第三十五話 兄
翌日ヘンリーは部屋で最近の新聞を読んだ。
報道内容が王家の動向より議会の内容が多く市民派よりになっていると感じた。三面記事の定番『王家の一日』欄がなくなっている。
今までこの国は魔力を持った王家を中心とした貴族が特権階級として存在していた。ところが、ノース公国とイースト公国の独立により、王家の力が弱まり、市民派の力が強くなった。財力を持った市民と魔力をもった市民が誕生していたのだ。貴族だからといって何でも許されるご時世ではない。貧しくなれば市民からお金を融通してもらわなくてはやっていけない貴族も存在するという。力づくで、と思っても相手が自分以上の魔力持ちの場合もある。
爵位も公国の独立以降ずいぶん変わった。元々王国には公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の爵位がある。王の兄弟といえども、優秀な場合に限り一人だけが大公と名乗れるが、その子には継承されない。
公爵は東西南北の四家に限られていたが、北家と東家が公国となり今は西家と南家の二家のみとなっている。
侯爵に至っては、以前は十三家あったが、独立した二つの公国に占領されたか、王家か西家、南家の二公爵家、または侯爵で残っている唯一のサンダー家に吸収された。
王国で領地の自治が認められているのが公爵と侯爵の三家だけである。つまり領地単位でなら王家領では王、大公の次に伯爵が高位となる。
世に認められた実績で叙爵または陞爵される場合も最高は伯爵で、その例が、クーツ家である。始祖が王の弟で大公となり、功績により子が伯爵に叙爵された。ほかにも数家そういう例はあるが稀で通常、王の兄弟でも貴族家の跡継ぎとして養子にならないと爵位は持てない。官僚や軍人となり実績を残しても男爵がいいところで子爵となることも滅多にない。これは元々爵位のない平民出身でも同じで、一般人の最高位は多数の事業を興した業績により、エーイッチ家の子爵叙爵がある。かの人は合本資本という新しい金融システムを考案し『個人の財』ではなく公益に集めた人材と資本を投入し『人々の思い』を残そうとした。その結果が子爵位なのだろう。太い商いをして財を成した家でもせいぜい男爵である。
そう考えるとヘンリーは恵まれているかもしれない。三男でありながら男爵の娘と結婚し爵位を継げるのだ。
トントントン。
「ハロード少尉殿、お手紙が届いております」
固い男性の声がした。
ドアを開けると、『当番』の腕章を巻いた若い兵がいた。昨日のワインを届けてくれた若者ではない。
「おう、ありがとう」
持っている手紙を受け取ろうとした。
当番兵が怪訝な顔をしてヘンリーを見ている。
「ローワン・ヒルと申します。ハロード・ヘンリー少尉殿でありますよね」
差し出そうとしていた手紙を引っ込めている。
「そうだ」
まだじっと見ている。手紙は引っ込めたままだ。視線を追うとヘンリーの頭髪に至っているようだ。ああ、そう言うことか。
「昨日、『ダイニ』で散髪してきた。ニイダという理容師によると『テオカット』というそうだ。髪も染めたのだ」
「『ダイニ』のニイダさんですか。お喋りの三十代の方ですね」
この若い当番兵はしっかり教育されている。本人確認をしてから渡すようにしているのだ。
「ああ、訊いてもいないのにテオ・ベル族の今時のファッション講義を拝聴させられたよ」
ここまで言えば、髪型が変わった本人だと納得してもらえるだろう。
「大変失礼いたしました。一昨日お会いした時の髪型はワイルドでしたが、今はとてもすっきりしており、現代風の『テオカット』がとても少尉に似合っております」
ある程度お世辞が入っているだろうが、気持ちのいい甘言。上手い対応に教育だけでない本人の知恵を感じる。重要な任務も遂行できる能力がありそうだ。
「正しい対応だ。きちんとした仕事ぶり、感服した。ローワン・ヒルだな。覚えておこう」
「恐縮です」
ようやく手紙を渡された。
ローワンは敬礼をして踵を返した。
ヘンリーはドアをロックし、歩きながら手紙の裏を見る。ルナの名前、婚約者からであった。昨日投かんしたばかりなのでその返信ではないだろう。何かあったのだろうか。
椅子に座って封を切る。
『親愛なるヘンリー様へ
返事が来なくてちょっぴりさみしい思いをしております。
多分、最前線にいて手紙を読むどころではないかと存じます。でも今日は特別なことがありましたので、ご報告いたします。
次期当主の兄と二人、ヘンリー様のご実家ハロード子爵家をご訪問いたしました。ご当主夫妻様のお茶会に招待いただいたのです。
――どういうことだ。ルナに兄がいる。それも次期当主と書いてある。俺はルナの夫としてマクスウェル家を、男爵位を継ぐのではないのか。
ヘンリーは混乱しだした。心臓が急速にしぼみだしている。
――待て、落ち着いて最後まで読もう。
ヘンリー様のお兄様である子爵様と奥様、次兄のローガン様ともご挨拶ができました。
皆さまとてもお優しく、緊張していた私もすぐにリラックスできました。
私の兄もお三方と気軽に談笑しておりました。多分、ローガン様の聞き上手に助けられたと思います。気配りのできる素敵なお兄様ですね。
よく手入れされたお庭へも案内していただき、金木犀の香りに癒されました。
ヘンリー様が幼少のころ、過ごした離れも外からですが見ました。趣のある建物ですね。入ってみたかった……、でもヘンリー様のお許しがない限りむやみに入れません。
楽しいひとときを過ごすことができて私もとても嬉しく存じます。
遠く離れた地からご無事をお祈りいたします。
かしこ』
兄たちと楽しいひとときを送れたことはよかった。
長兄はヘンリーが幹部候補生学校に在学している時に結婚した。兄夫妻がお茶会にルナを招待してくれるのはありがたいことだ。それはいいのだが、ルナに兄がいた件だ。次期当主の兄と手紙に書いてある。つまり、ヘンリーがマクスウェル家に婿入りしても当主になれないということだ。
兄は確か『男爵位をもつマクスウェル家の当主から婿入りを望まれた』と言ったはず。兄がだますようなことをするわけはない。
子爵家としてヘンリーがなる予定だった官僚という太いパイプを理由もなしにみすみす手放すことは有り得ない。ここにルナからの手紙があるから、婚約の話は本当のはず。兄はヘンリーの将来を思って薦めたはず。目先の自家の鉱山経営も考えて話を進めたかったことは確かだと思うが、嘘を吐いたと思えない。
ひょっとして婿入りすることは本当で、男爵位を継ぐことはないということなのか。官僚になり強固な伝手を作って子爵家の鉱山経営をする道が、男爵家の婿という名の、武功がなければ最悪どこにも縁故のない単なる肩身の狭い家人になり下がるのか。
官僚の道を止めさせ借金の肩代わりにされた、なんてわけはないだろう。軍隊が質屋で売り手が子爵家、買い手がマクスウェル家という図式が浮かんだ。しかし死ぬ確率の高い軍人にして英霊となれば、借金のカタの意味がなくなる。マクスウェル家も戻ってくることを前提で娘との婚約を持ち出したはず。戻って来なければ、ルナにとっては婚約者と死別という小さなキズになる可能性だってある。いや、貴族令嬢なら次の相手方次第では致命傷にすらなり得る。そう考えると担保代わりではなさそうだ。
……それに、兄も弟を売るような非道な人間ではない。となると何だ。
第二爵位、副次的爵位、それらを総称した複数爵位という言葉を記憶の中から引き出した。
複数の爵位を持つ事例があったはず、たしか伯爵であれば功績を上げた場合、侯爵、公爵には実質陞爵されないため、王家から子爵あるいは男爵位を授け、嫡男以外にその爵位を継がせたという貴族家が過去にあった。が、マクスウェル家の爵位は伯爵でないことは確かだ。伯爵以上の爵位は全て頭に入っている。子爵以下となると数が多いので特徴のある家しか覚えていない。兄に言われたときにせめて貴族名鑑で調べておくべきだった。
抜かったなあ。ほかの方法で複数の爵位を持っている貴族家はあっただろうか。
とにかく貴族名鑑でマクスウェル家の現状を先ず調べよう。どこにあるだろう。図書館に行かないと無理だろうか。ここから最寄りの図書館はどこだ?
確か軍の施設案内図にも載っていたよな。そうだ各師団棟の中に図書・資料コーナーが設けられていたと記憶している。よし魔術師団へ行って貴族名鑑をあたろう。それでも分からなかったら、実家へ行こう。外出許可は実家の子爵家へ行く理由ならば下りるはずだ。昨日も行先欄に床屋、理由欄は必然的に散髪、時間欄に一時間半と書き、最後に署名をすれば簡単に許可が下りた。
実家へ行く理由を訊かれたらどうする?
ご機嫌伺い?
いや、そもそも実家へ行くのに理由が必要なのか?
行ったのはいいが兄が留守だったらどうする?
手紙を書いて問い合わせるか? 誰に、婚約者には訊けんだろう。次兄? いや、長兄のトーマス、現ハロード子爵家当主に訊こう。
だけど手紙だと時間がかかるぞ。最前線に征くと一年、音信が途絶えることだってある。
ダメだ、思考が負の方向になっている。
ヘンリーは気が急いてならない。身だしなみを整え、軍服に着替えて、さあ出かけようとしていた時だった。
トントントン。
誰かが来た。
ああ、こんな時に限って来るんだよなあ。




