第四十一話 花の香り
ユーチスバ監獄での警戒任務が始まる。
一日目、異常なく過ごした。モグラ口はネコの出入り口となっている北の一カ所だけは食堂のおばちゃん方がネズミ駆除のためどうしても必要だというので除き、全て修繕した。
ヘンリーは日中でも気が抜けない、外出はもちろん許されない。マクスウェル家を調べる貴族名鑑は遠いまま。この監獄に罪人貸し出し用の図書はあれど悪用を避けるためか貴族名鑑は置いていないようだ。署長室にはあるらしいが、かの御仁に頼むのは憚られる。
二日目、業者へのダブルチェックが機能しだした。
三日目、四日目とも異常がない。
五日目、裁判のある日の朝、最も警戒が必要な夜番が何事もなく終わった。四日目の午後から五日目の朝までが一番危険だと踏んでいた。二十時間以上気を張り詰めて、ようやく一息つける。ダスマンは十二時半に、裁判所へ向かう。ヘンリーたちはそれまで朝食をとり仮眠をする予定である。
日中組との交替の最中に五日間共に勤務し打ち解けだしたラッセルが慌てた様子でやってきた。
「スミス、ヘンリー大至急本部に来てくれ」と言われた。
「用件は?」
スミスが問う。
「分かっていない。緊急事態とのことだ」
「おびき寄せようという敵の策略ってことはあり得ませんか」
ヘンリーは疑い深くなっていた。
「それはない……はずだ。今日は裁判所へ向かうため人員は通常の倍の態勢をとっているから、三人が抜けても問題はい」
訝しみながらも、あとを部下に任せて、三人は馬で急行する。向かう先は警ら隊本部の総監室。
「ラッセルご苦労。スミス、ヘンリーよく来てくれた」
クーツ総監のほかに男性が一人と女性の姿が二人見える。女性の一人は金髪、総監の娘アナベル嬢である。親娘だからって理由はないはずだが、一瞬戸惑った。それが表情に表れたのか、アナベル嬢に細い目で清新な色香を返された。ヘンリーはまごつく。
そんなことをお構いなしに男性が右手を差し出してくる。
「補佐官のルマンだ。よろしく」
スミスとヘンリーは握手し名乗った。ラッセルとは顔見知りなのだろう、片手を上げるだけでお互いすませている。
クーツが女性二人を見る。
「アナベルは知っているな、こちらは秘書官のシップだ。格式張った挨拶は不要だ」
「シップです。よろしくお願いします」
軽く頭を下げられたのでスミスとヘンリーも同様に応じた。全員が丸テーブルの周りに着席した。
「緊急の魔術師としての対応が必要になったので君たち二人と娘のアナベルにも来てもらった。ダスマンに関わる極秘の緊急任務だ」
アナベル嬢は魔法の能力が高いとスミスが言っていた。その力が必要な任務のようだ。
「ルマン、説明をみんなにしてくれ」
ルマンがうなずき口を開く。
「昨日つまり十月二十九日の午後、複数箇所に同じ内容の手紙が届いた。王宮、警ら隊本部、クーツ家、王立学院長、王立学院研究科長、王立劇場に少なくとも届いた。今のところ判明しているところだ。それ以外にも届けられているかもしれん」
ルマンが封筒と中からそっと取り出した手紙をテーブルに差し出した。
「手紙を読んでくれ」
『ルイーズ王女を預かっている。
返してほしければ、ダスマンを解放しろ。
十月三十日午後三時、王立劇場にてルイーズと交換する。
付き添いは黒髪の女性一人だけを認める。
当日午後二時より王立劇場の裏口と正面口を開けて無人にしろ、正門出入り口から二人だけで入ってこい。
王立劇場にダスマンを三時までに連れて来なければルイーズの命はないと思え。
ルイーズの髪の毛を一本同封した。』
「封筒の中に今も入っている」
スミスが中を覗く。苦々しい顔をし、ヘンリーにも見るように促す。
開いた口から茶色い髪の毛が一本確認できた。
「王宮関係者から、ルイーズ王女は基本四魔法の内、土魔法に最も適性があり、その髪はルイーズ王女本人のものと思われる、と回答があった」
一警の行ったこととほぼ同じ手法を敵は取ってきた。
「やられたらやり返せ」
「目には目を歯には歯を」
スミスの言葉にヘンリーが追加した。
「第一警ら隊のことを知っているのか?」
「……」スミスとヘンリーの目が真っ直ぐルマンを射る。
「彼らは誘拐には手を染めていない」
「……」スミスとヘンリーの視線は動かない。
「そのことはいい、話を続けろ」
クーツが厳しい声を出す。
「はい」
ルマンが咳を一つして改めて話し出す。
「ルイーズ王女様は二日前の十月二十八日の夜、研究科の御友人たちと王立劇場で千秋楽の観劇を楽しまれた後の午後八時、馬車で王宮に向かう予定であった。幕間、いや終演までは確認が取れているが、その後の行方が分からない。馬車にご乗車になられなかったのだ」
その日の晩に劇場で拐かされ、翌日手紙がばら撒かれたということか。
「護衛は何をしていたのでしょうか」
スミスが訊ねる。
「千秋楽で観客が多くて見失ったらしい。二人いた侍女も一人ははぐれ、もう一人は一緒に連れて行かれたものと思われる」
「あの劇は若い女の子たちに人気なの、同じような格好をした令嬢たちで判別が難しかったのかもしれないけれどお粗末ね」
シップ嬢の補足は辛辣である。この方は黒髪、ガタイもたくましさを感じる。ひょっとして付き添いとなる女性であろうか。
「情報によると掏摸騒ぎがあったらしい。それと痴漢騒ぎ、あろうことか護衛が痴漢に疑われた。嫌疑が晴れたころには王女様の姿が見えなくなり、騒ぎ出した女性もいつの間にか消えた。掏摸と騒いだのは王立学院の女生徒たちのグループだ」
用意周到に仕込まれた感がある。
「当日の王女様の予定を知っている人間はどれくらいいたのでしょうか。もし少なければその周辺を捜査すれば見つかりませんか?」
「ヘンリーの言った線は無理だ。王立劇場側に事前に通知している。最初、先方は混雑が予測されるので十分なおもてなしができないと断ってきたらしい。それを一般席でもいいからと通常のチケットで入場したのだ。だから知っているのは劇場関係者全員。全ての人を洗うのは時間的に無理だ」
「そうですよね。今からじゃ居所を捜すのは不可能ですよね」
それは分かる、当たり前のことを何故訊いたのか、別の何か引っかかるものがあるのに……それを訊きたいのに……何だろう、頭が働かない、自分がもどかしい。敵の手際の良さを感服するしかないのだろうか、言いなりになるしかないのだろうか。ダメだ、思考がまとまらない。瞼がすぐに落ちてくる……そうか夜勤明け、飯も食べていないし、ただただ眠い。
「相手には知恵者がいるようですね」
スミスが冷静に応じた。
「全力で行方を追っている」
「手当たり次第ですか」
「たしかに情報がない以上、怪しそうな場所をしらみつぶしに捜すしかない。それと掏摸と騒いだ王立学院の女生徒なのだが、友人たち四名で来ており、厄介なことに全員貴族の令嬢たちだ。各家を訪問しているのだが、昨日の今日では有益な情報が得られるかどうかは難しいところだ」
「私たちもそのお手伝いってことはないですね」
「もちろんだ」
スミスとルマンがやり取りをしているのに、ヘンリーはただ意識をなくさないことだけを注意していた。
睡魔との戦いが限界に近付いている。
クーツが何か話している。昨晩王宮に呼ばれ、ダスマンとルイーズ王女の交換を受け入れざるを得ない、という結論に至ったと言っている。ルイーズ王女のお加減が心配だという上つ方への配慮からアナベル嬢は回復要員で参加することになったらしい。彼女の右に出る回復魔術の使い手はいないという判断があったようだ。
一人だけ認められた付き添いの黒髪の女性は予想通りシップ嬢が行う。
ヘンリーたちの任務は、クーツに「君たちは王立劇場に潜み、確実に交換が遂行されるように支援すること。最悪でもルイーズ王女様を救い出すことだ」と命じられた。
ヘンリーはやたら大声で「はい」と返事をした。そうでもしないと眠気に負けてしまいそうであった。
「ハロード少尉大丈夫か」
ルマンが心配げな声を出す。それに対してスミスが、
「申し訳ない。ヘンリーは夜勤明けでほぼ一日眠っていない。本来この時間で仮眠を取る予定であったのだ」
と申し開きをしてくれた。
「そうか、君たちは監獄で脱獄と襲撃に備えてくれていたのであったな。スミス大尉は問題ないのか?」
「私は日中組だったので体調は申し分ない」
アナベル嬢が口を開く。
「ハロード少尉には仮眠室で休んでもらった方がよいのでは。ここを出発するまでまだ時間がありますわ」
みんなに促され、ヘンリーは仮眠を取ることになった。
シップ嬢にスープを供され啜ると、じんわり人心地がついた。
ルマンに仮眠室に案内してもらう。この朝の早い時間、部屋には誰もいない。ベッドで横になるとあっという間に眠りについた。
優しく頭を撫でられている感じがする。
意識が浮遊する……。
頭皮を直に触れられている気がするのは短く刈られたテオカットのせいか。
「テ……、テ……」
遠くからおぼろげに聞こえる女性の声。芳しい香り……懐かしい……以前庭に咲いていたオレンジの花の周りで嗅いだ。
「テオ……、テオバル……」
声が途切れる。いや声を殺しているのだろうか、喉をつまらせている。
むせび泣いているような気配がする。
額が温かい。
頬が温かい。
濃くなる香り……柔らかな接触感。
ほんの少し明かりが漏れてくる。
また暗がりが戻ってくる。
意識が遠ざかってゆく……。




