やってしまった。これはもうアウトかもしれない。私はなんて事を……!!』
激しい動揺に襲われて、オフィーリアの手が震えだす。
『落ち着いて。落ち着くのよ、オフィーリア。まだ大丈夫。アイリスだってまだ食堂にいるわ。もう一度ジュースをお代わりして、アイリスの座る席まで行って、かけてきたらいいだけよ』
『まだ大丈夫。まだ間に合う。水を飲んで落ち着くのよ』と自分に言い聞かせて、水の入ったグラスに手を伸ばしたら、手が震えてバシャッと水を勢いよくこぼしてしまった。
何故か顔に水がかかり、ポタポタと雫を落としている。
「オフィーリア!大丈夫か?!」
近くにいたのか、レオリックが駆け寄って来て、ハンカチで顔を優しく拭いてくれた。
「あ……ごめんなさいレオリック様。手が滑ってしまって……」
至近距離で見るレオリックに、恥ずかしくてオフィーリアは俯く。顔がほてって熱かった。
そんなオフィーリアを「謝る事なんてないさ」とレオリックは笑ってくれた。
―――『何かが違う』と、目の前のシーンにオフィーリアは違和感を感じた。
俯くのはオフィーリアではなく、アイリスだったはずだ。
俯くアイリスを見て、笑うのはオフィーリアだったのに、俯くオフィーリアを見て、レオリックが笑っていた。
オフィーリアは不安な気持ちを抱えながらも、周りの景色は今回もフェードアウトしていく。
『私ちゃんと演技出来てるよね……?』
消えていくレオリックを見ながら、不安が募っていった。
オフィーリアは、実は今演じているこの小説のあらすじを知らない。
悪役令嬢のオフィーリアがどんなバッドエンドを迎えるのか、オネエな社長に尋ねた事はあった。
「結末を教えてあげてもいいけど……聞いたら怖くなるんじゃない?本当の登場人物が、役を逃げ出すほどのバッドエンドなんてろくなもんじゃないわよ。
知らないからこそ、自然な演技でそこに向かっていけるんじゃないかしら。
――それでも聞きたいの?」
そんな事を言われたら、聞けるはずがなかった。
たとえ恐怖のバッドエンドの先に、元の世界の現実が待っていてくれると分かっていても、もし悲惨すぎる結末だったら、レオリックを見ただけで足がすくんでしまうかもしれない。
『レオリックを怖がるオフィーリア』よりは、『結末を知らずにレオリックに惹かれるオフィーリア』のままの方が原作に近いだろう。
『大丈夫。大丈夫よ、オフィーリア。あなたは上手くやってるわ。
与えられた役のオフィーリアはもう、もう一人の私よ。「自分らしく振る舞えば、それが正解だ」って、中学の友達のあの子も言ってたでしょう?
今までの振る舞いは、私らしいもの。だから大丈夫』
大丈夫、大丈夫と、呪文のようにオフィーリアは自分に言い聞かせた。