第五十九話 弟・妹
アナベル嬢の浮かべる表情がにこやかというより愛おしむ様子なのに、はたと気がついた。昨日どうしてこの地に来たのかを訊いた答えが『あら、可愛い子たちのために決まっているじゃないの』だった。たちとはヘンリーと部下を指したと思っていたが違っていた。弟、妹扱いのヘンリーとルイーズ王女たちのためであったのではなかろうかと。
しかしヘンリーと王女では身分が違い過ぎる。
駆け落ちでもしなければ結ばれることはない。ひょっとしてこの状態が駆け落ちなのか。いや自分は先にここにいるから後落ち? そんな言葉はないか。
自分がいまだ混乱していることにヘンリーは気づいている。
扉が開くと見知った二人が入って来た。ウォーカーとベーカーだ。
ヘンリーは席を主の位置に移り、二人を左手側に座ってもらった。右手側には先のご令嬢お二方がいる。
「ご用件は無事に終わったと聞きました」
「ええ、問題はどこにもありませんでしたわ」
ウォーカーの言葉にアナベル嬢が応じた。
ヘンリーの困惑は募るばかり。
ベーカーがカバンから書類を取り出してヘンリーの前に差し出した。
「ではこちらにサインをしてください」
手にとってみると、『婚姻届』と記されている。既にサインがある。三か所だ。証人欄にヘンリーの長兄トーマスの名前がある。もう一人の証人はなんと国王陛下だ、先日授かった男爵証のサインと同じ。そして妻になる人の欄に書かれている文字はルイーズと読める。そして夫になる人は空欄。ここに名前を書くということか。
思わず、差し出したベーカーの顔を見る。
「ああ、そうですね。その前に、こちらをお読みになった方がよろしいでしょうか?」
封筒を渡された。裏書きにはトーマスの名がある。開けてみる。
『ヘンリーへ
今、お前は大変な状況に陥っているようで心配している。
先ずは悪い知らせから。マクスウェル家から婚約は白紙撤回すると申し入れがあった。残念ながらルナーゼ嬢とは縁がなかったと思ってほしい。なお、鉱山経営はうまく行きだし、今後の問題はないので安心してくれ。お前の代わりにローガンが係わり、現地で頑張ってくれている。
次は、良いのか悪いのか判断のしかねる話だ。
王宮から突然当家に使者が来た。ルイーズ王女様とお前の結婚話を聞かされ、何がわき起こったのかと、ただただ驚いている。
王女様が何らかのトラブルに巻き込まれたとの話題が王都中を駆け巡っているのは聞いていた。そんな中お前との婚姻話だ。
お前が男爵になったことを聞いて喜んでいた。それが婚約の白紙撤回と王女との婚姻話と、どう関わるのかはわからない。通常子爵家の三男がいくら男爵になっても王女と結婚することはあり得ない。
かと言って当家に拒否権があるわけではない。婚姻届、それも既に国王陛下のサイン済みのものを提示されたので、おとなしく証人欄にサインした。
遠くからではあるが今後の検討を祈っている。
最後になったが体に気をつけてくれ。
トーマスより』
――兄貴よ、お気軽にサインしたってこっちの身にもなってくれ。どうすればいいのだ。
との迷いをおくびにも出さずヘンリーは手紙を閉じた。
「マクスウェル男爵は情報通よ。そして機を見るに敏な方です」
「ご存じですか?」
ヘンリーの問いにアナベル嬢がうなずいた。
「貴方に召喚命令が出る見込みの情報ですぐに動いたそうよ」
召喚命令が出るような男に娘は託せないし、火の粉が自家に飛んできたら困るのも分からんでもない。
「次にこれを見てください」
ベーカーから証書フォルダーを渡された。広げてみる。
『伯爵』と言う文字が目に飛び込んできた。
「これは……」
ベーカーがそしてウォーカーが姿勢を正す。
「「おめでとうございます」」
「ヘンリー、いやもう呼び捨てはできんか。ヘンリー様、伯爵に陞爵です」
ウォーカーの言葉に再度証書を見直す。伯爵証とあり、ヘンリーの名前にも間違いはなく、陛下のサインも先ほどの婚姻届と同じ。手の込んだ冗談ではなく本物だ。
証書を閉じ、顔を上げる。
アナベル嬢はニコニコしたまま。この表情は全てを知っていたことを物語っている。
「伯爵家のもとに嫁ぐ王女は今までも多数いらっしゃるわ」
やはり、陞爵のことも承知の上で、先ほどの芝居に付き合わされていたのか。
はあー。
全て、手のひらの上で転がされていたというわけだ。
「よろしくお願いいたします」
ルイーズ王女の優しい声が天から響いているように聞こえた。そうか、彼女はここへ来るまでに婚姻届を提示され、証人欄のサインを確認し納得した上でサインをしているということだ。嫌ならしないはず。強制されているようでもない。ルイーズ王女に視線を向けると透明度のある潤いに満ちた肌と清らかな表情に目を奪われる。けがれを微塵も感じられない潔白度の高き貴きお方が己の妻に……まさか。
「有頂天になっていてはいけませんよ。ヘンリーしゃっきりしなさい」
浮かれてはいない。ただ、困惑から人の思い通りに踊らされているような気になっただけだ。
「そうですね、王都での新しい情報を聞けば気も引き締まるのではないですか」
そう言ってウォーカーが語りだす。
「アナベル様がクラレンドンへ向かってから、ルイーズ王女を巡るヤジロベエは幽閉に偏り始めました」
幽閉は取りも直さず毒を盛られて病死発表へと一直線になる。
「市民が異変を嗅ぎつけだしたのです」
王宮の情報はどこからとも漏れだすのは常のこと。
「市民が騒げば騒ぐほど中枢部は頑なになり、謹慎や僻地への島流しで済ませるような状況は遠のきました」
中枢部は貴族至上主義者が幅を利かせている。
「警ら総監のクーツ様はルイーズ王女幽閉では暴動が発生する可能性があると考えていました」
クーツ家の情報能力はただものではない。そこから導き出されたものであるなら、当たる確率は高い。
「陛下は、出来得るなら愛娘のルイーズ王女様を助けたいと願っていました」
親心が分かろうというものだ。
「もう紫の能力者だと公表しても中枢部の意見をひっくり返せるような状態ではありませんでした。逆に公表すれば市民がますます騒ぎ、中枢部が依怙地になる雰囲気があったようです」
つける薬がない状態か。
「クーツ様は秘かに陛下とお会いになりました。そして誰にも知られずルイーズ王女様を後宮から連れ出し安全な場所にみんなも納得もしくは仕方ないと諦めてくれるような秘策を立てました」
だいぶ読めてきた。地方貴族への降嫁という手を打つことにしたのではないか。だが短時間で相応しい相手を探すのは難しく、色の付いてない自分に白羽の矢を立て爵位を釣り合わせたということだろう。
「先ずはヘンリー様を伯爵に陞爵させる証書を作成し、婚姻届に国王自らがサインし、それをスミス中佐がハロード子爵家に持ち込みました。トーマス様がサインし、ヘンリー様宛ての手紙をスミス中佐に託されました」
全てに手抜かりなし、だから兄の手紙もあるのか。
「私とベーカーは書類と手紙を受け取ると、後宮から秘かに脱出したルイーズ王女様をお連れしてここまで来たのです」
ルイーズ王女は後宮でも軟禁されていたようだ。ただ女官は別にして侍女は全て味方にしているはず。抜け出すのはそれほど難しくはなかったのではと推測する。
「私たちは昨日の朝一番で王都を出ましたが、予定ではその日の十時にルイーズ王女様のクラレンドン伯爵への降嫁が発表される手筈になっていました」
目算通り、中枢部が仕方ないと諦めてくれればよいが、二人揃って召喚命令が出た日にはたまったものではない。ここは急いで既成事実化した方がよいと思えた。でないと王都が騒乱になり、戦時下の今、敵国に隙を見せてしまうのはまずい。一個人の問題ではなくなる。
「分かった。すぐに婚姻届にサインする」
ヘンリーは王宮用と教会用の二通の婚姻届にサインした。
「大至急届けてくれ」
「お任せください。これを提出し受付けてもらえば正式なものとなり証明書がもらえます。降嫁発表に続いての婚姻の公表となれば、誰も文句の付けようがありません」
降嫁だけの発表で王女がいなくなれば、野合呼ばわりされ難癖を付け召喚命令を出される可能性もあったが、婚姻届を提出すれば証明書がもらえうまく切り抜けられるということだろう。
「すぐに出発します。提出して王都の情報をまたお知らせいたします」
ウォーカーとベーカーが婚姻届を持って退室した。
「ごめんなさい。私のために」
「とんでもない。私たちも召喚命令が出ていたのですから」
ヘンリーはアナベル嬢から、俺ではなく私と言いなさいと指導されている。
「ああ、それはなくなったようよ。出る見込みだったけれど、土壇場で近衛魔術師団長宛てのマシュー君追跡の連絡が間に合い、様子見になったとウォーカーさんから聞いたわ」
「少しは大手を振って歩けるかな」
「そうね。先ずは内輪で披露し、その後、領民へお披露目しましょう」
アナベル嬢は張り切っている。
「そ、そ、それは、えー、ルイーズ王女様が……」
ヘンリーの戸惑いをよそに、ルイーズ王女はキッパリと言う。
「私の気持ちは決まっています。最初に申し上げました通り、ヘンリー様以外の方に嫁ぐつもりはありません」
嬉しいような、恥ずかしいような。ヘンリーは、これはまだ芝居の続き、現実のものとはとても思えなかった。
婚姻届の文字とサイン欄三か所しか見ず、どさくさに紛れて勢いでサインをしたように思うが本当に有効なのだろうか。
ただ降嫁の条件、一つ目の身分違いは伯爵に陞爵した、二つ目の婚約話は白紙撤回された。二人の婚姻の懸案事項がクリアされたということになる。
そしてルイーズ王女はヘンリーのことを憎からず思ってくれているようだ。
――信じられない。
「さあ、忙しくなるわよ」
アナベル嬢の声を遠くで聞いた気がする。




