099:虚空の逃亡者
その船はたいそう足が速かった。光よりも速く虚空を駆け、遠く離れた星と星を瞬く間に往還した。宇宙を走っている時間よりも港で荷を積んだり下ろしたりする時間のほうが長いと言われるほどだった。
この船の持ち主でもある船長が、あるとき酒場で酔っぱらって放言した。
「おれの船よりも速いものはこの宇宙には存在しない。光だって重力だっておれの船には追いつけやしないんだ」
酒場のすみに一人ですわっていた客が、それを聞いてふらりと立ち上がった。船長の話に付き合っていた男女が、そろってそちらに顔を向けた。その客はぼろぼろになった黒っぽいコートを着ており、顔はコートについたフードのかげになってよく見えなかった。なぜ急にこの客のことが気になったのか、だれもわからなかった。
船長が癇癪をおこした。
「おい、人が話してるのによそ見するんじゃない。くそっ、もういい。興がさめた。帰る」
ふところから出した金貨をテーブルの上に投げ、釣りも受け取らずに店を出ていく。コートの客はしばらくその場にたたずんでいたが、やがてゆっくりと歩いてくると、すすけた銅貨をいくつかポケットから出してテーブルに置き、またゆっくり歩いて店を出ていった。その足取りはあまりにゆっくりとしており、見ていた人々が催眠状態におちいるほどだった。一同はしばらくしてわれに返り、船長のこれからの道行きに何となく不吉な予感をいだいたがそれを口には出さず、飲みなおして忘れることにした。
船長は港に置いてある船に戻った。船は長い円筒形の体を駐機場の地面に横たえていた。側面にあいた出入口を荷運びの人足の群れが緩慢な歩みで出たり入ったりしている。船長は操縦室に入って、当直の船員に荷の積み込み作業の進捗を問いただした。まだ半分も終わっていないという答えが返ってくると、船長は自分が酒を飲んでいたことを棚にあげてどなりつけた。
「このぐずめ、きさまがしっかり監督しないからだ。こんなところで椅子をあっためてないで、現場に行って人足どもの尻を蹴とばしてこい。あと一時間で作業が終わらなかったら、この星に置いていくぞ」
船長はやると言ったことはやる男だったので、船員は泣く泣く自腹で賃金を割り増しして人足を急かし、どうにか船長の言った時間までに積み込みを終わらせた。
今度の仕事は宇宙の反対の端にある銀河まで積荷を運ぶというもので、そんな旅路もこの船であればほんの一日の道のりだった。出発の準備がすむと船長は酒くさい息を吐きながら操縦桿をにぎり、船は空間をねじまげて飛び立った。その様子を港のはずれから見ている者が一人あった。酒場にいたフードつきのコートの人物である。しばらくのあいだ空を見上げて遠ざかる船を眺めていたが、やがてゆっくりと足を踏み出すと、歩いて空の上にのぼって行った。空中をゆっくり歩くその姿は多くの人に目撃されたが、みな一様にぼんやりと見入ってしまって、写真を撮ることすら思いつかなかった。
そして、目的の星に着いて船長がまたしても酒場で鯨飲していると、いつのまにか店のすみにこのコートの人物もすわっており、安い酒を小さなグラスでちびちびとなめていたのである。
船長の後をゆっくりとついてまわりあまつさえ空を歩いてその船を追いかける謎の人物のことは、宇宙のいたるところでひそかに話題になった。やがてその噂が船長本人の耳に入ることになったのは当然のなりゆきだったといえる。
「ほお。おまえがさっきの噂の野郎か」
ある星の酒場で、船長は店のすみで飲んでいるコートの人物の前に立ってすごんだ。相変わらず黒っぽいフードを目深にかぶっており、中にいるのが男か女かさえわからない。噂のことを話してしまった口の軽い酒場女が船長の後ろでおろおろしていたが、もはや手おくれだった。船長は自分をつけまわすやからがいると聞いてひどく腹を立てていた。しかもそいつは自分の船が宇宙の端から端まで飛んだとしても追いついてくるというのだから、腹立ちは二倍になった。こうなっては血を見ずにはすまないだろう。
「おい、何か言ったらどうだ。それとも口がないのか? ちょっと顔を見せてみろ」
船長の手がフードをつかみ、乱暴に剥ぎとった。だが現れた顔をひと目見るなり船長は腰を抜かして後じさった。床を這って相手から遠ざかり、店を転がり出て一目散に逃げてゆく。コートの人物はフードをかぶりなおしてゆっくりと立ち上がると、テーブルに自分の酒の代金を置いて出ていった。店には主人と酒場女、それに客が何人かいて、全員がその一部始終を見ていたはずだが、フードの下にどんな顔があったのかはついに誰ひとり明かすことがなかった。船長は金を払わずに店から逃げ出したのに、店側はしかるべき機関に被害を届け出ることもしなかった。何もなかったことにしたいというかのようだった。
船長は這う這うの体で船に帰り着き、船員たちにただちに出発せよと命じた。例によって荷の積み込みがまだ終わっていないということがわかると、船長は受け持ちの船員をなぐりつけた。
「うるさい、いいからすぐに船を出せ。すぐにと言ったらすぐにだ。今すぐだ」
船員たちはやむなく支度にかかったが、荷運びの人足の退避、船体各部の安全確認、港湾当局への届け出などと手続きが多く、なかなか出発できなかった。そのうちに船長は窓から船の外の様子を見て金切り声をあげ、操縦桿に飛びついた。
「やつがきたぞ。手続きなど構うものか。すぐ出発だ」
船は空間を盛大に歪ませて急発進した。黒っぽいコートの人影がそのあとを悠然と歩いて追っていった。
それからというもの、船長は船を維持する最低限の荷しか運ばなくなった。積んだり下ろしたりに時間を取られるのを嫌ったからである。目的の星に着くとものすごい速さで荷を下ろして積み込み、すぐさままた飛び立つ。船員が少しでも仕事にもたつくとすぐになぐるので、ほどなくみな辞めてしまい、船長が一人で船を動かすことになった。コートの人物は相変わらず付かず離れずついてまわっていた。
そうしていつしか普通の人間なら十回は寿命を迎えているほどの時が流れた。船長はいまだに宇宙のあちこちを飛び回ってコートの人物から逃げている。船はいまでも宇宙でいちばん速いが、満足な整備をしていないのでだいぶガタがきており、突然エンジンが動かなくなることが近ごろ何度かあった。もっともそのときはすぐに持ち直したので何事もなかった。
エンジンが完全に故障して船が動かなくなれば、ついにコートの人物は船長に追いつくだろう。そのとき何が起こるのかは、船長とコートの人物のほかには誰も知らない。
今回イメージした曲は、『モンスターハンターポータブル2ndG』(カプコン、2008年)から、
「怒れる雪獅子/ドドブランゴ」(深澤秀行作曲)です。




