1-32 怯える猫の言葉に耳を傾けて
視界がぶれる。身体が浮く感覚。落ちてる? 下は川。深さは? 助かる? たとえ川に落ちても流される? そもそも川に落ちることができる? 僕はまた―――――
「がはッ!!?」
崖が崩れ落下する一瞬で思考が急加速した。しかしその思考が纏まる前に、僕は背中に強い衝撃を受け、浮遊感が消えた。
「げほっ! ごほっ! はぁー……はぁー……けほっ」
背中を強打し、肺の空気が一気に口から噴き出した。仰向けのまま呼吸を整え、落ちてきた崖を見上げると、落下したのは精々二メートル程だった。
「いッ……たぁ……」
痛む身体で起き上がる。背中と腕に何か違和感が生じ、コートを脱いでみるとその部分がズタズタに破れていた。おそらく落下する時に岩肌で削ってしまったのだろう。だが、それのお陰で落下のスピードが抑えられ、打ち身程度で済んだのは運が良かったと言える。ただお気に入りのコートが傷ついてしまったのがショックだ。
コートを着直し、冷静になって辺りを見回すと、今いる地点は崖下の岩壁からせり出た足場の上だった。だが自然にできたものと言われると違和感があった。岩壁からまるで無理やり押し出されたようにできたこの足場は、昨日見たテオドールの土魔法を想起させた。そして足場の延長上の岩壁には人ひとりが余裕で入れそうなほら穴が開けられていた。
「もしかしてこれを作ったのは……」
ほら穴の中は緩やかに下り坂になっており、その奥に明らかに生き物がいる気配を感じた。僕は意を決してその穴に入り、呼びかけた。
「……ストラ?」
『ひっ!?』
やはりほら穴の中にいたのは、探していたネコ族のストラだったようだ。光が届かない奥にいるため姿は良く見えないが、無事に発見できてほっとした。あとは彼をダンジョンに連れて帰ることができればなのだが……。
『なっ……なんでここにいるんだ!』
フィーニャから話を聞いていた通り、ヒトが怖いストラは僕を警戒している様子だった。ひとまず彼を落ち着かせようと会話を始めることにした。
「崖から落ちちゃってさ……君も落ちちゃったんだろ? 崖の上の木の枝が折れてるのを見たよ」
『うっ……』
「この穴や崖下の足場は君が魔法で作ったんだよね。そのお陰で助かったよ。ありがとう」
『…………』
「まだ自己紹介もしてなかったよね。僕はマシロ。君たちが住むダンジョンの管理者になったんだ。ヒト側の名目上だけどね」
『……皆から聞いてるよ。魔獣の言葉が分かる変なヒトが下僕になったって』
フィーニャだな、「下僕」なんて言ったのは。まあ別にいいけど。ストラはまだ若干僕のことを警戒している様子だったが、少しずつ張り詰めた空気が緩んでいくのが感じられた。
「ストラ……皆が心配してる。ダンジョンに戻ろう」
『…………分かった』
ストラは僕の話を素直に聞き入れてくれた。ヒトである僕の言うことなんて聞かずに拒否られると思っていたため、意外とすんなり話が進んで驚いた。だけどこれで一件落着だ。ほら穴の奥からストラが出てくる気配がした。段々とストラの姿が見えてきてようやく気付いた。「ネコ族」の範囲ってかなり広かったんだということを。
僕の目の前に現れたのは僕の身長を優に超す大きな虎だった。
「でっかぁッ!!?」
『ひぎゃぁ!?』
思わず声が出てしまった。ストラは僕の声に驚き、ほら穴の奥へと戻ってしまった。目を凝らして見てみると、ストラはオズヴァルフ程高くはなさそうだったが、横幅が広くがっちりとしていて、見た目以上の威圧感があった。大きな体格はほら穴をぎちぎちと詰めていて、彼の大きさを際立たせているようだった。
「す、ストラ、ごめん。大きな声を出して……」
『……こ、来ないで!』
ストラはほら穴の奥で震えていた。ヒトである僕が怖いだろうにさらに怖がらせてしまった……。外見は大きくても彼はドドドの次に幼い、と聞いている。ストラの場所は分かったし、無暗に刺激するよりは一度退いて、魔獣たちに任せた方がいいんじゃないだろうか。
「ストラ、僕は戻って皆を呼んでくるよ。近づかないから安心して」
僕は振り返ってほら穴を出ようとした。だが外の天気はすでに土砂降りになっていて、その雨の中で崖をよじ登るなんて不可能だった。
「……ごめん。戻れない……」
『…………』
気まずい空気が流れる。ストラは最悪な気分なんだろうなあ、嫌な存在と同じ空間に居なきゃいけないなんて……。
早く皆がいるあのダンジョンに帰してあげたいな。それにストラが無事なことをフィーニャに伝えて安心させたいのだが、雨が止むまでそれは難しそうだ。こんなに雨が降っているのだから、フィーニャもちゃんと雨宿りできていればいいんだけど……。
『……ねえ、何でお前はおいらたちに構うのさ』
ほら穴の奥で身体を縮こめているストラが恐る恐る訊いてきた。「構う」というのはダンジョンの管理者になったことか?
「それは……ほとんど成り行きというか、引けに引けなくなったというか……」
『何か裏があるんだろ! お前はおいらたちを陥れようとしているんだ!』
そ、そんなことを思っていたのか。ストラがずっと警戒しているのは、僕のことを信用していないからだったのだろう。昨日ぽっと出てきて自分の居場所にずかずかと入り込んできた人間を信用しろという方が無理がある。今回は魔獣側に対する信用問題だったという訳だ。
「……別に裏なんてないよ」
『嘘を吐くな! 本当は何か理由があって僕たちに近づいたんだろ!? だからお前は魔獣の言葉が分かるんだ!』
「い、いや……それは……」
『ヒトなんて信じられないよ!!』
ストラは吠えるように怒鳴った。その声はほら穴の中をしばらく響かせ、やがて静寂が訪れた。ただその空間にはストラの興奮する息遣いだけが聞こえるのだった。暗闇から覗くストラの目は僕に、いやヒトに対しての怯えが見て取れた。
「……フィーニャから聞いたよ。君はヒトが怖い、って」
『…………』
「理由を、訊いてもいい?」
ストラは呼吸を整え、悩むように黙った。そしてしばらくまた静寂が続いた後、ゆっくりと口を開き、ぽつりぽつりと語り始めた。
『…………ダンジョンの皆と出会う前、おいらが今よりもずっと小さい頃、森の中でお母ちゃんと一緒に暮らしていたんだ』
「…………」
『おいらは何も知らなかった。見る物全てが新鮮に感じた。だけどあの時、おいらがちゃんと分かっていれば……』
『おいらは怪我をして動けないヒトを見つけてしまったんだ』
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