1.プロローグ
ピロン♪と柔らかな電子音が鳴る。
音と共に、目の前に私しか見えない台本が現れた。
“ オフィーリアは婚約者となったレオリックに、妖艶に笑いかけた。
「ふふ。私、レオリック様の事をずっと愛していたのよ。ねえ、私の気持ちに気づいていたんでしょう?」
顔を合わせたのは初めてだったが、『美人だが、高慢で自己中心的な女』だという悪女オフィーリアの噂は、レオリックも聞いていた。
「……エディス家の、我がウォルシュ家の援助に感謝しています。――婚約者となったあなたに愛を返せるよう、私も努力しましょう」
『やっぱり噂どおりの女のようだな』と思いながら答えたレオリックの声は、冷たく温度のないものだった”
私はゴクリと唾を飲む。
―――いよいよ始まった。ここからが本番だ。
人生初分野の仕事を必ずや成功させて、実家暮らしの姉を超える生活レベルを手に入れるのだ。
『このネット小説の悪役令嬢、オフィーリアを必ず演じ切ってみせる』
強い決意を持って、私は口を開いた。
一人暮らしの楽しかった学生時代が終わった後。
そこに待っているのは、経済的な自立生活だ。
四月からは自らお金を稼ぎ、家賃も光熱費も食費も払っていかねばならない。
だというのに……
内定が決まっていた企業から、『経営悪化のために内定取り消し』の通知を、こんな時期に受け取ってしまった。絶望しかない。
私に残された選択肢は二つ。
このままこの都会に残って、バイトでもいいからひとまず生活費を稼ぐか。
田舎に帰って、実家暮らしをしながら仕事を探すか。
都会に残れば、バイトにバイトを重ねて、身を削って生活費を稼ぐ日々を送る事になるかもしれない。
田舎に帰れば、家賃不要の自分の部屋もあるし、食費不要の美味しいご飯も食べられる。
ただ母親に何かと口やかましく言われるだけだ。
――いや。
口やかましく言われる「だけ」?
「早くしない」
「お手伝いしなさい」
「ちゃんとした格好しなさい」
一人暮らしを始める前の、そんな事を言われる日々に戻れるだろうか。
――耐えられない。
仕事は多少大変でもいい。
必死になって働いてでも、気楽な一人暮らしを続けたい。お肉が食べれなくてもいい。自由な生活を手に入れたい。
その一心で見つけたバイト先だった。
正直どうやってその店を見つけたのか覚えていない。
必死に『稼げるバイト』『住み込みバイト』『出張可能』と、思いつく限りのワードで検索して見つけた、好条件の会社だった。
・高収入
・未経験者歓迎
・交通費支給
・正社員登用あり ……等々。
破格すぎる条件で飛びついた会社の名前は『なりきり屋』
なんか演劇関係の仕事らしい。
演劇は未経験だが、『未経験者歓迎』だって書いてあるし、友達の言葉を思い出せば、演技なんて簡単なはず。
――そう。
私にはずっと昔の中学生の頃に、演劇部に所属する友達がいた。
「演技なんて思っちゃだめ。与えられた役はもう、『もう一人の自分』なの。
そう考えたら、演劇なんて簡単よ。だって自分らしく振る舞えば、それが正解なんだもの」
よく分からない理論だが、そういう事なんだろう。
与えられた役を『自分だ』と思い込んで、自分らしく振る舞うだけで正解のはず。
今は悩んでる暇はない。とにかく高収入を手に入れたい。
その一心で応募して、見事採用が認められた会社だった。
「あら。あなたいい悪女面してるわね。合格よ」
『なりきり屋』の面接日、緊張して扉を開けて言われた第一声がそれだった。
オネエな社長が、私に守秘義務書類にサインをさせてから、早速詳しい仕事内容を話してくれた。
なりきり屋は、ネット小説の足りない部分を補う仕事をしているらしい。
小説の中の登場人物は、全員が揃ってこそ成り立つ話なので、一人でも出演拒否者が出ると小説として世に出続ける事が出来ないようだ。
だけどバッドエンドを迎えるような役は、元々配置されていた登場人物達が、心底嫌がって途中で逃げ出してしまう事もあるらしい。
え?ネット小説ってそんな感じ?
絶対違うくない?
そう思う人は多いだろう。
だけどオネエの社長曰く、「どんな所にも闇と事情はあるものよ。夢あるように見える世界が、本当に夢があるとは限らないのよ。あなたももう学生じゃなくなるなら、そろそろ現実を学んでいきなさい」――という事らしい。
社会とは闇あるもの。
そんな訳で、なりきり屋の業務内容を素直に受け入れる事にした。
―――受け入れるしかない。
これからの生活がかかっているのだから。
そろそろ話を戻そう。
小説から逃げ出す人物は悪役が多いそうだ。特にバッドエンドの悪役令嬢。
まあそれもそうだろう。逃げ出したくなる気持ちはわかる。
バッドエンド役なんて、そう何度も演じたい者がいるはずがない。それが登場人物に与えられた義務だと分かっていても、だ。
国外追放程度ならまあ許せるとしても、毒殺されたり、ザクッと刺されたり、娼館に売られたり……なんて悪夢以外の何ものでもないだろう。
エンドを迎えてまた小説の最初に戻って、たとえまっさらな気持ちで演じ始めたとしても、何度かストーリーを繰り返すうちに、体に刻まれた恐怖はどこかに残るようだ。
悪役令嬢としてベテランになるほど、物語でバッドエンドを迎える前に逃げ出してしまうらしい。
そうなると穴埋めの人物が必要になる。
そしてその人員を補充するのが、なりきり屋というわけだった。
この仕事のルールは一つ。
小説に入って、正しい小説の流れに持っていけばいい。
与えられた役の正規のエンドを迎えれば、任務完了として高額報酬が待っている。
セリフは覚えなくても、大丈夫ということだ。
なりきり屋の者だけが見える台本が、シーンごとに目の前に現れるようで、それを読めばいいらしい。
多少言葉を間違えても、流れさえ変えなければ全く問題ないとの事で、わりと簡単そうな仕事だった。
ただ気をつけなければいけない事はある。
ストーリーの流れを大きく変えてしまうと、エンドを迎えてもこの世界に戻って来れないらしい。
もう違う物語になるほどの筋書きに入ると、代役という役割を超えて、その物語の登場人物と認定されてしまうようだ。
――正直少しビビった。
でも「出来るわよね?ん?……返事は?」と、オネエの社長が凄むので、「もちろん出来ます!」と答えてしまった。
私は「男付き合いが派手で、気が強い系美人」と言われる事が多いが、「それって見た目だけだし。年齢=彼氏なし歴だから」と、「どちらかって言うと気が弱い方だから」と言いたい。
「陽キャに見えるのに、陰キャじゃん」と言われる事が続くうちに、真の陰キャに近づいたのか、行動力はないし、人と会うより一人でいる方が気楽で好きなタイプになっていた。
母には「せっかく美人に産んであげたのに……」と言われてしまうような女なのだ。
しかし、私は生まれ変わるつもりだ。
美人でスタイルも良く、派手で自信過剰で、ヒロインをいじめぬく悪役令嬢になる。なってみせる。
悪女になって、悲惨なバッドエンドを迎えて、そして都会で一人暮らしを謳歌するのだ。
私は決して母親に口うるさく言われる毎日を送ったりしない。
そして私の悪女生活が幕を開けた。