10.五年目3
タクシーの中。
見慣れぬ都内の景色を眺めながら、僕は橘さんの釈明を聞く。
「あんまりたくさんのお客さんが来られると先生は嫌がるかと思いまして。告知は先ほど弊社のtwitterで行いました」
入念な準備と告知期間の元でサイン会を開催すれば読者が殺到してしまうと踏んだらしい。橘さんの目的はファンサービスではなくあくまでサイン会を行ったという実績を作ること。客の多寡は問題ではないようだ。
「それじゃ一人も来ないんじゃないか?」
「いえ! ほら、見てくださいよ。たった十分で四千ふぁぼ超えました。これだけ注目度が高ければ大慌てで来る人も結構いると思います」
「どうだかね……」
二千十一年。世間ではtwitterとかいう新たなweb魔窟が流行っているようだ。僕は薄目で二秒覗いただけで吐き気がした。ふぁぼとやらより「反吐が出るね!」ボタンでも導入してほしいところだ。
「一応会場の青山書店さんには三百人規模まで対応できる準備をしてもらってます。そこから先は非常に残念ですがお帰り頂く形になりますね」
「三百も来るはずないだろ。人類は”君”じゃないなりに必死に生きてるんだ。それほど暇じゃない」
「おっ、では賭けでもしますか? 私は舌をベットするので先生は第二巻と第三巻の同時発売を──」
「それじゃ勝っても気味が悪い……!」
異常者め。極めて一般的な感性を持つ僕としてはこんな怪物と密室にいるのは恐ろしくて仕方がない。せめて窓の向こうに視線を向けておこう。
「……!」
ちょうどタクシーが停まった。そして僕の視界には人だかりが映る。
「まさかここが会場?」
「ええ。……どうやらもう締め切りとツイートしておいた方が良さそうですね」
──何だこれは。ここにある人型の肉塊全部が僕の読者だというのか。ぱっと見ではとても把握し切れない数のそれがウヨウヨしていて、まるでエグみとスパイシーさが売りの地獄の鍋のようだ。
おかしいな。僕はポエム集が何部世に出回っているかを知っていたはずだ。そもそもmixiの時点で相当なアクセスがあったのを確認している。それなのに、目に飛び込む光景は信じ難い。どうやら僕は初めて実感したらしい。
僕のポエムは大勢の人たちに読まれている。
橘さんは言った。このサイン会は読者の前に僕が姿を現すためのイベントだと。僕からすれば逆だ。得体の知れない、僕と”君”とは本来無関係の人々が、突如として群れを成して現れた。
「先生、今やこれだけの人が”君”さんの素晴らしさを心に焼き付けているんですよ」
……そういうことになる。僕はそのためにポエム集を出版した。橘さんの力を借りて目標は実現した。まさに狙い通りの結果と言っていい。
では、胸の奥に広がるこのざわめきは何だ……?
「……先生?」
橘さんは不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「いや、何でもない」
正体が分からないまま曖昧に返事をし、橘さんに続いて車から出る。
顔は割れていないためすんなりと入店できた。そのまま奥に連れていかれ、スタッフの男性から挨拶を受ける。彼がモゴモゴと音を発していたのは自己紹介をしていたからだったと気づいたのは、控室に連れられて五分経った後のことだった。
そして僕が彼の話を聞かないことは橘さんの予想の範疇だったらしく、彼女が諸々の手続きを聴取し、要約して僕に伝えてくれた。乱暴に言うと、黙って名前書いてりゃいいとのことだ。
「お客さんにはですね、『先生は”君”さん以外の全概念を唾棄しているので意思の疎通は不可能です』とご案内してあります。何を言われようとシカトして頂いた方がいっそ納得感があるでしょう」
まるっきり珍獣扱いである。まあ気楽で助かるのだが。
「あ、当然撮影は禁止にしてありますので。シャッター音が一つでも聞こえたら私がお腹にダイナマイト巻いて飛び込みます」
「もう巻いてあるとか言わないよな?」
「そんなはずないじゃないですか! 人を何だと思ってるんです!」
僕は「やりかねないだろ」という言葉を飲み込んだ。グリーン出版も青山書店も僕に同意してくれるだろう。プンスカ怒る権利など彼女にはない。
「……で、撮影禁止にしといてなんですが、スタッフさんにお客さんたちの様子を写真に収めてもらいました。見てくださいよ!」
橘さんはスマートフォンとやらの画面に触れ、僕の眼前に画像を晒す。蠢く餓鬼たちが小脇にポエム集を抱え、今か今かと開始を待っているようだ。
「……先生モテモテですね。F1層ばっかりです」
確かに雌が多い雰囲気は感じた。餓鬼には詳しくないので定かではないがな。
「”君”以外の女性なんてひじきが生えた大根に見える」
僕は当然のように切り捨てる。
──似たような言葉は橘さんの前で何度も発してきた。その度彼女は「流石です」と一途な僕を称えた。
しかし、今回は様子が違った。彼女は不思議な間を空けた後、出し抜けに問う。
「私もですか?」
……さすがに面と向かって答えるのは憚られるな。
「ひじきは生えてない」
「……お気遣い感謝です」
彼女は苦笑いで小さくため息をつき、携帯をジャケットのポケットへと落とす。手持ち無沙汰になった僕は脳をポエムモードに切り替えると、彼女はそれを察したのかいつの間にか音も立てずに控え室から退出していた。
その三十分後にサイン会が始まった。何も覚えていないので語ることはない。




