第二話 ヘンリー就学前
ヘンリーはおかしなところがある子供だった。
「坊ちゃま、何がしたいのですか?」
「シー、シー」
ぐずるヘンリーにシエナが声をかける。
「シエナ、ヘンリーは用を足したいようですよ」
「え、でも奥様、まだ一歳ですよ」
「この子は既に尿意を感じているようですね。トイレをさせてごらんなさい」
ヘンリーはしっかりとおしっこをした。
二歳を前にヘンリーは尿意と便意を知らせることができるようになった。通常二歳後半から三歳で外せるおしめを一歳にて達成したのだ。
「あー、プー」
それに引き換え、二歳になってもヘンリーは意味のない言葉しか発しなかった。
「あー」「プー」「バア」「ダダダ」「ぎゃうぎゃう」
三歳になっても、ヘンリーからは喃語と言われる意味の伴わない声しか聞こえない。
「坊ちゃまはどうして意味のある単語を言わないの?」
シエナがヘンリーを見ながら首を傾げる。
「そうね、ちょっとばかりほかの子と比べても口が遅いわね。でも大丈夫よ、子供の発達は個人差が大きいのよ、特に男の子は成長がゆっくりだから」
大奥様は冷静だった。
「このまま一生しゃべらないことはないですよね」
シエナの声は心配そうだ。
「まさかそんなことはないわよ」
「どこか悪いところがあるのではないですか。お医者様に診てもらった方がよろしいのではないでしょうか」
シエナの表情がますます不安そうになる。
「ビエーンビエーン、ウェーンウェーン、ワーンワーン」
火がついたようにヘンリーが泣き始めた。
慌てて、シエナが駆け寄り抱き上げる。それを見て大奥様がにっこりとほほ笑んだ。
「問題ないわよ、ヘンリーはきちんと私たちの話を理解しているわ。心配しているシエナを見て泣いたのよ」
それからしばらくしてからのことだった。
「おはようございます、おばあ様。おはよう、シエナ」
きちっとした言葉をヘンリーは話し始めた。そうなると今度は別の驚きが大奥様とシエナにおとずれた。ヘンリーは赤ちゃん言葉と言われる「犬をワンワン、寝るをネンネ、立つをタッチ、靴をクック、外をオンモ」等を一切使わず、大人と同じように話したのだ。さらに五つ上の長男のトーマスに次男のローガンと一緒に絵本を読んでもらっていた時のことだ。王都で実話として有名な物語をトーマスは選んでいた。
「勇敢なリットン青年は、舌を出しよだれを垂らし狂暴化した犬に襲われていた子供たちを見て、助けに入り、やっつけたのだ」
「やった」
ローガンが喜ぶ。
「子供たちは無傷で助かった。でもリットン青年は犬に噛まれていた。犬の状態から狂犬病が疑われた。感染すると助かる見込みはない。そんな犬に噛まれてしまうと確実に狂犬病になる。彼はもう助からないのか」
「えー、そんな、子供たちをせっかく助けたのにリットンは死んでしまうの」
ヘンリーの悲痛な声がする。
「リットン青年は王立学院の生徒会長も務めるほど優秀な人物だ。彼は残念ながら狂犬病にかかっていた。そんな青年を助けようと最新の治療薬が王の命令で試されることになった。治療薬の患者第一号としてリットン青年が選ばれ、彼自身も危険を承知で了解した」
ローガンとヘンリー、二人の子供が兄のトーマスの言葉を、息をのんで待った。
「はじめはリットン青年も苦しんだ。でも彼は我慢した。そして二十日間の治療期間を経て元気になった。リットン青年は見事に回復した。そして助けた子供たちとも再会した。子供たちはみんな喜び勇んで、ありがとうリットンさんとお礼を述べた」
トーマスが弟たちに笑顔を向ける。そしてうなずいてから最後に一言を付け加えた。
「元気になったリットン青年はその後、兵隊さんになって活躍しました。おしまい」
「よかった。面白かった」
ローガンが無邪気に喜んでいる。
「不朽の名作だね」
ヘンリーの言葉にトーマスとローガンがキョトンとしている。
「ふきゅうって、どういう意味?」
トーマスがヘンリーに訊く。三歳児が普通に使う言葉ではない、八歳になるトーマスでも知らない難しい言葉。
「不朽って、時代を超えて未来にまで残るっていう意味だよ。このリットン青年の物語は、末永く読み継がれるって思ったんだ」
トーマスが年上らしくヘンリーを褒める。
「ヘンリーはよくそんな言葉を知っているね。偉いよ」
そうなのだ、ヘンリーは言葉が遅かったが、理解してからでないと話さなかったのではないかと思われるほど、一旦話し始めると難しい言葉も会話の中に混じるのだ。
偉ぶらないヘンリーにトーマスもローガンも優しく接してくれている。兄弟仲の良いことはありがたいことだ。少しでも僻む素振りを見せたり、ケンカをしたり悪さをすれば、事情を聞かれ、大奥様から優しく諭されたり、特大の雷が落ちたりするのだが。その後はシエナが甘いお菓子食べさせるのがお決まりであった。
知識欲が旺盛なヘンリーに大奥様とシエナも絵本と辞書と図鑑が欠かせない。
五歳になったヘンリーへ魔力コントロールの方法を大奥様が教え始めた。幸いなことにヘンリーは誕生から五歳まで真珠を身に着けられた。しかも希少魔法を含めて与えられたすべての真珠の適性を授かっている。
魔法を行使するうえで基本となる魔力鍛錬は、するとしないでは雲泥の差が生じる。さらに鍛錬方法自体にも秘伝がある。大奥様はその秘伝をものにしている。日の出とともに始まる修行は、母屋に住む二人の兄には継承されない。
「この子はちょっと他の子とは違う。教えたこと全てを瞬時に吸収する。一つのことを教えれば十を察しているよう。一の期待を十にして現してくれる」
最近お痩せになった大奥様が溜息を吐く。
「行く末をずっとこの目で見ていたいのだけれど……」
しみじみと続けた。その口調はどことなく弱々しく、無念さが感じられた。
「新しいご本ですよ」
大奥様が文字の読めるようになったヘンリーに絵のついてない本を与え始めた。
「ありがとう」
どんな本でも満面の笑みを見せた。
「ヘンリー様」「ヘンリー様!」「ヘ・ン・リー・様‼」
ヘンリーが本に夢中になると、いくら声をかけても、大きな声で呼んでも全く無反応。
しびれを切らしたシエナが本を取り上げる。
ヘンリーの集中力はすさまじく、取り上げられて初めてキョトンとする始末である。
「全く何回呼ばせるのですか、全く……。食事が冷めてしまいます」
シエナが怒るのも無理はない。そんな日が幾度ともなく繰り返される。
雨の降る日は外で遊べない。もう外は暗くなっている。
「文字が読めるのですか?」
本に熱中していたヘンリーは昼過ぎからまんじりともせず、暗くなっても読みふけっていた。問われると、
「読めるけど」と首を傾げるばかり。
人によって明るさの感じ方は異なると聞くが、ヘンリーの目は光を取り込む感度が抜群に良いようだ。ベッドで横になって大奥様がその様子を寂しさの含む笑顔で眺めていた。
リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。
教会の鐘が厳かに鳴り響く。
ヘンリーが六歳の時だった。
大奥様の遺体が棺に納められている。
王家から、サンダー侯爵家からと神妙な顔つきの弔問客が相次いだ。
「ついに最後の小さき勇者が旅立ったか」
誰彼ともなくそんなつぶやきが漏れ聞こえた。
大奥様は王家とつながる人を主人として子供のころから仕えていたらしい。大陸の北の端から王都を目指して艱難辛苦を乗り越えて主の幼い子供とそれを支えた小さき子供たちの大冒険譚は王都では誰もが知っている有名な逸話である。そこにサンダー侯爵家が少なからずかかわり協力していたそうだ。
「坊ちゃまの将来をとても楽しみにしていたのに」
シエナがそっとハンカチを目に当てた。
ヘンリーの大きなうしろだてが天に召されてしまった。
子爵家の離れは、ヘンリーが望めばシエナとそのまま住まわせるように、と大奥様の遺言があり、それに伴う費用も残されていた。
はじまりの章「完」




