第七十一話 永き道
ジュニアが三歳になりようやく言葉を話し始めたと聞いたときは喜んだ。言葉が遅いのは母親がいないせいかと心配もした。年齢が同じくらいの子供たちと遊ばせるように頼んだ。何人もと遊ぶ中、活発なのはいい……しかしヘンリーの目から見るとどうも他の子たちと違うように見えるのだ。泣き喚く子がいる、癇癪を起す子がいる、それが普通の子供だ。ところがジュニアには『怒』の感情が薄いというか、見えない。気になったヘンリーは、お気に入りの紙の武具で遊んでいるジュニアから剣と盾を取り上げた。
――普通は怒るはずだが……怒らない、泣きもしない、ニコニコしているだけだ。これも甘えられる母親がいないせいか、行く末がどうなんだ……いや、ちょっと待て『俺』に母親がいたか、いない。乳母はいたがジュニアにもいる。父親はいたが肉親らしい付き合いはなかった。共にいたのは祖母だけと言っていい、それも六歳で亡くなった。それに比べてジュニアには父親の俺がいる。母親も離れてはいるが、生きている。それだけでもジュニアは俺より恵まれている。言葉が遅くてニコニコしているだけのぼんくらかもしれないが、活発で体格は良さそうだから武骨一辺倒の者となり、知恵はエズラのような頭が回る者に任せればいい。
ヘンリーはそう思うことにした。
ジュニアが十歳を過ぎると、交流事業の一員として地方へ向かわせた。その頃からジュニアの顔つきに賢さが顕れ、所作には気品が漂い始めた。笑顔一つにこちらがハッとすることがある。親の欲目か、それとも少し期待してよいのだろうか。
十三歳の時、教育係に命じたエズラから、感情を表に出して怒ることもあります、と報告を受けた。集団行動の際に悪影響を及ぼしそうな行為をした者に激昂したそうだ。普段は鷹揚としているが、論理的におかしく、影響が大きくなり、かつ緊急性が高いと思われる行動をすると感情を表に出して怒るらしい。『怒』の感情をクラレンドン領に置いてきたのではないようだ。「成績もとても優秀です。陛下が、言葉が遅いと気にしていたそうですが、サンダー領のシエナ様に問い合わせたところ、陛下も三歳まで話さなかったみたいですよ」と言われた。元乳母もといお手伝いのシエナにまで調査の手を伸ばしたのかと呆れたが、そうか自分は早い時期に話していたと思っていたが、意外だ、父子とも同じだったのかと何となく嬉しい気がした。
十四歳になる年には、予定通りヘンリーの母校、セントラル共和国の旧王立学院、現国立学院へ留学させた。
夏休みには、留学先から戻って来た。しばらく見ないうちに体が一回りも二回りも大きくなっていて驚いた。中庭で友人たちとの剣の稽古も力強いものがある。
しっかりしてきたなあと見ていると、ふと思い出した。
ジュニアが初等部に入学早々、二組に分かれてリレー形式の競争することがあった。その際、奇数で多い組になった生徒が「人数が多い分ウチが不利だ、一人競争から外して員数合わせしないと不公平だ」と言い、ドン臭そうな奴の顔を探そうとした、すかさず少ない組になったジュニアが「僕が二回やるから同じ数になるよ」と言った、という。
また、初等部最終学年の冬、教室に配布する薪の量が少なく午後になるとたいがい寒くなった。薪の在りかを知ったやんちゃな少年たちは少量ずつくすねて教室に隠しては、寒くなるとくべた。先生にばれないわけがない。「やった奴はすぐに片付けろ」と怒鳴った。犯人が誰かはみんなが知っている。ジュニアが最初に片付け始めた。それを見て何人もが手伝いだした。その中には薪をくすねた南国地域の留学生もいた、という。
それらを懐かしみながら、たくましくなったジュニアを見て、
――こいつは俺より王に相応しいかもしれん。
と目じりが下がった……のも束の間、気が付いた。背筋がすっと伸びる。
――王たる器を備えている。これが王家の血っていうやつだろうか。
ジュニアにはルイーズを通して純粋なる王の血が流れている。
成長したジュニアは専門課程の研究科を卒業した。成績優秀の証し、飛び級制度により普通の人に比べると短い就業期間であった。ヘンリーの時は、そんな制度はなかった。共和国になったセントラルが導入し、他国へも広がった。勉学にも効率が重視されヘンリーの頃の『よく学び、よく遊べ』が『よく学び、よく学べ』となっているような気がしたが、時流ならと新生ノース王国での採用を認めた。
二十歳を過ぎたジュニアは、冷静な眼差しに長身で引き締まった身体となり、世に出しても誇れる若者に育った、とヘンリーは頼もしく感じていた。
ちょうどその頃、新生ノース王国ではヒトの交流がますます活発になり、整備された国中の道路のおかげでモノが動き、他国から招いた実業家、技術者に教わった事業の芽が出てカネがどんどん回るようになっていた。
庶民が旅行に出かけ、気軽に外での食事を楽しみ、女性や少年少女たちが普通に夜出歩けるようになった。
ヘンリーはそんな話を聞き、今まで意識して見ていなかったが実際どうなのだろうかと、黄昏時のニューシティを歩いてみた。
大勢の人がいるが、着ている服は粗末ではない、それに一様に下を向いていない。子供の一人歩きは見当たらないが、女性が颯爽と一人で歩いている。幾人もの一人歩きの女性を見かける。彼女たちは、今から家へ帰るのか、誰かと待ち合わせをしているのだろうか。友人同士、恋人同士、家族連れは皆笑顔だ。
――平和と繁栄の息吹を皆が感じている。
ヘンリーは街の様子を眺めながら感慨にふけった。ニューシティの整った街、まっすぐに伸びる道路の果て、山の稜線のその先を夕焼けが染めている。
一つ大きくうなずいた。
ようやくだ。永かったなあ。ついに決断する時が来た。
「本年中に国王の地位をジュニアに譲位する」
ヘンリーはニューシティの城内の大広間で文武の官僚たちに向けて宣言した。
表明した後、当然みんなから慰留された。もちろんジュニアからもだが、ヘンリーは頑として受け付けなかった。
世論は当初「え、そんな馬鹿な。冗談でしょ」「まだまだやれます」「やめないでほしい」との意見が多かった。しかし徐々に「国が落ち着き、平和になった」「国民が明るく健康になった」「誰のおかげか、誰もが思い描くのは陛下の働く姿」「二十年間国民のために頑張られた陛下」「ありがとうございます」「ジュニア様がご立派に成長なされた」との声に変わった。
そしてみんなが折れた。
ジュニアは、最初は早過ぎますと拒否した。そして諦めの表情を浮かべた。最後は覚悟を決めてくれた。
「励めよ」
「分かりました」
ジュニアが覚悟を決めてくれた翌日、時間を取ってほしいと言う。
私室で会うことにした。
「私が、最初に取り込むべき内容は決まっています。先達から教えを請い、僚友たちと話し合いました」
真剣な目で言われた。ジュニアに側近以外の信頼できる仲間がいることは知っている。ヘンリーの広く大勢のいる執務室の一角に席を設けたが、空席の方が多く、在席時は先輩、同輩、後輩を問わず様々な年代の人がやってきて打合せをしているのを見ている。不在時はエズラによると様々な現場に出掛けて『聞き上手』と評判らしい。
「官僚たちは優秀です。でも少しずつタガの外れた者たちも見え隠れしているようです」
良いところを突いている。
「業者との不適切な関係が一部で見受けられます。入札を経ず任意に特定の者や組織と取引しています。贈収賄が疑われるケースもあります。悪いのは本人なのは勿論ですが、問題は、その立場に長年居続けることです」
解決策を述べさせた。
「発注決定者は三年以上同一部署とさせず異動させるようにします」
技術者や専門職は同一の仕事が長くなるが、その点はどう対応するのかを訊いた。
「長期間同一職場にいる人には、装置・機械類の購入や工事依頼の決定権を与えません、今ある人からは取り上げます。三年以上同一部署としない方々も同様です。決定権はありませんが、要求をあげることは可能です。また、どうしてもそのメーカーや業者じゃないと困る場合もあるでしょう。そんな時は、新設する部門『発注管理部』の決定権者に理由を詳らかにしないと認可されないようにします」
発注を誰に依頼するのかを決める権利はなくなったが、発注をする権利自体は持っている。その者たちの中には決定権者より地位の高い人もいる。
「決定権者には権限を与え同時に責任を持ってもらいます」
権力に抗う権利と、もし馴れあってしまった場合は責任を取らせるということだな。これで癒着は防げるだろう。また三年で異動となれば人事の硬直化も防げるかもしれん。
「そして今まで部毎や係毎に直接発注していた事務用品や消耗品などの物品購入も『発注管理部』宛へ注文させ、同部から一括して発注するようにします。もちろん担当員の任期は三年を限度とします」
狙いを訊いた。
「汚職の撲滅が第一ですが、大量購入で価格も抑えられます。また要るかどうか分からなくても念の為購入していたものや予算が余りそうなので購入していたものなどがなくなるはずです」
目を光らせる部署があれば、余分なものは注文しないだろう。私用に幾分か使う分には目くじら立てる必要はないが、私用品を公金で買う不心得者や、横流しを行う不届き者が、表に現れていないだけで水面下に隠れていたらと思うとゾッとする。用心するよう言っておこう。
チェック機能も忘れずにな。
「分かりました。ダブルチェックは怠りません」
それと、緊急時の対応を考えておけよ。
「現場ですぐに必要となる場合などですね」
スタッフよりラインで緊急性の高い事案が発生することをジュニアはよく知っている。
それ以外は、問題なさそうだ。何か不都合があればその場、その時で対応すればよい。
「準備が出来次第、一年以内に実施するつもりです」
基本はそれでよいと了解した。
「ありがとうございます」
ジュニアが礼をして踵を返した。
二十年も経てばいろんな弊害が少しずつ生まれてきているものだ。長年の付き合い、慣れているから仕事がスムーズなのです、と説明され、悪習だと知っていて些細なことと目をつぶっていたこともある。目が曇って来たのやもしれん。ジュニアは問題点を見抜き、改善策を提示してくれた。
――成長した。これなら大丈夫だ。
心の奥底に引っかかっていた薄雲がさっと晴れたような気がした。




