08.恋は盲目
サイスの懸念が現実になったのは、その翌日のことだ。
「ケイト!」
「……マイク様?」
三限目の授業が終わって昼休みに入り、一年の騎士・魔法学科棟から学院の生徒が利用する食堂へと向かうさなか。
一年棟で聞こえるはずのない声に驚き振り返ると、婚約者殿は短く「話がしたい」とだけ言って、こちらの都合もかえりみず早々に歩き出してしまった。
「……なんなんですか、今の?」
「さあ……?」
これには私だけでなく、一緒に食堂へ向かっていたクラスメイト──もとい、義弟の婚約者も呆気に取られたようだ。
愛嬌のある顔を僅かに歪め、生徒の波で消えかけの婚約者殿に向けて、不快げな視線をまっすぐ送っている。
「ケイト様、どうなさいますか?」
「……そうですね。このまま知らんぷりもできませんし、取り敢えず行ってこようかと思います」
「そうですか……」
「ごめんなさい。マイク様との話が終わったら、私もすぐに向かいますので」
「一緒に行けないのは残念ですけれど、わかりました。席を取ってお待ちしておりますね」
私の言葉に彼女はこくりと頷いた。
要求に素直に応じてくれたのは良いものの、ずいぶん気落ちしているようで、普段よりも声のトーンや表情の明るさが低くなっている。
いくら数年後には義姉妹になるからと言って、こうも義弟の婚約者に懐かれるものだろうかと考えることもある。
わざわざ本人に尋ねたり口を出すのもどうかと思うので、結局好きにさせたままなのだが。
……私がソレール家とまったく血の繋がらない養子だとを知っているはずなのに、どうして彼女は慕ってくるのかがてんでわからない。
そんな要素が自分にあるなど思えないだけに、なおさら謎である。
「……くれぐれも気を付けてくださいね」
「? はい」
未来の義妹から気遣わしげな言葉で送り出され、ずんずん先ゆく婚約者殿を追う。
婚約者殿に対してそんなに警戒する必要はあるのかと疑問が浮かんだけれど、サイスにも忠告されたことを思い出し、少しだけ気を引き締めておくことにした。
言葉の殴り合いなら上等だし、手が出てくるならそれはそれでソレール家としては美味しい弱味を握ったことになる。
あれこれと可能性に思案を巡らせつつ中庭の木陰に移動して──
「ケイト」
「なんでしょうか」
「イザベラに嫉妬するのはやめてくれないか?」
「…………は?」
開口一番、あまりにも見当違いな台詞を吐くものだから、警戒は遥か彼方に吹き飛んでしまった。
「嫉妬、とは?」
戸惑いをそのまま言葉にする。
(この人、こんなにおめでたい頭の持ち主だったっけ……?)
私がイザベラに嫉妬なんて、そんなことするはずがないと一番わかっているのは他ならぬ婚約者殿だろうに。
私との仲が冷えきっていることくらい──婚約という契約だけで結ばれた潔白で淡白な関係であることくらい、彼は十二分に理解しているはず。
(……それに)
そうでなくとも、もう五年ほどの付き合いなのだ。
この人は私が他者に嫉妬できるような人間じゃないと知っているからこそ、イザベラとの浮気に走ったのではないのか?
情に厚いということは、裏を返せば情に弱いということ。
婚約者殿はまさにそれで、イザベラはたぶん、そこに付け入って婚約者殿の愛妾になろうとしているのだと思う。
それも貴族の令嬢としては立派な戦略だろうし、私もイザベラを咎めるつもりはない。
だって、ほら。人が幸せになろうと動くのは、非合法な手段さえとらなければ悪いことじゃないはずだから。
「俺と話したあと、イザベラを呼び出したと聞いた」
「はい。その通りです。マイク様の婚約者として、イザベラ様とは一度きちんとお話すべきだと判断しましたので」
「ケイトはその時、イザベラに俺に近づくのをやめろと言ったんだよな。違うか?」
「いいえ、違いません。婚約者のいる男性に近づいて浮名を流されるなど、イザベラ様にとっての不利益にしかならないですから。早いうちにマイク様から離れることが他ならぬイザベラ様のためかと存じます」
あれ、これって婚約者殿と話した時にも言わなかったっけ?
言ったような気がするんだけど、まさか、この人はもう忘れてしまったとでも言うつもりなのだろうか?
(……ああ、そうか、忘れてるのか)
あるいはおぼえていても、意味をきちんと理解できていないのかのどちらかだろう。
そうでなければイザベラと接触なんてしないし、できないし、私の耳に噂が届くこともなかっただろうから。
「それだよ、それ」
「はい?」
「俺は納得していないけど、君は俺の正妻として内定してるんだから十分だろう? ……辺境伯家の地位を使って無理矢理その地位を得た癖に、俺の愛を得たイザベラを排斥しようだなんて厚かましいにもほどがあるんじゃないか」
ぶすくれた顔で腕を組み、フンと鼻を鳴らして婚約者殿は言う。
……の、だけど。
(駄目だこれ色々と勘違いしてる)
取り敢えず、婚約者殿の言い分は理解した。
何をもって彼が嫉妬だなんだと突拍子もないことを言い出したのかも、一応わかったことにしておく。
納得はしていないけど、そうしなければ話が進まないから。
(いや、でも、……えええ…………?)
なんだろうこの、ええと、釈然としない感じとでも言えばいいのか。
非常にもやもやする。
もやもやしすぎていっそ気持ち悪いくらいだ。
まあ、いい。
私の気分など後回しだ。
今この瞬間、それよりも大切なのは──重要なのは婚約者殿の発言なのだから。
私が辺境伯家の地位を笠に着て、彼の婚約者、ひいては正妻の座におさまったと。
今しがたそう言っていたが、……ちょっと意味がわからない。
もともと辺境伯家に縁談を持ってきたのは婚約者殿の家だ。
にもかかわらず、まさかこの人はそれを知らないとでも?
先程の言い方からすると、そうとしか思えそうにないのだけど。
(……まあ、ありえない話ではないか)
まさかなと思ったのはほんの一瞬だ。
婚約者殿も、その両親も、どうにもハミルトン家の名に対するプライドが高すぎるきらいがあるのを私は知っている。
侯爵という高い地位にありながら、他の同じ侯爵家に権力面で劣ることがそうさせるのかもしれない。
とはいえ直接聞いたわけではないので、所詮は憶測に過ぎないが。
そもそも興味さえないから聞く気も起きない。
とにかく、親子揃ってそういった気質を持っているので、ハミルトン侯爵は息子に婚約の経緯、あるいはその目的をきちんと話してはいないのだろう。
……いやでも、普通はわかりそうなものだけどな。
貴族の子どもなら家同士の勢力図や関係性を学んでいるだろうし、そこから察することも──
(ん、……ああ。そういうことか)
それを察することもできないくらい、侯爵や侯爵夫人の教育が偏っていたということなのだろう。
そしてその知識は学院に入学してからも更新されず、強く根付いている……と。
ふむ、そう考えるのが妥当なところか。
この件は手紙で養父に報告しておこう。
いつか養父の役に立つ機会があるかもしれない。
「……仕方がないから、今は君が婚約者を名乗り振る舞うのは許してやる。だけど、それだけだ。俺の恩情によって婚約者を名乗ることを許されていると忘れ、俺の寵を受けようなど……まして、俺の寵を受けるイザベラを虐げようなどしてみろ。俺は君を許さないぞ」
(本当に何を言っているんだろうこの人)
……なんというか、あまりにも見当違いなことばかり言われてしまうと、どう対応していいかわからなくて困るよなぁと。
相変わらずもやもやは消えずに気持ち悪いままだし、……うーん。
「ああ、そうだ」
「?」
「来月生徒会の主催で開かれる夜会だけど、俺はイザベラのエスコートをする。一年の頃もそうしていたし、彼女には俺以外にエスコートしてやるヤツがいないからな」
(うわぁ)
さも当然のように胸を張り、悦に入った様子で言っているけれど、この言い草だとイザベラを侮辱してることに気付いているんだろうか。
……いないんだろうな。
余計なお世話かもしれないが、イザベラは本当にこの人でいいのかと心配になる。
ねじ曲がったプライドさえ除けばそれなりに優良物件だとしても、そのプライドが色々とおじゃんにしている部分もあるし。
例えばそう、今の発言みたいに。