1-16 幕はすでに下りていた
「仲良くしようよぉおおお!!!!」
目の前で白髪の若者がまるで駄々っ子のようにうつ伏せで叫んでいる。水の魔法を使った黒髪の少女に撫でられるとすんっ、と静かになった。
このようなみっともない姿を晒してでも儂とフーロウ、いやオズヴァルフとの戦いを止めようとしている。儂は十五年前の戦争からずっと、いつでもこの狼と戦ってもいいようにと鍛錬を続けてきた。
その根源にあるものは、戦争で圧倒的強さを見せた狼に対する恐怖からであった。
戦争が終わった後も狼に殺されかかる夢を見たり、物音に対し過敏になっていたりした。剣を手放した瞬間、襲われるのではないかと怖かった。騎士の務めもままならなくなった頃、儂は考え方を変えた。
儂は常に狼に狙われている、いつ、いかなる時に襲われても応戦する覚悟を持ったのだ。気が休まる日はなかったが、覚悟をすることで恐怖に打ち勝つことができた。しかし、鍛錬の果てで狼に対抗する技を編み出した時、いつしかその覚悟は狼との再戦を望む欲へと変貌していた。
儂の望みは今、眼前に鎮座している。先ほどのように斬りかかれば戦ってくれるだろう。だが奴は――
「お主は儂との戦いを望んでいるのか?」
恐怖の対象でしかなかったのに逆に追い求めてしまった相手に問いかけた。奴は儂を見据えると、すっと目を逸らした。それが答えかのように。
気が付くと崩れるように膝をついていた。脱力感と安堵、二つの感情が一気に押し寄せてきたのだ。そうか、そうだったのか……。
儂の戦争はとうの昔に終わっていたのか。
「……マシロ殿よ。手間をかけたな。儂の独りよがりに気付かせるために、わざとあのような態度を取ったのであろう?」
「いっ、いえ! こちらこそ失礼なこと言ってすみませんでした!」
白い若者は飛び起き、すぐさま地面に頭をこすりつけた。ここまで他者に尽くせる者がまだいるとはな。それに比べ、儂は自身のことしか考えていなかった。勝手に宿敵だと思い込んでいた相手と戦うことばかりで、周りが見えていなかった。なんと愚かな……!
「みゃあ」
自責の念に苛まれる儂の前に一匹の三毛猫が寄ってきた。この猫は確か黒髪の少女が抱えていた……そうか、儂らが戦っているすぐ傍にいたのか。本当に何も見えていなかったのだな。
「……すまない。お主を巻き込んでしまったようだ。なんと不甲斐ないことよ。許しておくれ……」
謝罪の意を込めて手を差し出すと、三毛猫はその手に前足を乗せてきた。柔らかい肉球の感触が手の先から伝わってくる。
「みゃぁ」
三毛猫は短く鳴いた。とたんに儂の心臓がぎゅっと掴まれた気がした。なんて愛らしい動物なのだろう。いや、魔獣なのか? そんなのどっちでもいい。儂はこの子が無事で本当に良かったとつくづく思う。
「……オズヴァルフ殿よ。お主にも迷惑をかけたことを詫びる。すまなかった」
儂は宿敵だった狼に両こぶしを地面につけて深く頭を下げた。これは騎士としての、いやもう騎士ではなかったか、男としてのけじめだ。下げた頭を三毛猫がぽむぽむはたいてきて可愛いが、必死ににやけ顔を我慢する。
狼は謝罪する儂をしばらく眺めている様子だったが、ほどなくして低く唸った。
「えっ、あ、そうですよね。僕が訳すんですよね。え!? 一言一句違わずに!? そ、そんなぁ……」
どうやらオズヴァルフはマシロを通して儂に何か伝えたいことがあるらしい。信じられなかった。十五年間思い続けていた相手から言葉が投げかけられるなど……。
今の儂の目は純粋無垢な少年のように輝いているに違いない。
「えっと……、オズヴァルフからテオドールさんに伝言です。本当にそのまま伝えますよ! あ、あのですね。『我はヒトごときに興味など抱かん。我と戦おうなど思い上がるな!』」
綴られた言葉はなんとも辛辣だった。当たり前だ。儂が一方的にその強さに惹かれていただけだったのだ。しかし、マシロはさらに「『だが……』」と言葉を続けた。
「『最後の二属性魔法。あれだけは忘れないだろう』」
最高の言葉だった。かの狼の記憶に残るならこれ以上の誉れはない。とうに枯れたと思っていた涙が溢れそうだった。
涙を見せまいと顔を下げると三毛猫が顔を近づけてきた。嬉しさと可愛さで挟まれる形だ。逃げ場はない。儂はなんて幸せ者だろう。
幸福を噛みしめていると、一定の間隔で狼が唸っている声が聞こえた。まだ何か儂に伝えたい言葉があるのか! 期待の眼差しを込めて白髪の若者を見つめる。
「えっ? これも言うんですか? あ、はい。その……気を悪くしないでくださいね。えっと……
『か え れ ぇ ~』……だそうです」
狼はずっと一定の間隔で唸り続けている。これは「帰れ」と連呼しているのか?くっ……くく、はっはっはっ! 思わず笑い声が出てしまう。感激の涙が、笑いの涙に変わる。
そうだ、ここは彼らの居場所だ。部外者は立ち去ろう。そう思い、立ち上がってようやく気付いた。
…………む? 剣はどこ行った?
「ハッハッハッハッハ!」
「ドドド!? ちょ、ま!? 危な……いやガチで! ガチで危ないってぇ!!!!」
マシロが慌てて一匹の子犬を追いかける。その子犬の口には抜き身の魔法剣『炎華繚乱』が咥えられていた。剣の柄を咥え、刀身が風を切る様は子犬ながら勇ましさを感じた。
剣を手放したのは十五年来の出来事だった。狼に目を付けられていた訳ではないと分かった今だからこそだが、剣が手元に無くてもなんてことはなかった。剣が無ければ押しつぶされていた「恐怖」はすでに儂の中にはない。
「ほうら、こっちだぞ!」
「わふっ! ハッハッハ!!」
子犬の注意を引くように手を叩くと、子犬は勢いよく駆けてきた。子犬の前面を避けるように空気が動くのが見える。風の魔法か……? あの子も魔獣なのか、面白いのう。
「ひぃいいい! スプラッタぁああ!?」
何やら奇天烈な悲鳴を上げているマシロの声が聞こえた。儂が子犬の咥えている剣で斬られると思ったのだろうが、元王国第一隊隊長を嘗めてもらっては困る。
儂は加速し続けている子犬を拾い上げると、すぐに咥えている剣を取り上げた。たとえどれだけ早くても、一直線の剣筋など見極められて当然である。
「お主にはこの剣は大きすぎるのう。今度別の物で遊ぼうぞ」
腕の中で暴れる子犬を宥めながら、剣を鞘に納める。この剣は儂の不安な心を支えてくれた。だが、もう剣は必要ない。儂の心はこの者たちが癒してくれたのだから。
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