06.恋は盲目
私とサイスが再会し、婚約者殿の浮気現場に遭遇してから一ヶ月が経過した。
改めて振り返ってみると、学院での生活に順応したり、婚約者殿と話し合ったり、イザベラと話し合ったりと最初の一週間こそ慌ただしく過ぎ去ったが、残りの三週間はおおむね平和だったように思う。
特に私の方で問題は起こらなかったし、婚約者殿が浮気をしている……なんて噂も聞こえてこなかったから、事実として平和だったのだろう。
(まあ、そうでないと困るんだけど)
わざわざ私が時間を取り、それぞれと話し合いの場を設けたのはそのためだ。
話し合いでは懇々と、懇切丁寧に理屈を噛み砕いて、少々乱暴な言い方をすれば馬鹿でもわかるように浮気がもたらす不利益を各々に説いてやった。
要するにひたすら理屈攻めをしたのである。
具体的に言うと、話半分に聞き流すようであれば何度でも同じ話を繰り返し、こちらの言い分に不満そうにしていれば徹底的に正論を並べて反論を封じた。
……ちなみに、そのどちらも我が婚約者殿に対して行われたことである。
イザベラは比較的大人しく、真面目に話を聞いてくれたのだが、婚約者殿は始終ぶすくれるばかりでちっとも話を聞こうとしなかったのだ。
聞き流す、反論する、駄々をこねると三拍子揃えて反抗し、挙句の果てには責任転嫁しようとする等、あまりのお子さまっぷりに思わず呆れた。
最終的にハミルトン家の名前と爵位を引き合いに出したことでようやく、渋々……といったところか。
そんなに家が大事なら浮気なんかしなければ良かったのにと、重ねて呆れる。
(本当、婚約って面倒だ)
結婚とは生涯を共にするという契約だ。
あるいは、家同士の繋がりのための契約と言ってもいい。
そして婚約とはそれらの契約の前段階、準備にあたる段階であり、婚約をした時点で擬似夫婦なのだ──と、いつだったかシンクに聞いたことがある。
だからこそ婚約者がいる人間は不貞を働いてはいけないし、婚約者の不貞を許してもいけない。
もし浮気現場に出くわしたり、浮気の噂を聞いたなら、婚約者と浮気相手に相応の対応をしなければいけないのだと。
そう、教えてもらった。
(私は上手く対応できていたのかな)
ふと、そんなことを思った。
いくら冷めきった関係でも、婚約していることに変わりはないからと動いたわけだけど、ああいう対応で──浮気を止めるように働きかけることで正解だったのだろうか。
世間一般において正しい動きはできたのだろうか。
……ソレール家に、迷惑は書けないだろうか。
──君がなんと言おうと、俺はイザベラが好きだ。
婚約者殿との話し合いの時、はっきりと言葉にされた好意を思い出す。
私には一度も向けられたことのない愛の言葉だ。
それほどまでに婚約者殿はイザベラを好いているのだろう──などと、取り敢えず理解はした。
(……した、けれど)
『好き』って一体、なんなんだろう。
☩
「あの、ケイト様。少しお耳に入れたいことが……」
クラスメイトからそう話しかけられた時、まさか、と思うと同時に、やっぱり、とも思った。
なにせあの婚約者殿は、話し合いの席で婚約者相手にイザベラへの愛を告白したのだ。
遅かれ早かれまた動く予感はしていた。
「……こんなに早いのは、流石に予想外だったけど」
時は放課後。
夕暮れ時の棟内──一ヶ月前と同じ廊下から、中庭を見下ろすかたちで一組の男女を観察している。
鍵のかかっている特別教室ばかりの階だけあって、この廊下は相変わらず閑散としていた。
お陰で同じ場所に留まっていても声をかけられることはないし、ひとりごとを誰かに聞かれる心配もない。
観察にはもってこいの穴場スポットだ。
ちなみに、先程から私が観察している男女の正体は言わずもがな、我が婚約者殿とイザベラである。
彼らは人目を憚ることなく並んでベンチに腰かけ、仲睦まじくお喋りに興じている。
ああして語らうようになったのは、恐らくここ二、三日の話ではないのだろう。
だから学年も学科も違う私の元まで話が届いた。
……話が届くほどに、多くの人が周知してしまった。
(あの人は何を考えているんだろう)
浮気をすることで巡り巡って一番困るのはイザベラだと、確かにそう伝えたはずだ。
醜聞によって信頼を損なうのは婚約者殿も同じだが、彼は侯爵家の嫡男だし、既に私という婚約した相手がいる。
だから実家での居場所が無くなることも、結婚に困ることも一応ない。
けれど、イザベラは違う。
彼女は男爵家の生まれで、しかもその上、末に生まれた女の子だ。
醜聞なんてものがあれば家を追い出されるかもしれないし、そうでなくとも結婚相手に苦心する羽目になる。
後妻に入るか、自分よりずっと年上の男に嫁がされるか、修道院に入るか……。
少なくとも、普通の女の子にとって非常に辛い選択を迫られるのはまず間違いない。
(そうなった時、責任を取れるわけでもあるまいに)
彼には私との婚約を解消し、イザベラを正妻に娶るという選択はできない。
私たちの婚約はハミルトン家から申し込まれたものであり、侯爵家の中でも力が弱いことを気にしたハミルトン家がソレール家の力を取り込みたいと考えたのがそもそもの始まりだからだ。
酷なことを言うが、イザベラと結婚してもハミルトン家に旨みは一切ない。
だから私との婚約を解消なんてできないし、イザベラと結婚することもできない。
できたとしても、せいぜい彼女を愛妾として抱えるくらいのものだろう。
(……私は別に構わないけど、養父様たちは許さないだろうな)
自惚れではなく純然たる事実として、ソレール家の方々は私のことを目にかけてくださっている。
だからもし、婚約者殿が愛妾を抱えるという行為に及ぼうものなら、……どういう手段に出るのかは私にもわからない。
少なくとも、正妻に対する不貞行為への報復に動くのは確かだと思う。
それだけは確信を持って言える。
(だって皆、私を『愛している』らしいから──)
「へぇ、ずいぶん面白いことになってるじゃないか」
「! ……サイス」
「侯爵家の嫡男って言うからどんなヤツかと思ってたけど、こうも軽率なことばかりするようじゃあ、やっぱりたかが知れてるな」
物思いに耽っていたせいか、はたまた彼自身の能力の高さゆえか。
物音も気配もなく隣へ現れたサイスに驚き、びくっと肩が跳ねた。
ちなみに当の本人はというと、素知らぬ顔で中庭を見下ろしており、イザベラと歓談中の我が婚約者殿を嘲り嗤っている。
「義兄さんは自分を侯爵の器じゃないとよく言うけど、僕としてはあっちの方がよっぽど向いてないと思うね」
「そりゃあ、サイスのお義兄さんは気が弱いってだけで、本人の能力はとても高いでしょう? 良くも悪くも平均的なあの人とは比べようがないよ」
中庭に背を向け、窓に凭れながらサイスはため息を吐いた。
同じ侯爵家の嫡男ということで、比較対象にサイスの義兄を選んだのかもしれないけれど、……敢えてあの人を選んだことにちょっとした悪意を感じる。
サイスの義兄は現ラヴクラフト侯爵と血の繋がった一人息子であり、婚約者殿と同じく跡取りとして期待されている。
気弱で自虐的な性格をしており、やや精神面が不安定なところもあるが、文武両道の非常に優れた人物だ。
前述の性格は難点であるけれども、沈着冷静で客観的に物事を捉えられるため、社交の面でも困っている様子は見たことがない。
なんだかんだ言って、侯爵としての適性はきちんとあるのだと思う。
そんな人と、特別秀でた点がなければ劣った点もない、言うなれば平々凡々な能力の持ち主である婚約者殿を比べようなど、正直言って性格が悪いとしか思えない。
いや、うん、サイスの性格が悪いのは何も今に始まったことではないけれど、そうは言っても……というヤツだ。