01.必然の再会
養父が困った顔で持ち込んできたのはひとつの釣り書だった。
描かれているのは自分と同じくらいの年頃の少年。
あたたかみのある茶色の髪と瞳が印象的な子だ。
柔らかくほほ笑みを浮かべた姿からは、ふんわりとした純朴で優しげな雰囲気を受けた。
きっと内面も同様、優しくて、清らかで、純真無垢な性格をしているのだろう。
それこそ、この世の汚れなど何も知らないとでもいうように。
心の中で、黒々とした感情がどろりと溢れ出す。
(──いけない)
動いた蓋を元の場所に戻し、すぐに見なかったことにした。
これからもたらされるであろう話を考えるなら、不和を生みかねない要素は早々に排斥して然るべきだ。
たとえなかったことにできなくとも、せめて、深く奥底に隠しておかないと。
職務怠慢してばかりの表情筋に今だけは感謝し、淡々と養父に用向きを尋ねる。
「すまない、ケイト」
養父はひどく気落ちした声で、私への婚約の申込があったことを告げた。
相手は釣り書の少年で、養父曰く侯爵家の嫡男らしい。
嫌なら断ってもいいのだと言われたが、わざわざ私の元まで確認を取りに来るあたり、お相手の侯爵家が断りづらい相手であることは容易に察せられる。
爵位云々の話ではない。何故なら養父は──もとい、ソレール辺境伯家は皇国屈指の由緒正しい血筋だ。その身に流れる血だけでも貴く、そこいらの侯爵家に劣らぬ価値を持っている。
養父自身も皇国至上の存在たる皇帝陛下の側近であり、陛下から非常に重用されているようだ。
だからこそ、私のような厄ネタの監視……こほん、観察を任されているのだから。
つまり、当代陛下の治世において確たる地位を築き上げた養父にとって、よほどのことがない限りは子どもの婚約なんて思うがままということ。
受けるも自由、断るも自由。
いくら養子と言っても、今まで私にそういった話が来なかったのは、そういうこと。
私のあずかり知らぬところで養父が事前にお断りしまくっていたのだろう。
養子である私を溺愛? しているらしいし。
けれど、今回ばかりはそうもいかなかったようだ。
数ある侯爵家の中でも無視できない侯爵家だったのか、はたまた別の理由があるのか。
養父が私に謝ってくるくらいだ。
可能性としては後者の方が高いように思う。
貴族社会にはまだまだ無知な私では、本当の理由なんて計り知れない。
けれど、いわゆる『大人の事情』というものなのだろう。
いくら無知な私でも、それくらいのことはわかるから。
「謹んでお受けいたします」
養父の持ち込んだ縁談を粛々と受け入れる。
自分のような厄介者を引き取ってくれたソレール家に返せるものなんて、考えるまでもなくたかが知れている。
だったら、私が婚約することでソレール家のお役に立てるなら、迷う余地などあるはずがないのだ。
ソレール家には私を使う権利がある。
だから、今回のように使える場所があるならどんどん使って欲しい。
(ああ、でも……)
何度も何度もすまないと謝り、最後までどんよりとした空気を纏って去っていく養父の背中を見ながら、ふと。
今までのように、気軽に幼馴染と会えなくなるのは嫌だなと思った。
☩
残暑が落ち着き、朝晩に肌寒い空気が頬を撫でる季節だ。
もう一ヶ月もすれば秋の匂いがすっかり濃くなって、夏の残り香を掻き消してしまうのだろう。
無論、夏の終わりを寂しく思う気持ちはある。
なにせ、辺境にあるソレール家の領地は大変夏を過ごしやすい気候なのだ。
特に夜がいい。心地よい風が吹いて、寝るにも夜更かしするにももってこいな最高の環境である。
毎年夏になると、夜の過ごし方に悩むのが私の定番だ。
とはいえ、デビュタントを迎えていない小娘がそうそう夜更かしをできるはずもない。
メイドをはじめ使用人や養父母、果ては義弟にまで釘をさされるので、そういう時は大人しく眠ることにしている。
そうでない日は、まあ、お察しの通りだ。
毎年訪れを心待ちにし、過ぎ去っていくのを惜しむ季節。
私にとっての夏とはそういうもので──けれど、今年に限っては寂寥感に勝る高揚感を抑えられそうになかった。
期待している、と言い換えてもいいかもしれない。
何故ならこの秋、私は皇国運営の学院に入学するからだ。
学院とは、十六歳になる皇国の子どもたちが通う学び舎のことである。
男女共学の全寮制で、生徒はそれぞれ適性と希望に応じた学科に入り、卒業までの二年間を過ごす。
学院に通う以上、入学費や授業料、教材を購入するための資金などが必要なため、通える人は自然と限られてくる。
王族や貴族の子どもが筆頭で、あとは商家と騎士家、少し裕福な平民の子どもが含まれるようだ。
要するに、学院とは皇国の将来を担う若者が集まる場所、ということで。
その分教育もしっかりと行き届いており、どこかの貴族のドラ息子が卒業する頃には品行方正の青年になっていた……という話も少なくない。
いっそ不自然さを感じるほどに、学院にまつわる噂は高評価なものしか聞かなかった。
ちなみに卒業後は城仕えをする人、皇国の騎士団に入る人、実家の家督を継ぐ人など様々らしい。
優秀な成績を修めていれば学生のうちにスカウトされることもあるのだから、学院への信頼はそれだけ厚いのだろう。
学院での生活が楽しみかと訊かれると、正確にはちょっと違う。
それでも、私が学院に通うことを心待ちにしていることに変わりない。
(元気にしているだろうか)
数年前に私が婚約してからぱったり交流が途切れ、疎遠になってしまった幼馴染を思い浮かべる。
私と同じ施設で生まれ育ち、侯爵家の養子に取られた子。
私たちはほとんど同じ時期に生まれたので、彼もきっとこの秋に学院へ入学するはずだ。
でも、学科は違う。確実に。
風の噂もしっかり裏取りしたし、この情報は確かだろう。
だけど、学科が違うからと言って、絶対に会えないとは限らない。
同じ敷地で二年間も生活するのだから、最悪すれ違うことくらいあるはず。
それだけでいい。
むしろ、それだけあれば十分だ。
大切な幼馴染が元気にしていることを自分の目で確認できたら、私はそれで構わない。それだけを望みに学院へ通うのだ。
(そういえば──)
私より一年早く入学した婚約者殿は、どうしているだろう。
婚約者らしく細々と続けていた文通が途絶え、かれこれ半年ほど経つのだが。
(……まあ、いいか)
養父は婚約者殿とつかず離れずの関係を築けと言うだけで、仲良くしろと言ってきた試しは一度もない。
たぶん、婚約者殿と親密になりすぎるなという遠回しな注意であり──婚約者殿の家に『何か』あることを言外に伝えるメッセージなのだと思う。
未だ私は人の考えることが理解できないことも多いけれど。
それでも、数年前のあの日、養父が私に縁談を持ちかけた理由はその『何か』だと。
そうわかるくらいには、この数年で私も成長していた。