弥生九日
涙目で 「ありがと」なんて 微笑うから
その儚さが 怖くなったの
僕は意気地なしだ。臆病で、何においても、勇気を出した行動なんてできやしない。
いつだって人に合わせてばかりで、自分の特徴を押し隠してびくびくして、周りに染まることが一番なのだと信じてきた。そうしないと生きていけないくらい、弱虫だった。
そんな僕でも恋はする。
去年に初めて同じクラスになって、彼女のことが、気になって堪らなくなったんだ。
彼女の方はきっと、僕のことなんて、気が付いてもいないだろう。友達どころか、クラスメイトくらいにしか思っていないだろう。
それでも、ふられてしまうことがわかっていても、僕は告白をしようと思った。
別れ。最後。それらの言葉が、臆病な僕に、たった一度の勇気を与えたのかもしれない。
『話があります。今日、学校が終わったら、みどり公園の噴水の前まで、来てはもらえませんか?』
最初は、ラブレターでも送ろうかと思った。
手紙に全てを書いてしまえば、言葉にして伝えるよりも、楽だろうと考えたからだ。手紙ならば、緊張で言葉が出なくなったり、噛んでしまったりすることがない。そちらの方が安心できるし、伝えるには安全だ。
しかしそういったことは、会って直接言わなければ、失礼になるのではないかと僕は思ったのだ。
だから誘いの言葉だけは、手紙として彼女の下駄箱に入れたけれど、本題については何も触れないで、簡単な文章だけで済ませた。
もしかしたら、彼女は来ないかもしれない。
日付も場所も指定してしまった、自分勝手さに嫌気が差す。けれども、そうでもしなければ、いつになっても先延ばしにしてしまうから。
それに、偶然今日は予定が入っていたのだと、自分に言い訳をすることができるじゃないか。
弱気になって、不安になって、もういっそ約束を放ってしまおうかと思う。
どうせ待っていても、彼女は来てくれないのだからと、自分から一方的に誘っておいて、そんな気分になる。
最悪だ。最低だ。僕は、最後に授けてもらった、この勇気さえも無駄と化してしまうつもりなのか。
どうしても不安を拭うことなどできなかったが、一旦家に帰って荷物を片付けると、勇気をもう一度確認し、自分が指定したその場所へと向かう。
みどり公園は、僕の家の近くにある、小さな公園だ。
その中心には、これまた小さな噴水があるのだけれど、他に遊具もないので、遊んでいる子供たちはほとんど見かけない。
しかし彼女もこの辺りに住んでいるはずだから、場所を知らないということはないはずである。
「手紙を下さったのは、あなただったのですか?」
僕がみどり公園へ行くと、もう既に、彼女が待っていてくれているのが見えた。
驚きながらも僕が駆け寄ると、彼女は花のような、美しく可憐な笑顔を僕に向けてくれた。
呼び出しておいて、彼女のことを待たせていた僕を、怒ってはいないらしい。自分の名前も書かずに、下駄箱に入れられていた手紙を、不気味がるようなこともないらしい。
純粋に、話があるというから、その話を聞きに来たのだというように見える。
「はい。突然、あのような手紙、……ごめんなさい」
勇気を出そうとするけれど、それができなくて、俯いた僕はそのまま頭を下げて謝ってしまう。
「あの、僕、君のことが、…………好きでした。良かったら、付き合って、頂けないでしょうか」
「ふふっ。好きでしたって、どうして過去形なの、今はもう好きでないのですか?」
「違う、そういうことじゃ、なくて、今も好きです。君のことが好きです」
「そっかぁ、嬉しいな。だってわたしも、あなたのことが好きなのですもの。けれどもう卒業してしまいますから、学校では会えなくなりますし、今から交際を始めるというのもいかがなものでしょうか」
最初は話をしていても、彼女は僕のことを、揶揄っているだけなのではないかと思った。
好きだと言ってもらえたことはもちろん嬉しいけれど、それを信じることができなかったのだ。
ふられるつもりだったからって、告白しておいて、肯定を疑うだなんて意味がわからないよね。
それに彼女は、好きと言ってくれるくせに、交際という点については否定的な言葉を返してきた。好きだけれど、付き合おうというのは断るだなんて、好きという言葉も嘘だと思っても仕方がないだろう。
僕は彼女が優しいのを知っている。
だから、無理だと斬り捨ててしまうことを、躊躇い”好き”という言葉を付けてくれたんじゃないかと思った。
好きだと言ってくれた後に、断るだなんてことは、嫌いだと言われるよりも苦しいと彼女は知らないのだ。一旦、期待させることがどれほどまでに苦しいか、彼女は認識していないのだ。
ただそれだけのことかと思った。
しかし俯いていた顔を上げて、彼女を見てみれば、その瞳いっぱいに涙を浮かべているじゃないか。
とても嘘だとは思えないような、本当に悲しそうで、どこか悔しそうな表情をしているじゃないか。
「ごめんなさい。きっと卒業後に交際を始めたところで、お互いに出会いだってたくさんあるでしょうし、恋人らしいことなんて、できないと思うんです。あなたはわたしにとって初恋の人だから、一度恋人となった後に、その関係を自然消滅させてしまうのは、あまりにも辛いんです。だから、だからっ、ごめんなさい」
絶対にそんなことはない。僕は君のことだけを想っているし、君も僕のことだけを想ってくれるように、君のために尽くすことを誓うから。
それくらいのことを言えたら良かったのだけれど、僕にはとても無理であった。
どうしたら良いんだろう。
初恋は甘酸っぱい思い出として、記憶の中に封印してしまうのが、正しい選択なのだろうか。
「ありがと」
何を言ったら良いものかと、臆病で優柔不断な僕に、彼女は短くお礼の言葉を言ってきた。
それはたった一言だけれど、彼女の気持ちも、僕の気持ちも、今までの僕たちの思い出も、全てが詰まった重い言葉であるように感じられた。その言葉を受け取ることが、気持ちを通じ合うことに、繋がるのだろうと僕は思った。
けれど涙目のままで、そんなことを言って微笑まれたら、簡単には何も言えないじゃないか。
その儚い姿に、持って来たはずの勇気も、どこかへ行ってしまったようだった。
「自然消滅なんて、させませんから。僕はっ、だれにでも愛を語れるような、そんな器用な男ではありません。君だけなんです。だから、もし僕に好意を抱いて下さっているのなら、お願い、ごめんなさいなんて言わないで、ありがとうなんて……言わないで下さい」
もっと恰好良くしたかったというのに、僕はなんて情けないんだろう。
彼女は壊れてしまいそうな、儚さを感じさせるその微笑みに、涙を一筋滴らせた。
「はい」
彼女はそう答えた。
僕の告白に対する答えなのか、僕のお願いに対する答えなのか。それはわからないけれど、彼女はそう答えてくれた。
「わたしも、あなただけなのかもしれませんね」
溜まっていた涙をぽろぽろと落として、彼女はそれでもまだ、微笑みを崩すことがなかった。
哀しそうな微笑みで、僕に一言「馬鹿」とそう言った。




