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百曲集  作者: 千賀藤兵衛
94/100

094:思いは百メートルを飛び越える

 強い東風が吹く夜はいつも、私は一晩じゅう窓のそばで過ごした。彼の姿を見ることができるのはそのときだけだから。

 このあたりの海域は昔は陸地だったとかで、いまでも古い高層ビルが水面上に林立している。私の住んでいるビルもそのひとつだが、特殊な構造でもしているのか、風が吹くとやたらに揺れるという性質があり、嵐のときなどは気分が悪くなるぐらい大揺れに揺れる。そのおかげで風の強いときには景色の角度が変わって、北にそびえる廃ビルのかげにもうひとつのビルが見えるようになる。昔の言いかたでは、百メートルぐらいの距離ということになるだろうか。そのビルの私と同じぐらいの高さの窓に、彼はいる。


 その日は昼から風が強かった。私は仕事部屋でひとり業務をこなしながら、夜まで吹きつづけてくれと祈った。

 「やあやあ、仕事がんばってるね」

 部屋に入ってきたのは、このビルを治める国王だ。たかだか人口一万人程度のビルだから、国王といっても雲の上の人ではなく、気のいいおじさんといったふうである。私は信号灯のスイッチから手を離して向きなおった。通信の内容を書き起こした紙を手に取って、国王はたずねる。

 「ふむ、これはどこのビルの話かな」

 「それは南のビルからきた通信ですが、書いてあるとおりさらにずっと南のほうから伝わってきた話です」

 「ビルひとつ倒壊、住民は全滅か」

 「もともとすごく古いビルだったらしいですね。倒壊の危険が大きくなってきたのでほかのビルに移住する方法がないか探してるって内容の通信が、たしか去年一度入ってたはずです」

 「そんなものがあれば苦労はないよねえ」

 国王は紙きれを机の上に放りだした。

 私の仕事は通信士だ。周囲のビルと連絡を取って互いの事情を教え合う仕事である。このあたりにはこんなふうに孤立したビルが数百、もしかしたら千以上もあるのだが、海には巨大な人食いダコだのサメだのが出没するので、泳ぐのはもちろん舟でさえ安全に行き来することはできない。となれば信号灯でモールス信号を打ってやりとりをするしかないわけだ。やりとりをしたところで何かの意味があるというわけでもないのだが、とにかく昔からのしきたりでそうすることになっている。

 「これも深刻そうだな」

 国王は別の紙を取り上げた。それは私も気になっていたものだ。

 「西のビルからの通信ですね」

 「北北東のビルで食料製造プラントが故障、か。この北北東のビルっていうのは、うちのビルから見ると真北なのかな。ということは、あの廃ビルの向こうにあるやつ?」

 「はい」

 つまり、彼のいるビルだ。

 「どのぐらいの影響があるんだろうね。人口が減るぐらいですむのか、それとも全滅しちゃうか。この通信の内容からじゃわからないねえ」

 そのビルの人々にとっては生き死にの問題だが、国王にとってはひとごとなのでいたって気楽に論評している。

 「ところでちょっと話があるんだけど、いま時間だいじょうぶ? つぎの通信はいつだっけ?」

 「つぎは北西のビルとの通信で、二十分後です」

 私はしぶしぶ正直に答えた。国王の用件は見当がついている。いっそつぎの通信が一分後だったら、話は後にしてくれと言えたのだが。

 「前も話したと思うけど、うちの息子の妾にならないかってことなんだ。そりゃ妾というと、昔はあまりいいイメージじゃなかったよ。きみは知識が広いからそういうことを知ってて、それで尻込みしちゃうのかもかもしれないけど、いまは昔とは違うんだからね。きみみたいないい娘さんが、誰とも一緒にならずにいるのはよくないよ、やっぱり。お付き合いしてる人、いないんでしょう」

 「ええ」

 私はしぶしぶ正直に答えた。彼とは付き合っているとは言えまい。

 「だったら、ねえ。親の僕がいうのも何だけれど、うちの息子はまじめな男だし、顔だってそんなに悪くない。ただ、嫁さんの体の具合がよくなくてね。子供をつくるのは難しそうなんだ。ごめんね、こんなことはとっくに知ってるよね」

 噂で聞き知ってはいるが、そんなことを面と向かっては言いにくいので、私は言葉を濁した。国王はかまわず身を乗り出した。

 「それでね、急なんだけれど、今晩息子の予定があいてるからさ。顔合わせがてら一度いっしょに食事をしてみたらどうかな」

 私はさっと窓の外を見た。風がびゅうびゅうと吹いているが、空は晴れわたって雲のかけらもない。いまいる部屋からは北側の景色は見えないが、この天気なら、きっと今晩は私の窓辺から彼の顔を見ることができるだろう。

 食事の誘いをどうやって穏便にことわろうかと考えをめぐらしていると、国王がいきなり言った。

 「ところで、きみのいま住んでる部屋だけど、狭いし、北向きで日当たりもよくないし、目の前にあの廃ビルが立ってるせいで眺めも悪いでしょう。じつはこないだ、上のほうの階で南向きの広い部屋がひとつ空いたんだ。どうかな、引っ越してみない?」

 「いえ、お気遣いいたみいりますが、いまの部屋を気に入っていますので」

 稲妻のごときすばやさでことわってしまってから、こっそり国王の表情を盗み見た。おだやかな、おだやかすぎて嘘くさいほほえみだった。これはどうやら知られているぞ、と思う。どこでどのように漏れたかわからないが、私が彼との逢瀬とも呼べない逢瀬を心待ちにしていることは、国王の耳に入っているらしい。

 「そうか。食事のことも、今晩では都合が悪かったかな。わかった、顔合わせはまたの機会にしよう。息子の件、前向きに考えておいてくれるとうれしいな」

 しゃべるだけしゃべって国王は出ていった。

 ありがたい話だ、と私は思う。ほんとうだ。身分もなく大した美貌でもない女が、妾とはいえ国王の息子と縁を結ぶなど普通では考えられない。そして、じかに会うことすらできない男のためにそのような良縁を袖にするなど、もっと考えられないことのはずだ。それなのに私は迷わなかった。


 仕事が終わると自分の部屋に戻って、手早く夕食をすませた。国王の食卓にのぼるようなものはまた別だろうが、私のふだん食べているのは食料製造プラントで養殖した藻類から作られるビスケットで、栄養はともかく味はお粗末なしろものだ。しかしこんなものでもおなかがふくれるだけありがたいと思えるのは、彼のいるビルの現状を知ったからだろう。

 国王との気詰まりな会話のあとで北西のビルとの通信によってさらに詳しい情報が入ってきたのだ。彼のビルでは食料製造プラントがもともと水面に近い階に設置されていたのだが、ここ数百年ずっと進行している地盤沈下のせいで浸水し、ついに機能停止したらしい。住民は早晩餓死することが確実となり、残りわずかな備蓄食料をめぐって乱闘したり、いちかばちかほかのビルに移住すべくちんけないかだで海に出て人食いダコのえじきになったり、早々に生きる望みを捨てて集団で自殺したりと、凄惨な様相を呈しているという。

 もしかしたら、彼の顔を見るのは今晩が最後になるかもしれない。

 私は窓辺に陣取った。いみじくも国王が評したとおり、狭くて日当たりが悪くて眺めも悪くて、ついでにじめじめしてかびくさい部屋だ。たったひとつのとりえは、風の強いときに北側の廃ビルのむこうにもうひとつのビルが見えること。

 夕日はまだ沈まない。完全に沈むと顔は見えなくなる。不安がひとつ。夕方になってから風が途切れる時間が多くなっている。ときたま吹く風もあまり強くない。このままだと彼の顔を見る前に風がやんでしまうかもしれない。

 風が吹く。彼のビルのへりがちらりと見える。風が弱まる。見えなくなる。

 風が吹く。弱い。ビルはろくに揺れない。

 風が吹く。風向きが変わりはじめている。北からの風では、揺れたところで彼のビルは見えない。

 私はしんぼうづよく窓辺で待ちつづけた。

 風が吹く。東風だ。強い。彼のビルが見えた。彼が見えた。私と同じように窓辺にたたずんでいる。風がやんだ。

 じりじりしながら風を待つ。待つあいだ、彼とのこれまでのことがつぎつぎに思い出された。親が死んで一人になった私がこの部屋に移ってきてつたない裁縫の腕で生活の糧を得ていたころ、ある風の強い夕方にふと窓の外を見て、いつもは見えないビルが見えることに驚き、その窓のひとつにこちらを見ている人がいることに気づいて、なんだかちょっとうれしくなって、手を振ってみたりして、それから風が吹く日はたびたび彼と顔を合わせるようになって、おっと、強い風だ。

 手前の廃ビルのむこうにまたしても彼のビルが姿をあらわす。手元でぱぱぱぱと光がまたたいた。状況に余裕がないせいだろうか、いつもよりせっかちな信号の打ちかただ。私は目をこらして読み取る。

 『シヨクリヨウフ゜ラントカ゛ヤラレタ」コチラノヒ゛ルハモウオワ』

 そこで風がやんだ。ビルがもとの姿勢に戻り、窓からは廃ビルしか見えなくなる。ふたたび風を待つあいだ、さっきの回想の続きに身をまかせた。たびたび顔を合わせるようになってしばらくすると、彼が妙なことをはじめたのだ。それは不規則な間隔で光をぱかぱか点滅させるというもので、なんだろうと思って調べてみたらその正体はモールス信号というものであり、私はつてをたどってこちらのビルの通信士のところに押しかけて、仕事のひまを見つけては信号のやりとりについて教えてもらい、彼の信号が読めるようになって、自分でも信号灯を手に入れて彼に信号を送れるようになって、風の強い夜は夜っぴて二人でおしゃべりを、っと風がきた。

 『ミナミカセ゛カ゛フイタラ』

 そこで風がやんだ。もどかしくてならない。考えてみれば、こうして顔を合わせることさえできなくなるかもしれないなんて、これまで想像もしなかった。私たちの一番の問題はずっと、どうやったらじかに会うことができるかということだったのだ。なんとかしてタコやサメの襲撃を退けてビルとビルの間の百メートルの海面を渡りきることができないか、それだけだったのだ。よそのビルに頼んでエサをまいてタコどもをおびき寄せてもらってその隙に渡ったらどうか、という案を私が出したこともあった。効果が不確実なうえ、協力してくれたビルに対する見返りが用意できないということで立ち消えになったが、これはまだましな案で、彼の出した案なんかはほんとうにひどかった。あっ、突風。

 『トフ』

 信号を読み取れたのは一瞬だった。トフって何だ。大昔にそんな食べ物があったという話を聞いたことがあるが、あれは正確にはトウフというのではなかったか。そもそもどうしてこんなときにいきなり食べ物の話をするのか。もっとも、彼はよく突拍子もないことを言い出す癖がある。そう、いつだったかも自分のビルのがらくた置き場をあさっていてすごいものを見つけたとか言って、それでこちらのビルに、わかった、トフじゃなくて、っと、また風だ。私はとっさに自分の手元の信号灯を操作した。彼も信号を送ってきていた。普通はしないことだが、私も彼もこのとき、自分で信号を打つのと相手の信号を読み取るのを同時にやった。

 彼から来たのは『アイシテル』。まるで別れのあいさつみたいだ。縁起でもない。私が送ったのは『マツテイル』だ。

 それきり風はやんでしまった。すくなくともビルを揺らすほどの風はその晩はもう吹かなかった。だがかまうまい。私は信じて待つだけだ。彼がいつぞや見つけたという一人乗りのグライダーでこちらのビルに飛んでくるのを。


 今回イメージした曲は、『アンチェインブレイズレクス』(フリュー、2011年)から、

 「スローンのティターン」(成田勤作曲)です。


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