第四十二話 残り香
「ヘンリー、ヘンリー、起きろ、時間だ」
太い声がすると、布団がはがされた。スミス大尉が呼びかけていた。
そう言えば先ほどか細い女性の声を聞いたような気がするが……。左頬に何故だか手が向かう。鼻腔に一瞬、そこはかとない匂いを感じる。
「支度をしろ、すぐに出発だ」
意識がはっきりしてきた。そうだ今からダスマンとルイーズ王女との交換任務にあたらねば。
「はい」
スミスとヘンリーは用意された馬車で王立劇場を目指した。
御者にパンとスープを渡されたので、ヘンリーは有難くちょうだいした。
「ダスマンが官僚を辞めた原因となった王女様が分かった」
馬車内は二人だけ、内密のことも話せる。
コトリ。ヘンリーの頭が少し動き出した。
「確かネックレスを侍女が宝物庫から持ち出した件ですね」
「そうだ。寝たおかげで頭が少しは回り出したか? 今朝はいつもの切れがなかったがようやく戻ってきたか?」
スミスはヘンリーのことをよくご存じだ。
瞬間、ヘンリーは閃いた。
「まさか」
「そうだそのまさかだ。当時、ルイーズ王女様が紛失したネックレスを着けていたのだ」
「しかし、そのころルイーズ王女様は幼くてそんな指示をしたとは思えません。侍女がよかれと思ってしたことでしょう」
「多分そうだが、ダスマンの側近はそのことを知っていたのだろう」
「だからルイーズ王女様を標的にした」
「状況がそう告げている」
「筋違いな事で仕返しをしてきますね」
と言いつつヘンリーは腑に落ちないものを感じていた。
「たまたまってことは?」
スミスが首を傾げながら、
「うーん、どうだろうか。多分間違いないと思うがな」
と応えた。
「ルイーズ王女様は一般市民にも分け隔てなく接すると評判の方のようだ。子供でもないし分別もあり、成績も優秀だ。今までも頻繁に街中へ出かけ市民とも交流していたようだから護衛も気が緩んでいた可能性がある」
「一番狙いやすかったとは言えませんか?」
「言えないこともないが、王族は他にもいる。護衛は似たり寄ったりだ」
ヘンリーはもっと考えを深めたかったのだが、王立劇場に到着するまでに今からの交換任務の打ち合わせをしなくてはならない。王女の話はそれで終わった。
今から向かう先は王立劇場のそばの王立美術館、部下たちと合流する。
交換現場に隠密の魔術で姿を消して任務に当たる。クーツ警ら総監は明言しなかったが想像はしているだろう。劇場には、午後二時前にあらかじめ入り潜んでいる予定だ。
付き添いのシップ嬢は以前ルイーズ王女の護衛をしており、面識があるので見誤ることはないそうだ。
交渉は先ずシップ嬢が正面出入り口ホールでルイーズ王女とダスマンの交換を要求することになっている。もしそれを受け入れられなければ、決裂覚悟で臨むようだ。
「シップ嬢はダスマンに口添えを頼むから何とかなると言っていた」
ダスマンならすんなり『分かった』と言い一味を説得してくれそうな気がする。
交渉決裂した場合やそれ以外でスムーズに事が進まなければヘンリーたちの出番となる。遠隔からの麻痺の魔術で全員を昏倒させる予定だ。自分たちも麻痺の魔術の影響を受けて倒れた場合でも十分なバックアップ体制を敷いているので思いっきり麻痺の魔術をぶっ放してほしいとスミス大尉に言われた。
「気絶する前に、合図として音系の魔術では人が集まりかねんから、一回だけ強力な水魔法を外に向けて放ってくれ。それから十分経ったら突撃する手はずとなっている」とのことだった。たしかに十分経てば人間は気絶したままだが、麻痺の魔術の影響は消えているはずだ。スミス大尉とは一年もの付き合い、ヘンリーたちの麻痺の魔術をある程度理解している。大尉たち三人は出入り口ホールに留まらず裏口に向かいその場で待機する。ルイーズ王女様を連れた賊たちが交換に応ぜず正面ではなく裏口から逃げた場合の対処だ。そして万が一だが、第一警ら隊の跳ね返りたちが何かしようとしてきたら牽制する役割も担っている。
午後三時。王立劇場出入り口ホールのほぼ中央の観葉植物の後ろでヘンリーたちは、固唾を呑んで隠れていた。ヘンリーは隊長として目で状況を確認する必要があるため、目が利かなくなる隠密の魔術ではなく、気配を消して佇んでいる。ヘンリーの気配を消す技術は気配を察する能力同様秀でている。部下たちはそこまでの力はないので隠密の魔術で姿を消している。何かあればヘンリーが指示を出し、隠密の魔術を解いて攻撃に参加する手筈だ。
「ルイーズ王女様をこの場で解放してください」
シップ嬢の声はよく通る。
「ほお、侍女は解放しなくてよいのか?」
赤い服を着た賊が応じる。
目だし帽の男性っぽい体格の賊が五名と若い女性と三十過ぎと思しき女性が見える。女性の二人はルイーズ王女と侍女であろう。以前拝見した絵姿と似通っている。衣服は王女様らしくきちんとし、侍女もこざっぱりとした装いをしている。二人とも拘束されてはいない。
「一緒にお願いします」
「先にダスマン殿の手錠を外してほしい」
シップ嬢が一瞬躊躇う。
「先んじることはしない」
ダスマンの低くきっぱりとした声は信頼に値する。
「両者が中央まで進み、そこで交換することを約束する」
赤服の賊の言葉にシップ嬢がダスマンの手錠を解錠する。
シップ嬢とダスマンが前に進む。同時に話をしていた赤服の男とルイーズ王女がこちらに向かってくる。王女は伏し目がちながら歩く姿は芯が通り普段通りに見える。侍女が怖怖と後に続く。
俯き加減のルイーズ王女と茫洋としたダスマンの視線が交錯しそうでしない、微妙に絡まらない。
――何だ今のは?
ふとした違和感をヘンリーは抱いた。
中央で立ち止まり、そして無事ダスマンと女性二人が交換された。
「俺たちは裏口から出る。お前たちは正面から出ろ」
悪漢たちがいなくなり、王女たちも正面出入り口から外に出た。
目の前で交換劇が滞りなく行われた。邪魔者もトラブルもなく、そうまるで田舎芝居のようであった。
カチリ。ヘンリーの頭が回転しだした。
王女の俯き加減の仕草、侍女の怖そうな表情、いずれもがわざとらしいのではないか。そして交錯しそうでしない王女とダスマンの視線は故意に合わせてはいなかったように思える。そこから考えられるのは、王女はダスマン一味とは顔見知り、そしてスミス大尉に聞いた幼少期の宝物庫騒動発端元、現在は賢く市井に明るいとの情報から、困ったことに一つの解釈が成り立ってしまう。
想像したくないが王族であられるルイーズ王女自らが望んで人質になり交換条件を出した、という疑惑が浮かび上がる。だから恐れることもなく、このはかりごとが成功すると確信していたゆえの人質芝居だったのではなかろうか。
その切っ掛けが幼いころ自分が着けたネックレスで、犠牲になった人たちがいると耳にし、そして命を絶った方の兄が一警隊長としてダスマン捕縛の大元に居る、と聞いたのかもしれない。さらに官僚を辞したダスマンの過去と今の善行をも知っている可能性が高い。街中に出かけ市民と交流し、賢い王女だと評判のある方だ。
ひょっとして一緒にいた侍女がネックレスを持ち出した本人だとしても不思議ではない年齢だった。侍女の罪悪感と王女の罪滅ぼしから二度と有能なダスマンを自分のために犠牲にしてはならない、刑に処してはならないと思ったのであろうか。
ルイーズ王女のとった行動がヘンリーにはそう読めた。
誘拐されてから今までの短い時間で犯人側の言い分に同調しての演技とは考えにくい。
誘拐のことを今朝聞き、手際の良さに引っかかりを覚えた正体がこれだったのか、と今更ながら腑に落ちた。
かと言って、王族に関わるこのことは公にはできない。口に出した瞬間、不敬と取られかねず、下手に騒ぐと拘束される案件だ。
一連の誘拐騒動はいずれも本物ではない、二つともフェイク、巧みに偽装された架空誘拐だ。
裏口で待機しているスミス大尉が交換の瞬間に一緒に立ち会ってくれていればとヘンリーは歯ぎしりした。事の真贋と今後の対策が練られるのに……、自分一人では手に余りそうな内容だ。
ヘンリーたちは何事もないことを確認した後、正面出入り口から出て王立美術館へ向かった。
シップ嬢に付き添われたルイーズ王女と侍女は王立美術館の別室でアナベル嬢に回復魔法の癒しを受けられたようだ。ほどなく四人は同じ馬車に乗られた。元気そうに見えたのは癒しの魔術のおかげ……ではない、単に緊張から解放されたからとヘンリーには見えた。端から疑って掛かっているからであろうか。
ヘンリーたちは王宮まで護衛として付き従った。
馬車の降車場で待っているとアナベル嬢とシップ嬢がやってきた。
「本日はご苦労様でした」
シップ嬢のよく通る声に全員が姿勢を正す。ヘンリーたち以外にも警ら隊員たちが護衛として動員されている。
「ルイーズ王女様はご無事に部屋へ入られたので、皆さんは通常業務にお戻りください」
「はい」
ヘンリーたち以外の臨時に駆り出された隊員が応えた。
アナベル嬢とシップ嬢が言葉を交わした後、アナベル嬢がヘンリーたちの方を見る。警ら隊向けはシップ嬢、兵士向けにはアナベル嬢が命令を下すようだ。
「ハロード少尉の部隊は警ら隊本部ではなく、近衛魔術師団長室へ向かってください。スミスさんたちもそちらへ向かいます。これで今回の一連の任務は完了です」
ようやく警ら隊への出向業務は終わったようだ。やれやれだが、早くスミス大尉にルイーズ王女の架空誘拐、人質問題について相談したい。
「男爵様」
柔らかな女性の声。振り返ると、アナベル嬢が、きわめて上品な芳芬を残しながら通り過ぎて行った。
――何なんだ。……そうか、アナベル嬢は自分とマクスウェル家の令嬢との婚約話をご存じで、冷やかしたのであろうが、自分が男爵位を継げるかどうかもあやふやなのになあ。
うん? このかすかな残り香に記憶がある。祖母の愛した庭にあったオレンジの花の匂いだ。いやそんな昔のことではない。朝、仮眠室で確かに嗅いだ。
思わずヘンリーは左頬に手をやった。




