1-12 元騎士テオドール・マーティンの宿敵
「この辺りだろうか……」
森の中の茂みをかき分け進む老齢の男が一人。名はテオドール・マーティン。彼の故郷であるプロパ村が属するオグドアス王国の元第一騎士隊隊長である。十五年前、魔王軍との戦争で自ら前線で戦い、数多の魔物を葬った実力者であった。
戦いから身を引いた後もこの歳まで指導者として後任を育てていた。そしてつい先日、ようやく騎士を引退し、このプロパ村に帰ってきたのだった。
「む……、森を抜けたか」
ある程度現村長に事情を話した後、テオドールは教会から北北西に真っすぐ進んだ地点に向かっていた。その理由はこの村の修道院長のマザー・エリーザの心配事を解決するためである。
彼女はダンジョンに挑みに行ったマシロという者の身を案じていた。ダンジョンは冒険者の領分だったが、魔物との戦闘経験があるテオドールには何も問題がなかった。
ある一匹を除いては……。
(ほう……古傷が疼きよる)
テオドールは自身の右頬を撫でる。彼の顔には幾千の戦いを想起させる傷がいくつもある。だがそれらが目立たないくらいに、唇の端から右耳にかけて裂けている一際大きな傷跡が目を引いていた。この傷はかの戦争で負ったものだった。
傷をつけた主は『烈風の狼』と呼ばれる風の魔法を操る大狼であった。鎧さえも切り裂く風によってテオドールの部隊は壊滅寸前まで追いやられた。しかし、テオドールは大狼の猛攻を十時間以上凌ぎ切り、魔王が倒されるまで大狼をその場に足止めした。
その功績は偉業として称えられた。終戦後、大狼が現れなくなったのは彼のお陰だと称する者もいた。しかしテオドールは確信していた。その戦いで自身は『烈風の狼』に目を付けられたのだ、と。
終戦後もテオドールはたとえ休暇や睡眠の時でも、常に剣を装備し続けていた。時折彼は、魔王を倒された恨みを晴らすべく自身を狙う大狼の気配を感じ取っていたからだ。大狼の襲撃に備え、騎士隊長を退いた後も常在戦場の心構えで日々を過ごしている。
その剣を手放す時、テオドールの戦争は漸く終わるのだろう。
「この洞窟……いやダンジョンだったか」
テオドールは目的のダンジョンにたどり着く。先に来ているはずのマシロはすでに奥に進んでいるのだと推察し、自分もダンジョンに入ろうとした。その瞬間、背筋から嫌な汗がどっと噴き出す。ダンジョンの奥から見覚えのある気配がしたのだ。
「まさか……いるのか、奴が! 今ここに!!」
テオドールの心臓が高鳴る。思いがけない宿敵との再会の可能性に猛りが抑えきれない。ドドド、と心臓の鼓動が自身の外からも聞こえるようだった。ドドドドドドド、さらに心臓の音が大きくなっていく。まるで何かが近づいてくる地鳴りのように。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッッッ!!!!!!!!!
「…………む?」
僕たちは森の中を走っていた。木々や茂みで視界が悪い中、フィーニャは四つん這いで僕の前を疾走している。なるほど、手袋をしていたのは四足歩行でも手を傷つけないためか。
なんて観察している場合じゃない。下着見えてる見えてる! 恥じらいがないフィーニャは下着が見えてもお構いなしだ。後でそういう貞操は教えるとして、今はダンジョンに向かった元騎士についてだ。
――――彼の名はテオドール・マーティン。この村出身の元騎士です。渋みが増していて格好良くなっていましたよ。
教会を出る前にマザー・エリーザに教えてもらった彼の特徴を思い出す。マザーの主観が混じっていて、元騎士だということ以外よく分からなかったが、この村で会ったことがない人間がいたら、きっとその人なのだろう。
もし彼がすでにダンジョンに挑んでいたら? もしレフたちの正体が魔獣だと気付き、交戦していたら? そんな最悪の展開が頭をよぎる。
「マシロ! あのヒトなの!?」
先行していたフィーニャから声がかかる。木々の隙間からダンジョンの入り口が見え、その中に足を踏み入れている背中が見えた。間に合った……と、同時に手遅れだったと察する。
男の奥で砂煙が舞い、一匹の魔獣が突進する地響きが聞こえた。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッッッ!!!!!!!!!
『だれだれだれー? 行くよ行くよ行くよ行くよ行くよ行くよ行くよ行くよー!!!!』
轢き逃げポメラニアン――ドドドが男に向かって全速力で駆けていた。手元にフリスビーのようなドドドの注意を逸らすものはない。村長の息子、ウォーレンのようにまた人が宙を舞ってしまうのか!?
「あ、危ない!!」
とっさに叫んだがもう遅い。高速で駆けるドドドの身体は男に突っ込んでいった。
しかし男はドドドの勢いを円を描くように受け流し、いとも簡単に掬い上げた。
「はっはっは、元気なのはいいことだ。お主、このダンジョンに住んでおるのか?」
『わぁあ!? くるんってなった!くるんって!! すごいすごーい!!!』
間違いない。あのドドドに撥ね飛ばされず、逆に抱きかかえているこの男こそ、元騎士のテオドール・マーティンだ。
「む? 君たちは……、そちらの白髪の方はマシロ殿であろう? マザーから聞いておるよ。儂はテオドールと云う」
豪華な鞘に入った大剣を脇に下げたテオドールはウォーレンと同じくらい体格が大きく、赤黒い髪を後ろに流すように前髪を上げていた。掘りが深く、年季の入った皺が刻まれている顔にはたくさんの傷跡があった。
それら以上に目を引いたのは、大きく裂けた右頬の傷だった。朗らかな声色とは真逆の印象を与える傷跡から、彼は歴戦の騎士だと確信できる。
彼は強者だ。彼の手にかかればこのダンジョンで暮らす魔獣を容易く倒してしまうのだろう。それだけは避けるために彼をこの場から離れさせなればならない。
「は、はい、マシロです……。すれ違いになっちゃってたみたいですね……あ、あの一度戻「何の用なの!!」
相変わらず四つん這いのまま、身を隠すように僕の後ろにいるフィーニャが声を上げる。ふぃ、フィーニャさん! 余り刺激しないようにお願いします!
「儂はマシロ殿の手助けに来たのだよ。そちらのお嬢さんは……二人の趣味に口を出すつもりはないが、何ゆえ……む? その服装、どこかで……?」
四足歩行のフィーニャを見て何か勘違いしているが、話が通じる人物のようだ。適当に理由を付けて、ダンジョンから引き下がってもらおう。
「あの……来ていただきありがとうございます。で、でもこのダンジョンは、ど、動物しかいなかったんです。もうここは、こ、攻略済みです、よ」
僕の背後で『動物』という単語に反応しているフィーニャはさておき、彼は僕の言葉に訝しげの様子だった。吐き慣れていない嘘で挙動不審になっているから当たり前か。
「……すまんのぉ。何故主が儂をこのダンジョンから離れさせたいのか知らぬが、今さっき儂個人の用ができたのだ」
僕の嘘をあっさり見抜き、テオドールはダンジョンの奥を見据えた。中には何匹かの魔獣がこちらを警戒していたが、彼はそれらには目もくれず、奥へと進んでいく。すると、彼に抱きかかえられていたドドドが飛び出し、奥の暗闇に駆けていった。
『わぁー! すごいよーこのヒトー! くるんってなったのー! お師匠さまもやってもらったらー?』
お師匠様……? そう言えば教会でフィーニャが、自分には魔法の師匠がいるって言ってたような……?
ドドドが向かった先の暗闇が不気味に揺れた。暗闇がじんわりと広がる様が、生物がゆっくりと立ち上がった動作だと気付くのはそう遅くはなかった。
テオドールの目の前に立ち塞がったのは、彼の二倍以上の高さを持つ狼だった。
「ハハァ! やはりおったか! 気高き風の魔獣よ!」
その魔獣は一度このダンジョンで目にしていた。ドドドがウォーレンを轢いた後、駆け寄った先にいた狼だ。他の魔獣なら動物と見分けられる程の差異はない。だが、この獣は一目で動物からかけ離れた存在だと認識できるぐらいの威圧感があった。
「さあ、十五年前の戦争の決着を付けようではないか。烈風の狼、『フーロウ』よ!」
テオドールは言葉の勢いのまま、脇に携えていた剣を抜いた。その剣の鍔に填められている宝石と刀身がぼんやりと橙色に光っており、ほのかに気温が上がった気がした。
フーロウと呼ばれた銀色の狼はテオドールを観察するように片方の目で見回している。狼の右目は剣で斬られたような傷があり、ずっと閉じたままだった。
十五年前の戦争、互いの傷、それらから彼らの間にただならぬ因縁があることが察せられた。テオドールは今までの穏やかな雰囲気が嘘みたいに高揚している。まるでこの戦いが待ち遠しくて堪らないかのように。
狼もまた、その静かな瞳に熱い闘志が宿っているような気がした。そして、遂にフーロウは重く閉ざしていた口を開いた――
『誰だ、貴様』
…………あれー?
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