1-33 ストラの過去
『なんだこれ! なんだこれ!』
雪が降り積もる森の中で一匹の虎が興奮気味に飛び跳ねていた。その虎は大型犬ほどの大きさだったが、まだ生まれて半年も経っておらず、初めて見る生き物に好奇心をくすぐられていたのだった。
『なぁーなぁー! おいらはストラってんだ! あんたはなんていうんだ?』
「う……うぅ……」
ストラと名乗った子供の虎は地面に仰向けで倒れている生き物に問いかける。だがその生き物はうめき声を上げるばかりで返答はしなかった。
『なぁ~、どうしたんだよぉ? なんでおいらとおしゃべりしてくれないんだ?』
「やめろ……あっち行ってくれ……」
前足ではたき、気を引こうとするストラに対し、その生き物は構うのも面倒な様子だった。それでも好奇心が抑えきれないストラの背後から、もう一つの声が聞こえた。
『ストラ。何してるの?』
『あー! お母ちゃん! へんな生き物がいるんだ!』
雪が積もった木々を掻き分け現れたのは、人間を丸呑みできそうなくらい大きな虎だった。ストラの母親であるその虎は倒れている生き物を一瞥すると、周囲を確認しながらため息を吐いた
『ヒト……か。どうやら崖から落下して脚でも折ったみたいね』
母虎の視線の先にはヒトが崖から落下してきたであろう雪の跡があった。そしてそのヒトの脚は母虎の推測通り、落下の衝撃で折れており、激痛で立ち上がることもままならないのであった。
「畜生……やっぱり親がいたか……近づくんじゃ……ねえ……」
『なあ、お母ちゃん。「ヒト」ってなんだ?』
『「ヒト」というのは私たちとは別の種族の生き物なの』
母虎は無邪気に疑問を投げかけるストラとヒトの間に入り、匂いを嗅ぐためにヒトに自分の顔を近づけた。その途端、ヒトは激しく悶え始めた。
「俺を喰うつもりか……! やめろ……! やめてくれ!!」
『お母ちゃん。そいつたべるの?』
『……いえ、止めときましょう。そんな気分じゃないもの』
『ヒト! たべないって! よかったな!』
「頼む……食べないでくれ! 死にたくねぇ……死にたくねぇよぉ!」
『? たべないってば!』
母虎に捕食されると勘違いしたヒトは泣きながら命乞いをしている。それはストラが弁解しても続いていた。
『ストラ……、ヒトは私たちの言葉が通じないの。何故か一方的にね』
『へぇ~、へんなの!』
『今日はもう日が暮れるわ。さあ、帰りましょう』
『わかった! ヒトばいばーい』
ストラとその母はその場を後にし、自分たちの巣に向かって歩き出した。数歩歩いた後、ストラは後ろが気になり振り返ってみると、未だに倒れているヒトからすすり泣く声が聞こえた。再び前を向き直し、横で一緒に歩いている母親を見上げ、ストラは尋ねた。
『ねえ、お母ちゃん。あのままいたらヒトはどうなっちゃうの?』
『……死ぬでしょうね。この極寒をヒトが生き残れるとは思えないわ』
『死んじゃうの!?』
ストラは母とヒトを交互に見た。ヒトから聞こえる泣き声は段々と弱弱しくなっている。ストラはその声を聞き、感想を漏らしてしまった。
『なんだか可哀そうだよ……』
『……ストラはあのヒトを助けたいの?』
『たすける……?』
『あのヒトを生かしてあげたいのね』
『生かしたい……たぶんそうなんだと思う!』
母虎は立ち止まり、悩むように黙り込んだ。そしてしばらく経った後、再びヒトに接近した。
「なっ……何で戻ってきた! くそッ、やっぱり喰う気なのか……! 何で俺はこんな目に……ぐあっ!?」
ヒトの身体が宙に浮いた。母虎がヒトの首根っこを咥えるように持ち上げたのだ。パニックで暴れるヒトに構わず、彼女は自分の巣に持って帰ろうと歩き出した。その下でストラははしゃぎながら駆けまわっている。
『よかったなヒト! 生きれるぞ!』
「何なんだ……! 何なんだよぉおお!!!」
虎の親子とヒトは地面から盛り上がっているようにできたほら穴にたどり着いた。そのほら穴は虎たちの巣であった。母虎は咥えていたヒトを巣の中で降ろし、身体をヒトに押し付けるように座った。
「くっ……何だ……何がしたいんだ……」
『その冷えた身体を温めているの。このままだとあんた凍え死ぬわよ』
「わけ……分からねえ…………」
『んー? おいヒト―! 動かなくなっちゃぞ!』
『……寝てしまったようね』
ヒトはすーすーと寝息を立てていた。虎の体毛による温かみを一身に受けたヒトは急激な睡魔に襲われたのだった。日は完全に暮れており、吹雪いている音がほら穴の外から聞こえてくる。
『ストラ、あんたも寝なさい。明日はヒトのためにご飯を取って来なきゃいけないんだから』
『はーい! なあヒト! 起きたらヒトのこと教えてよな! おいらあんたのことが知りたいんだ!』
こうして明日を楽しみしながらストラは眠りについた。彼はたとえ言葉が通じなくてもヒトと分かり合えると無意識に信じていた。自分たちの善意が届くのだと。だが彼の願いは叶わなかった。
彼らが目を覚ました時、すでにその場にヒトの姿はなかった。
虎の親子の巣からヒトが去ってから一ヵ月が経とうとしていた。雪が溶けかけている大地をストラは駆け回っていた。ストラの身体は一回りも大きくなっていたが、中身は変わらず、好奇心のままに行動していた。それ故に警戒すべきものを見落としてしまった。
『あ! あの時のヒトだ!』
ストラは茂みの向こうにかつて一晩だけ自分たちの巣に泊めてあげたヒトを発見した。そのヒトの周囲にはさらに数人、別のヒトも立っていた。ストラは彼らが辺りを警戒しているような険しい表情をしていることに気付いていなかった。
『なあなあ! なんでどっか行っちまったんだよぉ!』
ストラは茂みを乗り越え、彼らの前に現れた。ただ知り合いと再会したという気持ちのままで。
「お、おい! いたぞ、多分こいつだ!」
『うん? どうしたんだ? 何を向けて……』
彼らは木の棒に紐を結んだものを向けてきた。ストラはそれを弓という獣を狩る道具だと知らなかった。ヒトは弓に矢をつがえて狙いを絞った。指を離すとその矢は真っすぐストラの頭に目掛けて飛んできた。
『ストラぁあ!!!!』
矢がストラの頭に到達する直前、別の茂みから飛び出したストラの母は彼を突き飛ばした。
『お母ちゃん!?』
「ちぃっ! 親が近くにいたか! やれ! 蜂の巣にしろ!」
『ストラ! 逃げるわよ!』
母虎はストラの首ねっこを咥え、ヒトとは反対方向へ走り出した。矢が何本も彼女の横をすり抜けた。やがて矢が飛んでこなくなると、母虎は身体から力が抜けるように倒れ込み、同時に口から放されたストラは地面を転がった。彼女の身体には矢が何本も刺さっていた。
『お、お母ちゃん! どうしてこんな……うわわっ!?』
ストラの足元の地面が溶けるように沈んでいった。やがてストラの全身は地面に沈み、鼻先が出るくらいの穴を残し、土に覆われた。それはストラを隠すための母虎による土の魔法だった。
『……これくらいしかできないの……ごめんね』
『お母ちゃん! 何してんだよ!』
『……いい? ストラ、私が戻ってくるまで、決してここから出てはいけません……声も出してはダメ……よ』
母虎の呼吸が不規則になり、声が細くなっていく。だが彼女の瞳からは、たとえ自分が二度と帰れなくなったとしても必ず息子を守るという覚悟が感じられた。その意思はまだ状況が掴めていないストラに伝わった。
『お母ちゃん……いやだよ……おいらまだ……』
『ストラ……色んな世界を見なさい……そして自分の目で判断するの。……きっといつか信頼できる誰かに出会えるわ……』
『誰かって……そんなのいらない! おいらはお母ちゃんがいてくれたらそれでいい!!』
『ストラ……私の可愛い子……貴方の幸せを心から願っているわ…………さようなら』
『お母ちゃん!! お母ぁあちゃぁああん!!!』
母虎は駆け出した。ストラの泣き叫ぶ声に一切振り向かずに。そして彼女は愛する息子を守るためにヒトの前に飛び出した。
土の中でストラは母親の忠告を守ろうと必死に泣いている声を押し殺していた。ヒトと獣の争う音が鳴り止んだ頃。ストラが潜んでいる近くからひどく興奮しているヒトの声が聞こえた。それは一ヵ月前、命の危機から助けたヒトの声だった。
「もう一匹はどこ行った……? あいつめ……この俺を喰おうとしやがって……なんとか奴らが寝てるうちに逃げ出せたからいいものの……絶対に許さねえ!」
(なんで……なんであのヒトは怒っているの……? 分からない……怖い……なんでお母ちゃんがあんな目に合わなくちゃいけないの……怖い……怖い……怖い怖い怖い!!)
ストラは何時間も土の中でヒトに見つかることを恐れながら震えていた。やがて周囲に生き物の気配が無くなり外に出てみると、その場にはすでに何人もいたヒトも、母親もいなかった。
ただ大きな血だまりが広がっていただけだった。
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